セミブレードのアフレコは、来年二月から始まる。
そんな中、朝香はすでに役作りにかなり本腰を入れていた。
夜も更けた、仕事終わりの帰り道。
事務所の車が来るまで少し時間があったので、俺たちは先にスタジオを出て、近くのコンビニまで歩くことにした。
「シガラティの鳴き声、まだ解像度が足りない気がするのよね」
朝香は真剣な顔でスマホの録音アプリを睨んでいた。
「セリフは全て鳴き声。あの一音にどれだけの感情の階調を込められるか……それが全て」
「気合入ってるな」
「期間が空くならその分役を作りこめるもの」
この台詞を聞くのも、もう何度目だろうか。
「ビィビィ……ビィビィビィ」
歩いていると、公園のあたりからセミの鳴き声が響いてきた。
「今の、セミの鳴き声か?」
「こんな真冬に? というか、セミはこんなデフォルメされた鳴き声じゃないでしょ」
朝香と顔を見合わせてから、音のする方へ近づいていく。
ぴったりと張り付くようにしてしがみついている人影があった。
コートを着込んだまま、木にしがみついて頬を幹に密着させている。
「ビ、ビビビィ……」
「……秋毫さん!?」
振り向いたのは、間違いなくムラセミ役の秋毫さんだった。
「あら、翼君に朝香ちゃん。奇遇ですねぇ」
木から離れる様子もなく、秋毫さんは赤くなった顔で挨拶をしてきた。
うわっ、酒臭っ!
「秋毫さん。こんなところで何してるんですか」
「飲み会で、みんな潰れちゃって……酔いたい気分だったから、公園で一人晩酌してたんですよ」
傍らのベンチには、一升瓶と紙コップが置かれていた。
よく見れば、コートのポケットからは栓抜きまではみ出している。
「その状態で木に張り付いてたんですか」
「あっはは、酔っ払うと、なぜかこうなっちゃうんですよねぇ」
どんな酔っ払い方だよ。
というか、この人。飲み会で全員潰すほど飲んでおいて、まだ飲んでたのか……。
「こうやって体を密着させると、木と土の匂いも感じられて、落ち着くんですよねぇ」
秋毫さんはそう言いながら、また木に頬を押し当てて唸り始めた。
その姿を、朝香は食い入るように見つめていた。
「……なるほど。樹木との密着感で、セミとしての発声イメージを補強するのね」
「酔っ払いの発言を真に受けるな」
ひとまず二人を近くのベンチに座らせることにした。
「ちょっと待っててください、なんか買ってきます」
近くのコンビニで、スポーツドリンクを二本とゼリー飲料を見繕って戻る。
「はい、これ飲んでください。ブドウ糖も取った方がいいですよ」
秋毫さんに水とゼリー飲料を渡すと、彼女は驚いた顔をしてから、ふにゃりと相好を崩した。
「ありがとうございます。お金払いますね、PoyPoyやってます?」
「すみません、電子マネーはCM出たとこ以外の使えないので……」
「あー、なるほど。現金で渡しますね」
レシートを渡すと、秋毫さんは財布を取り出して代金を払ってくれた。
「それにしても、翼。酔っ払いの介抱に慣れ過ぎじゃない?」
「俺の仕事がなくなり始めた頃は、母親がよく酔っ払った状態で帰ってきてたからな」
「スゥ――…………なんか、ごめん」
「こっちこそ、気まずくさせてごめんな」
俺の言葉に、朝香は気まずそうに目を逸らした。
俺としては、もう吹っ切れているので気にされるとこっちもやりづらい。
まあ、朝香がそういう部分も気にかけてくれるようになったと喜んでおくか。
「朝香ちゃん、シガラティ役なんですよね」
秋毫さんはゼリー飲料の封を開けながら、さりげなく話題を逸らしてくれた。
「同じセミブレードを演じる私からひとつだけ、アドバイスしましょうか」
「お願いします」
朝香が食い気味に頷く。
「私たちが演じるのはセミブレードであって、セミではないですよ」
その一言に、朝香の目の色が変わった。
「セミ、ではない」
真剣な顔で反芻する朝香を見て、秋毫さんは満足そうに微笑んだ。
ゼリー飲料と水を飲み干すと、秋毫さんはふと遠い目をして夜空を見上げた。
「ふふふ……あなたたちを見ていると養成所で一緒だった子を思い出しますね。あの子も、真剣に役に向き合ってた」
「同期の声優さんですか?」
「ええ。今はもう、全然違う場所で頑張ってるみたいですけど、また一緒に演技できるから楽しみなんです」
それ以上は、何も語らなかった。
秋毫さんはどこか懐かしそうに目を細めると、紙コップに残った酒を一口すすった。
「では、私はこれで。あなたたちも同期を大切に」
酔っている割にしっかりした足取りで去っていく後ろ姿を見送りながら、俺は隣の朝香に視線を戻す。
「……おい、なにやってるんだ」
「いや、まずは形から入ろうと思って」
いつの間にか、木に抱き着いていた朝香は真剣な顔で抱き方を変えていた。
「み゛」
そして、しっくりときたのか、いつものような声で鳴くのだった。