俺の名前は両賀千三郎。本名は灰瀬優一朗。
日本一有名な俳優と呼ばれて久しいが、いまは病院のベッドの上で天井の染みを数えている身だ。
病室には西日が差し込んでいた。
点滴の管はまだ腕に繋がったままだが、顔色は先月よりだいぶマシになったと、鏡の中のジジイも言っている。
「失礼します、千三郎さん」
扉を静かに開けて入ってきたのは、田中騎志だった。
スーツの上着を腕にかけ、いつもの柔らかな笑みを浮かべている。
「おう、騎志。わざわざ悪ぃな」
「いえいえ、近くまで来たもので。お加減はいかがですか」
「見ての通りだ。元気そのものよ」
「みたいですね」
苦笑しながら騎志が椅子に腰を下ろす。
この男は、いつ見ても腰が低い。
だが、ただの人の好い社長ではないことを、俺は知っている。
若い頃は自分も役者として現場に立ち、その後はマネージャーとして、タレントの泣き笑いを一番近くで見てきた男だ。
だから、現場の人間が何に困り、何に救われるのかを、肌でわかっている。
数字しか見ない事務所の社長なら腐るほどいるが、現場に寄り添える社長は少ない。
「大丈夫だ。先生にも、このペースなら夏には一時退院できるだろうよ。映画の公開日には、這ってでも出てやるつもりだ」
「止める役は、翼君に任せましょう」
「勘弁してくれ。俺ァあいつには敵わねぇんだ」
軽口を交わしたあと、病室に静けさが落ちた。
遠くで、ワゴンを押す音が聞こえる。
切り出すなら今だと思った。
俺は天井を見たまま、口を開く。
「騎志社長。まず、謝らせてくれ」
「千三郎さん?」
「俺のせいで、お前んとこのタレントに迷惑をかけた。朝香も翼も、本来なら必要のない火消しに、時間と体力を使わせちまった」
点滴のない方の手を布団につき、深く頭を下げた。
病院着の下で、自分の背中がやけに薄く感じられた。
「申し訳なかった」
「顔を上げてください」
返ってきた声は、驚くほど穏やかだった。
「迷惑だなんて、思っていませんよ。あの子たちは、自分の意思で動いた。むしろ、いい経験をさせてもらったくらいです」
「だがよ……」
「千三郎さん」
騎志は、ニコリと笑った。
「ナイトプロがここまで続けてこられたのは、あなたの後ろ盾が大きかった。まだ名前も知られていない頃から、現場で何度も、うちの名前を出してくださっていたでしょう」
「……そんなこともあったか」
「ありましたよ。一つ一つ、全部覚えています。その恩を返せるなら、あれくらいの騒動、安いものです」
顔を上げると、目頭が熱くなっていた。
年を取ると涙腺が緩んでいけねぇ。
「お前は、昔から変わらねぇな。人が良すぎる」
「社長業には向いていないと、よく言われます」
「向いてるさ。だから、あの二人も安心して暴れられる」
ふっと息をついてから、窓の外へ目をやった。
夕陽が、病室の壁を橙色に染めている。
「で、だ。今後の話をしたい。朝香と翼のこと、そして、お前さんの事務所のことだ」
「はい」
騎志の表情が、経営者のものに切り替わった。
「ナイトプロは今後、朝香と翼君だけに頼る形から脱却したいと考えています」
「だろうな」
「うちは少数精鋭でやってきましたが、二人の負担が大きすぎます。仕事が舞い込むのは嬉しい悲鳴ですが、あの子たちは高校生です。学業もあります」
「朝香なんざ、役作りを優先しやがるからな」
「翼君も、似たようなものです」
騎志は苦笑しながら続ける。
「あの子たちの代わりはいません。ですが、あの子たちだけが柱では、事務所として脆い。もう一本、二本、芯のあるタレントを育てなければならない」
「妥当な判断だ。事務所ってのは、一人の天才に乗っかってる間は楽だが、その天才が折れたら終わりだ。俺も、このベッドの上でそれを嫌というほど思い知った」
俺の個人事務所である両賀芸能事務所には、所属が二人しかいない。
俺と息子の優二だけだ。
俺が倒れた途端、事務所に舞い込む仕事は止まった。
残された優二に、仕事が来るわけでもない。
個人事務所の脆さを、自分の身で味わったばかりだった。
「だから、お前の考えには賛成だ」
言葉を切って、腹をくくる。
「その上でな、騎志。一つ、提案がある」
「提案、ですか」
「ああ。うちの放蕩息子を、引き取ってくれねぇか」
騎志の動きが、ぴたりと止まった。
「……優二君を、ですか」
「そうだ。あいつを、ナイトプロに預けたい」
予想外だったのだろう。
しばらく黙っていたが、やがて慎重に口を開いた。
「それは、とてもありがたいお話です。ですが、優二君はあなたの事務所の所属です。どうして、うちに?」
「理由は二つある」
指を一本立てる。
「一つ目は、うちの個人事務所じゃ、あいつは殻を破れねぇってことだ」
「殻、ですか」
「ああ。あいつは、ガキの頃から大事にされすぎた。俺も、妻も、事務所の連中も、みんなだ」
自分の声が、思ったより静かに響いた。
「優二のことは誰もが本気で叱らねぇ。〝千三郎さんの息子さんだから〟ってな」
思えば、随分と歳食ってからできた子だから俺も必要以上に可愛がっちまったもんだ。
「その優しさが、あいつの素質を腐らせた。その〝周り〟の一番先頭にいたのは、この俺だ」
拳を握ると、点滴の管が小さく揺れた。
「あいつにはな、芝居の素質はあるんだ。声の通りも悪くねぇ。身体の作りも悪くねぇ。知識だって人一倍ある。ただ、悔しさだけが育たなかった。悔しさのねぇ役者は、伸びねぇんだよ」
苦笑が漏れた。
「二つ目の理由は、今回の騒動だ。あいつがコネで役をもらってたことが、俺の炎上の火種の一つになった。あいつ自身も、それをわかってる。見舞いのときも病室に入りづらそうにしてたよ」
「優二君が……」
「俺の目の前では、いつも通りヘラヘラしてやがったがな。あいつなりに、堪えてるんだろ」
騎志に向き直る。
「だからこそ、今だと思った。厳しい世界で、一から揉まれてほしい。お前のところなら、朝香と翼がいる。あの二人の背中を、毎日近くで見られる。それ以上の環境は、日本中探してもねぇ」
「……責任重大ですね」
「重てぇ頼みなのは、わかってる。迷惑だと思ったら、断ってくれて構わねぇ」
「断りませんよ」
即答だった。
迷いのない答えに、思わず目を見開く。
「ただし、優二君本人の意思も必要です」
「そこは心配すんな。俺が、言って聞かせる」
口元を吊り上げ悪役っぽく笑ってみせる。
「あいつが嫌だと言ったら、病室から引きずってでも説教してやる。こっちはまだ、口だけは達者なんでな」
「それは頼もしいですね」
騎志もつられて笑う。
二人の笑い声が、夕暮れの病室に静かに響いた。
ひとしきり笑ってから、改まって右手を差し出す。
「騎志社長。うちの放蕩息子を、頼む」
「お預かりします。必ず、いい役者に育てます」
騎志は、その手をしっかりと握り返した。
その手は、現場を歩いてきた人間の手だった。
いつも本作を読んでいただきありがとうございます。
セミブレード編はここまでとなります。
次回からは新章突入するので、お楽しみに!