とにかく曇る天才女優の幼馴染!   作:サニキ リオ

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第210話 だから、立ち上がりなさい――千両役者、両賀千三郎!

「おい、老いぼれ。その程度か?」

 

 病室の空気が、止まった。

 千三郎さんが、ポカンと口を開けている。

 

「弱音を吐くことなんて許されない。あなたは日本の芸能界を背負って立つ役者なのだから」

「朝香、お前……」

 

 決して、病人に向かって告げる言葉ではない。

 それは朝香もわかっているのだろう。

 千三郎さんに見えないように握りしめた拳が震えていた。

 

「だから、立ち上がりなさい――千両役者、両賀千三郎!」

 

 その言葉はまっすぐに千三郎さんを貫いた。

 朝香はずっと千三郎さんの体調を弟子として心配していた。

 そして、それ以上に役者としての千三郎さんが死んでいくのを恐れた。

 

 何よりも大切なのは役者としての在り方。

 どんなに大切なモノができても、決して一番になることはない。

 師匠の命ですら、それに含まれる。

 

 それが朝香の千三郎さんに対する敬意であり、朝香自身の業でもあった。

 だから、俺も黙って見ているわけにはいかない。

 朝香の傍にいたいと願い、自身も役者である以上、業を受け入れて進むのだ。

 

「千三郎さん。これはチャンスですよ」

「チャンス、だと?」

「体調を崩して療養中で逃げたと思われるなら、その逆をやればいいんですよ」

 

 何故、千三郎さんが炎上したか。

 それは彼が圧倒的な強者だからだ。

 

 日本で最も有名な俳優であり、億単位で稼いでいる。

 二回り下の元モデルと結婚した経歴。

 若者からの好感度も高い、人気者。

 

 日本で一番何もかもを持っている男、それが両賀千三郎なのだ。

 

「映画公開の舞台挨拶で、点滴に繋がれながら作品のために人前に立つ姿。それを見せれば、制作陣に圧をかけたなんて戯言は消し飛びます」

 

 日本人あるあるだが、日本人は判官贔屓(ほうがんびいき)の者が多い。

 弱者や可哀そうな立場の人間、つまり多くの苦労をしている人間には肩入れしたくなるのだ。

 

「命を削って作品に貢献する。あなたが積み上げた役者としの姿勢を見せつけてやるんです」

「翼。あたしに人の心ないだの、バケモノだの、セミだの、散々言ってくれたけど、あなたも大概じゃない」

 

 隣に立つ朝香からジトっとした視線を向けられた。

 

「でも、役者としての師匠の姿としては解釈一致ね。それを見せれば一発逆転よ」

「苦難の中、必死に立ち上がる姿は人を惹きつける。24時間テレビがコンテンツとして成り立っているのが答えだ。病気や障害は最強の盾なんですよ」

 

 数秒の沈黙のあと、千三郎さんの肩が小さく震えた。

 

「……ふっ、くくっ……」

 

 笑い声が、少しずつ大きくなっていく。

 

「だっはっはっは! ゲホッ、ゴホッ!」

 

 咳き込みながらも、千三郎さんは笑い続けた。

 弱弱しくなっていた身体が、いつの間にか、大樹の輪郭を取り戻している。

 ひとしきり笑ってから、千三郎さんは目尻を乱暴に拭った。

 

「まったく、弟子に説教される日が来るとはな」

「師匠の受け売りです」

「ああ、そうだったな」

 

 千三郎さんは、布団の上のスマホを手に取った。

 

「さっそく監督と打ち合わせしなきゃな。あと先生ともだ」

「じゃあ、あたしたちはこれで失礼します」

「お大事になさってください」

「おうよ!」

 

 病室を出ると、廊下は静まり返っていた。

 扉が閉まる音がした瞬間、朝香の膝がかくんと折れかけた。

 

「み゛……」

 

 壁に手をついて、なんとか踏み留まっている。

 さっきまで役で押さえ込んでいたものが、全部こぼれ出してきたのだろう。

 

「ほれ、朝香」

 

 俺は、手に持っていたペットボトルのキャップ緩めて差し出した。

 病室に入る前に、自販機で買っておいたミルクティーだ。

 

「いつ買ったのよ」

「入る前に。多分いるだろうと思って」

「ありがと……ねぇ、あの言い方でよかったと思う?」

 

 顔を上げないまま、独り言のように呟いた。

 千三郎さんの容体がよくないことくらいわかる。

 その状態で立てと言ってしまったことを気にしているのだろう。

 

「俺は、あれ以外なかったと思う」

「そう、かしら」

 

 朝香は、ようやく顔を上げた。

 目元が潤んでいるのは、見なかったことにする。

 

 朝香はミルクティーを握りしめたまま、病室の扉を一度だけ振り返った。

 扉の向こうから、まだ千三郎さんの笑い声が微かに聞こえてきた。

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