あたしの名前は羽田朝香。
伝説のセミブレード、シガラティを演じることになった天才女優だ。
防音ブースの中は、しんと静まり返っていた。
目の前のモニターには、劇場版クオリティで彩色された完成映像のシガラティが、羽を広げたまま静止していた。
丁寧に描き込まれた刃のような羽は、光の角度によって透けて見える。
テレビシリーズの線画とはまるで違う、圧倒的な密度と説得力。
この絵に、声で負けるわけにはいかない。
意味を持った言葉という武器は一つもない。
あるのはただ、一音の鳴き声だけ。
あたしはアフレコが始まるまで、この一音のためだけに喉を鍛え上げてきたのだ。
「み゛」
自分なりに作り込んできたシガラティで鳴いてみせると、ヘッドホン越しに音響監督の声が届いた。
『ちょっと弱いなぁ……』
「み゛ぃ!」
もう一段、喉の奥から絞り出すように、震えの幅を大きくして放つ。
『うーん、セミすぎる』
予想外の言葉に、思わず瞬きをした。
セミブレードを演じるにあたって、セミらしさを追求してきたつもりだった。
鳴き声の解像度、そのときの感情。
それらを一音に込めたのだが、どうやら音響監督的には違ったようだ。
『セミ成分を抑えて、もっとブレード感が欲しいですね』
「ぶ、ブレード感?」
音響監督の言葉を反芻しながら、頭の中で情報を整理する。
「ただのセミじゃない……刃物のような、鋭さ」
つまり、音の輪郭をもっと硬く、直線的にしろということだろうか。
セミの鳴き声特有の、あの震えるような複雑倍音を削ぎ落として、代わりに何か……そう、鋼が空気を切り裂くような、一直線の響きを乗せる。
脳裏に浮かんだのは、翼の如意棒が空を裂く音だった。
余計なものを一切纏わない、相手を打ち倒す一撃の一閃。
あれを、声に変換できないだろうか。
「わかりました。もう一度、お願いします」
息を整えて喉の奥の筋肉の使い方を変えてみる。
震わせるのではなく絞る。
複雑な音を捨てて、一つの芯だけを残す。
「ミ゛」
自分で聞いても、さっきより硬質な響きになったのがわかった。
しっくりとは来ていない。まだズレが残っている。
セミの成分を削った分だけ、ただの記号になってしまったような薄さ。
うーん、生物としての生々しさが消えるのは致命的よね……。
『あ、今のいいですね。OKです』
「えっ」
『次のカットいきましょうか』
音響監督の声は、あっさりとしたものだった。
自分の中では、まだ検証の途中だったはずなのに通ってしまった。
この違和感を抱えたまま、次に進んでいいのだろうか。
プロとして、現場を止めるわけにもいかない。
監督のOKを信じるべきだ。
頭ではそう理解しながらも、喉の奥には消化しきれない違和感が引っかかっていた。