今日のCMはスポーツドリンク。
内容は、全力で走り切った直後に、ボトルを呷って「生き返る」と呟く、それだけだ。
衣装の制服姿に着替えた朝香ちゃんが立つのは、波打ち際だ。
ここまでで走り込んだという設定で、息を切らした状態から芝居を始めるらしい。
本当に走らせるのか、と思って周りを見回したが、それらしい準備は何もない。
朝香ちゃんはスタッフと軽く打ち合わせをして、所定の位置に立った。
それから、ゆっくりと目を閉じる。
彼女は、ほんの数秒、肩の力を抜いて、その場に立っているだけ。
何をしているんだろうと思った、次の瞬間だった。
ふっ、と息が漏れ、肩が上下し始めた。
額には、だんだんと汗の粒が浮かんでくる。
あっという間に汗だくになった朝香ちゃんの首筋が、赤く上気し始める。
「そろそろか……本番、お願いします!」
タイミングを見計らった監督の声が響き、カメラが回った。
「……は、っ……」
喉から漏れた声がかすれ、膝が笑っている。
立っているだけで限界と思わせる体の重さが、見ているこっちにまで伝わってきた。
朝香ちゃんは、その場から一歩も動いていないのに、数十キロくらい走り込んだ直後の体が、そこにあった。
俺は、息をするのを忘れていた。
これが、羽田朝香のメソッド演技。
メソッド演技自体は、知識として知っている。
感情や体験を呼び起こして、体の反応まで再現する技術だ。
しかし、目の前で起きていることは、俺の知識では説明しきれない現象だった。
滝のようにかいている汗は本物。
演技で汗や涙を出せる役者はいるが、一瞬でここまでの量を自然に流せる人間を、俺は知らない。
朝香ちゃんが、手に持っていたボトルを、きちんとカメラに商品名が映る角度で掲げる。
震える手でキャップを開け、一気に呷る。
喉が大きく上下して、口の端からスポーツドリンクが一筋こぼれて、顎を伝う。
「ぷはぁ……っ、はぁ……生き返る」
掠れた呟きが、波の音の中でもはっきりと聞こえた。
「カット! オッケーです!」
監督の声で、ようやく息が戻ってきた。
俺だけじゃない。
スタッフ全員が、羽田朝香という女優に釘付けになっていた。
現場に、一拍遅れた拍手が起きる。
朝香ちゃんは、肩で息をしながら、ふっと表情を緩めた。
「ありがとうございました」
朝香ちゃんが波打ち際からこっちに戻ってきたため、タオルを持って駆け寄る。
「お疲れさん」
「どうも」
受け取ったタオルで、朝香ちゃんが汗を拭う。
もう、さっきまでの息切れは嘘みたいに収まっていた。
切り替えの速さまで、規格外だ。
「……今の、どうやったんだ」
思わず、聞いてしまった。
朝香ちゃんが、じっと俺を見る。
「別に、難しいことはしてないですよ」
意外にも、朝香ちゃんは素直に答えた。
「頭の中で全力疾走しただけです」
「頭の中でって……まさかメソッド演技だけじゃなくて、強力な自己暗示で自律神経をコントロールして肉体の反応を強く引き出したとか?」
「いや、細かい理論はわかりませんけど。うーん、そうですねぇ……」
唇に人差し指を当て、どう説明したものかと唸ったあと、朝香ちゃんは世間話でもするように言った。
「経験がなければ、他人の経験を借りてくればいい。それでも足りなければ、想像で補う。やることは、それだけですよ」
それだけ、で済む話じゃない。
喉の奥が乾いているのを感じる。
朝香ちゃんは、俺の顔を見て首を傾げた。
「どうしたんですか?」
「いや……なんでもねぇ」
昔から見てきた、その背中があまりにも遠い。
差がありすぎて、悔しいとすら思えない。
「優二さん」
控室の扉の前で、朝香ちゃんが振り返った。
「次の現場もよろしくお願いいたします。運転、本当に楽なので助かります」
「……おう」
そのときは、返事をするので精一杯だった。
帰りの車の中でも、朝香ちゃんは漫画を読んでいた。
これが流行りの漫画だったら年相応だと思うのだが、今度やるドラマの原作らしい。
どこまでもストイックな子である。
信号待ちで、朝香ちゃんが漫画から顔を上げた。
「その、何ですか、優二さんって、付き合ってる人がいると聞いたんですけど」
口調がぎこちない。
そこで漫画を持つ手が、さっきから1ページも進んでいないことに気づいた。
「なんで聞き方まで親父と同じなんだよ……まあ、いたけど」
「やっぱり、お相手は女優だったり?」
「女優だよ。別に珍しい話でもないだろ。共演きっかけに結婚する俳優だっているんだし」
ハンドルを切りながら答えると、バックミラーに映る顔がパァッと明るくなった。
「そ、そう! やっぱり、それが普通よね!」
いつもより高い声で答える朝香ちゃんは、口元を押さえて必死に笑みを噛み殺していた。
なんか意外だった。
朝香ちゃんといえば、大人顔負けの芝居をする、どこまでもストイックな演技マシーンという印象しかなかった。
それがこんな恋バナにウキウキする女の子らしい一面があるとは思わなかったのだ。
「お互いの仕事に理解もあるし、業界内の情報網で行動もある程度把握できる。メリットは大きいと思うぞ」
「うんうん!」
「俺の場合は学園ドラマでの共演相手だったよ。年齢的にも青春したいってときだったし、ドラマのシナリオもあって、気持ちも盛り上がってたからな」
「ほうほう!」
「ま、向こうは爆売れして俺が鳴かず飛ばずになって、すれ違いも多くなった結果、別れたけどな。出会って付き合い易い反面、長続きしないと思うし、別れたら気まずいから同業者との恋愛はあんまおすすめできないぜ?」
「み゛」
さっきまでウキウキだったはずなのに、絶命寸前のセミのような声が、後部座席から響いた。