朝香ちゃんのマネージャーである愛夏さんから共有されたスケジュール表を開いて、俺は思わず二度見した。
早朝からCM撮影、ドラマ撮影、雑誌のインタビュー、ラジオ収録。
それが一日のスケジュールにギッシリと詰まっている。
未成年がやっていい仕事量じゃないだろ、これ。
社長と愛夏さんは、朝香ちゃんの叔父と叔母なのに、容赦ねぇ……。
翼君のスケジュールもなかなかだったが、こっちは次元が違う。
ちなみに、愛夏さん曰く、これでも調整している方とのことだ。
朝香ちゃん自身が成績上位を維持しつつ、本人もやる気満々で体調を一切崩していないということも大きいのだろう。
対する俺の予定表は、ほぼ真っ白だ。
「優二君、朝香をお願いね。車の中でしか休めないから、できるだけ静かに走ってあげて」
この人経産婦で社長夫人なのだが、見た目が中学生くらいにしか見えないんだよな……。
「はい。任せてください」
愛夏さんに頭を下げて、運転席に乗り込む。
車内で待っていたのは、後部座席に収まった朝香ちゃんだった。
「……おはようございます」
「おはようございます」
返ってきたのは、それだけだった。
朝香ちゃんは台本に視線を落としたまま、顔も上げない。
エンジンをかけ、ゆっくりと車を発進させると、沈黙が車内に満ちていく。
気まずい。とにかく気まずい。
朝香ちゃんのことは、昔から知っている。
親父の弟子ということもあって、俺にとっては妹みたいなものだった。
ただし、向こうが俺を兄のように慕ってくれたことは、ただの一度もない。
思い出すのは、冷たい視線ばかりだ。
俺の芝居を見るたびに、朝香ちゃんは何も言わずに目を細めた。
怒鳴られるより、ずっと堪える種類の視線である。
バックミラーを、そっと確認する。
朝香ちゃんは台本の一行を、指でなぞっていた。
邪魔はしちゃいけないと判断し、俺はひたすら運転に集中した。
ブレーキは静かに、カーブは丁寧に。
付き人としてできることをするしかない。
「……運転、うまいんですね。初めて知りました」
「えっ」
信号待ちになったタイミングで、朝香ちゃんが口を開いた。
「揺れないから、文字が読みやすいです。ありがとうございます」
それだけ言って、朝香ちゃんはまた台本に戻った。
「……そりゃ、どうも」
かろうじて絞り出した声は、我ながら情けなかった。
それきり、車内はまた静かになった。
現場に着いて、車を停める。
今日の現場は、海辺のでの撮影だ。
アクティオンというスポーツドリンクのCMとのことだが、ちょっとマイナーなんだよな、このスポドリ。
後部座席のドアを開けると、朝香ちゃんが静かに降り立った。
その瞬間、空気が変わった。
「羽田さん、おはようございます!」
「朝香ちゃんちゃん、おはよう!」
「今日もよろしくお願いします!」
スタジオの入口から、人が溢れるように寄ってきた。
プロデューサー、商品の担当者、広告代理店の人間。
名刺を差し出す者、握手を求める者、一言挨拶をと群がる者。
翼君のときとは、まるで違う。
翼君の周りには、〝人柄に惹かれた人間〟が集まっていた。
だが、これは違う。
ここに集まっているのは、朝香ちゃんという〝金の成る木〟の周りに、寄ってきた連中だ。
もちろん、それがすべてではないだろう。
純粋に尊敬している人もいるはずだ。
それでも、人の数と熱量が、桁違いだった。
「おはようございます。本日はよろしくお願いいたします」
朝香ちゃんは、柔らかく微笑んだ。
さっきまで車内で台本を睨んでいた顔とは、別人のようだ。
名刺を受け取り、一人ひとりの目を見て、言葉を返す。
「あー、エナジードリンクのCM担当されてましたよね。SNSでも話題沸騰じゃないですか」
「新しいアクティオン。朝のランニングのお供に最高でしたよ!」
朝香ちゃんの言葉に、大人たちが揃って顔をほころばせる。
その輪の外側で、荷物を運んでいたスタッフにも、朝香ちゃんは自分から声をかけた。
「おはようございます。今朝は早くからありがとうございます。クマができてますけど、お体には気をつけてくださいね」
「あ、ありがとうございます!」
名前を呼ばれた若いスタッフが、背筋を伸ばして頭を下げる。
朝香ちゃんと翼君で明確に違うのは、周囲の反応だ。
翼君には、親しみが向けられていた。
朝香ちゃんには、親しみに加えて、畏れが混じっている。
誰もが、彼女の機嫌を取ろうと振る舞っていた。
そして、それを朝香ちゃんが柔らかい態度で返すことで、周囲が安心する。
なんというか、明確に上下関係ができているように見える。
羽田朝香という優しくも絶対的な権力を持つ女王の下に、現場の人間がいる。
そんな印象を受けた。
スターと呼ばれる人間は、こういうふうに扱われるのか。
親父の現場で、似た光景を見たことはある。
改めて、この子は親父の弟子なのだと実感させられてしまう。
俺は、何か一つでも親父から受け継いだものはあったのだろうか。