「おい、老いぼれ。その程度か?」
病室の空気が、止まった。
千三郎さんが、ポカンと口を開けている。
「弱音を吐くことなんて許されない。あなたは日本の芸能界を背負って立つ役者なのだから」
「朝香、お前……」
決して、病人に向かって告げる言葉ではない。
それは朝香もわかっているのだろう。
千三郎さんに見えないように握りしめた拳が震えていた。
「だから、立ち上がりなさい――千両役者、両賀千三郎!」
その言葉はまっすぐに千三郎さんを貫いた。
朝香はずっと千三郎さんの体調を弟子として心配していた。
そして、それ以上に役者としての千三郎さんが死んでいくのを恐れた。
何よりも大切なのは役者としての在り方。
どんなに大切なモノができても、決して一番になることはない。
師匠の命ですら、それに含まれる。
それが朝香の千三郎さんに対する敬意であり、朝香自身の業でもあった。
だから、俺も黙って見ているわけにはいかない。
朝香の傍にいたいと願い、自身も役者である以上、業を受け入れて進むのだ。
「千三郎さん。これはチャンスですよ」
「チャンス、だと?」
「体調を崩して療養中で逃げたと思われるなら、その逆をやればいいんですよ」
何故、千三郎さんが炎上したか。
それは彼が圧倒的な強者だからだ。
日本で最も有名な俳優であり、億単位で稼いでいる。
二回り下の元モデルと結婚した経歴。
若者からの好感度も高い、人気者。
日本で一番何もかもを持っている男、それが両賀千三郎なのだ。
「映画公開の舞台挨拶で、点滴に繋がれながら作品のために人前に立つ姿。それを見せれば、制作陣に圧をかけたなんて戯言は消し飛びます」
日本人あるあるだが、日本人は
弱者や可哀そうな立場の人間、つまり多くの苦労をしている人間には肩入れしたくなるのだ。
「命を削って作品に貢献する。あなたが積み上げた役者としの姿勢を見せつけてやるんです」
「翼。あたしに人の心ないだの、バケモノだの、セミだの、散々言ってくれたけど、あなたも大概じゃない」
隣に立つ朝香からジトっとした視線を向けられた。
「でも、役者としての師匠の姿としては解釈一致ね。それを見せれば一発逆転よ」
「苦難の中、必死に立ち上がる姿は人を惹きつける。24時間テレビがコンテンツとして成り立っているのが答えだ。病気や障害は最強の盾なんですよ」
数秒の沈黙のあと、千三郎さんの肩が小さく震えた。
「……ふっ、くくっ……」
笑い声が、少しずつ大きくなっていく。
「だっはっはっは! ゲホッ、ゴホッ!」
咳き込みながらも、千三郎さんは笑い続けた。
弱弱しくなっていた身体が、いつの間にか、大樹の輪郭を取り戻している。
ひとしきり笑ってから、千三郎さんは目尻を乱暴に拭った。
「まったく、弟子に説教される日が来るとはな」
「師匠の受け売りです」
「ああ、そうだったな」
千三郎さんは、布団の上のスマホを手に取った。
「さっそく監督と打ち合わせしなきゃな。あと先生ともだ」
「じゃあ、あたしたちはこれで失礼します」
「お大事になさってください」
「おうよ!」
病室を出ると、廊下は静まり返っていた。
扉が閉まる音がした瞬間、朝香の膝がかくんと折れかけた。
「み゛……」
壁に手をついて、なんとか踏み留まっている。
さっきまで役で押さえ込んでいたものが、全部こぼれ出してきたのだろう。
「ほれ、朝香」
俺は、手に持っていたペットボトルのキャップ緩めて差し出した。
病室に入る前に、自販機で買っておいたミルクティーだ。
「いつ買ったのよ」
「入る前に。多分いるだろうと思って」
「ありがと……ねぇ、あの言い方でよかったと思う?」
顔を上げないまま、独り言のように呟いた。
千三郎さんの容体がよくないことくらいわかる。
その状態で立てと言ってしまったことを気にしているのだろう。
「俺は、あれ以外なかったと思う」
「そう、かしら」
朝香は、ようやく顔を上げた。
目元が潤んでいるのは、見なかったことにする。
朝香はミルクティーを握りしめたまま、病室の扉を一度だけ振り返った。
扉の向こうから、まだ千三郎さんの笑い声が微かに聞こえてきた。