アフレコも終わり、試写会も乗り切り、公開前企画の動画も全て出し終えていた。
俺たちにできることは、ひとまず全部やった。
その日の夕方、俺と朝香は事務所の稽古場で、久しぶりに何もしない時間を過ごしていた。
台本もスマホも置いて、床に座り込んでいるだけ。
役者が稽古場で何もしないのは、考えてみれば贅沢な話である。
「千三郎さん、容体はどうなんだ」
「安定してるって、このまま回復してほしいところね。師匠にはまだまだ教えてほしいことがたくさんあるんだから」
まだ退院の目処は立っていない。
それでも、顔色は先月とは比べ物にならないくらい良くなっていた。
医者が頭を抱えているという話も聞いている。
「結局、あたしたちにできるのは、公開日を待つことだけね」
「待つのも仕事のうちだよ。あとは、観客がどう受け取るかだ」
朝香は、ごろんと床に寝転がって天井を見上げた。
「あー、本っ当に疲れた。いろいろ起こり過ぎでしょ」
そのとき、稽古場の扉が控えめにノックされた。
「颯爽登場! お疲れ様ですぞー」
顔を覗かせたのは、萌絵だった。
手にはマッグの紙袋が提げられている。
「差し入れですぞ。拙者、アフレコ帰りに寄ってきましたからな」
「ありがとう。ちょうどお腹空いてたのよ」
朝香が身体を起こして紙袋を受け取り、三人で床に円になって座り、袋を開けた。
「マッグを食べるのも久しぶりね」
「楽屋でお高めの弁当とかオーベルジークのカレーばっかり食べてたからな」
「お二人は現場でも好待遇ですからなぁ」
ひとしきり食べたところで、萌絵がハンバーガーを置き、背筋を伸ばした。
その空気で、これから真面目な話が始まるのだとわかった。
「……朝香氏、翼氏。少し、よろしいですかな」
「どうしたの、改まって」
朝香が居住まいを正す。
萌絵は一度、深く息を吸った。
それからオタク口調を外して、素の声で話し始めた。
「この前は、ありがとう。二人のおかげで、自分の役者としての在り方を見つめなおせた気がする」
「俺たちは何もしてないよ」
「してくれたよ」
萌絵は膝の上で、両手を重ねる。
「歌も、トークも、イベントも。ずっと、芝居以外のものは余計だと思ってた。全部、無駄な回り道だって」
その声は、もう震えていなかった。
「でも、違った。全部、今の私を作ってくれた糧だった」
「……そうね。あなたの芝居には、あなたが歩んできた道の全部が入ってたわ」
朝香が、静かに頷く。
「だから、決めたんだ。これからは、芝居以外のことも、今まで以上に全力でやる」
「いい顔してるな」
「そうかな?」
萌絵は照れたように笑った。
「それとね、朝香さん」
「何?」
「私、ずっと朝香さんを盲目的に信じてた」
萌絵は、まっすぐに朝香を見た。
「これからは違う。私の信じる朝香さんじゃなくて、私を信じてくれたファンを信じる」
稽古場の空気が、静かに澄んでいく。
「私の芝居を見て、泣いたり笑ったりしてくれた人たちがいる。私が勝手に作った理想より、そっちのほうがよっぽど確かだった」
それは、拗らせた同期が出した、彼女自身の答えだった。
朝香はしばらく黙っていたが、やがてふっと口元を緩めた。
「あたしは、あなたの理想の羽田朝香じゃないわ」
「うん、もう知ってる」
萌絵は、泣き笑いのような顔で頷いた。
「今は素の朝香さんも、嫌いじゃないよ」
「……なら、よかったわ」
朝香はそう言いながら目を逸らした。
どうやら照れているようだ。
「映画公開は、まだ一ヶ月以上あるのか」
「長いようで、短いわね」
「あっという間ですぞ」
萌絵はいつのまにか、いつものオタク口調に戻っていた。
「ねぇ、この映画、ちゃんと届くかしら」
「届くさ。やれることは全部やった」
「根拠は?」
「あの現場にいた全員の芝居だ。それ以上の根拠はないだろ」
「そうね。それ以上は、ないわね」
俺の言葉に、朝香は笑顔を浮かべた。
「と・こ・ろ・でぇ、拙者今回のことで朝香氏の厄介オタクは辞めましたが、新たなターゲットを見つけたのですぞ」
「新たなターゲット?」
朝香がきょとんとした表情になる。
「フヒヒ……翼氏ィ! 拙者、貴殿にメロメロですぞい!」
萌絵は恋に落ちた乙女の表情ではなく、悪戯を思いついた悪ガキのような表情だった。
まさか、お前……。
「み゛」
「キャッキャ」
「遊ぶな。ハッピーセットじゃないんだぞ」
キャラクターの名前、由来コーナー
川越萌絵:可愛い声、萌えアニメ(初期設定だと深夜アニメばかりやってて不満に思ってるキャラだった名残)
秋毫乃々未:酒豪、飲み
株地由羽:カプ厨
千野辺万華:千変万化