今日の収録が終わり、ブースを出るとソファーに座り込んだ。
「あ゛―……」
アフレコ自体はそこまで難航したわけでもないのに、どっと疲れが押し寄せてくる。
自分の中で納得がいっていない芝居にOKを出されてしまった。
そのことが精神的にしんどかったのだ。
「お疲れ様ですぞ、朝香氏ィ……」
声をかけられて顔を上げると、川越さんが立っていた。
いつものオタク口調のはずなのに、その表情には珍しく険がある。
「川越さん。お疲れ様、このあと収録?」
「ええ、まあ。前の現場が早めに終わったものでしてな」
萌絵はソファーの端に腰を下ろすと腕を組んだ。
「先程の収録、聞かせていただきましたぞ」
「聞いてたの?」
「早めに着いたものですからな。朝香氏のことなら見る必要はないと思っていたのですが……」
どこか含みのある言い方だった。
「それで、声優のあなたから見てどうだった」
「……ご自身が一番よくおわかりなのでは?」
川越さんはひと呼吸置いてから、真っ直ぐにあたしを見据える。
「あんなの、羽田朝香じゃない」
その声は震えていた。
「音響監督がOKを出したのは、ゲスト声優の芸能人としてのラインで納得がいったから。作品のクオリティを落とさない最低限のラインでしかない」
「……そうね。悔しいけど、アレが今のあたしの声優としての実力よ」
音響監督はあたしのスケジュールを理解したうえで、最善を引き出せたと思ったからOKを出した。
むしろ、あれでも限界までリテイクをした方だと思う。
「なに、それ」
「川越さん?」
「たとえ、声優だとしても芝居は芝居。どんな難しい役でも羽田朝香なら演じ切ってみせる」
川越さんの目に映っていたのは狂気だった。
「羽田朝香はね……芝居において失敗なんてしない。人の心なんてないし、芝居以外のことに心を囚われたりしないし、周囲の人間を芝居の糧としか思っていない。だから、感動で全てを塗り潰すようなすごい芝居をする」
「えっ、いや、ちょ」
ガン決まった瞳で迫られて、つい後ろへ後ずさってしまう。
「こんなところで躓くなんて、羽田朝香じゃない」
「川越さん。落ち着いて……」
「私は……! ずっと楽しみにしてた。あなたと演れる。私如きの努力なんて踏み躙って、最高の芝居を見せてくれるって……!」
「そんな、無茶な」
若手トップクラスの演技派声優。
それが川越萌絵だ。
確かに、あたしは自分の芝居に絶対の自信を持っている。
だからといって、声優としてキャリアを積み重ね、結果が出るまで努力した彼女を一回の演技だけで追い抜けるわけがない。
「無茶を通して道理を引っ込める天才女優が、私如き追い越せなくてどうするの?」
「私如きって……」
川越さんはすごい声優だ。
まだ高校生だというのに、数々の名作で主役を務め、人外から妖艶な女性、少年まで演じられる芝居の幅も広い。
彼女のファンは大半がアイドル性ではなく、その演技力を評価している。
「川越さんはすごい芝居のできる声優で――」
「私を評価するなァ……!」
川越さんの瞳が更にガン決まる。
「あたしが十年近く追いかけてきた背中は、もっと硬質で、もっと近寄りがたい。こっちを振り向くことなんてないし、こんなゴミみたいな私を踏み躙って更に高いところに手を伸ばす。それが……羽田朝香って、天才女優だァ」
狂気で濁ったその瞳には、あたしは一切映っていなかった。
「ミ゛」
あまりの恐怖にちびりそうなったのは内緒である。