俺は郁を駅まで送ろうとしたのだが、最寄り駅が同じらしく、そのまま家まで送っていくことになった。
「まさか近くに住んでたとはな」
「学区域は違いますけどね」
通っていた小学校を聞いてみれば、近くにある別の小学校だった。
「何かが違えば、郁とは幼馴染になっていたのかもしれないな」
「ふふっ、そうかもしれませんね」
本来のポテンシャルを活かした美少女になった郁の自然な笑顔に、思わずドキッとしてしまう。
芸能界で顔面つよつよ勢には慣れていたつもりだった。
それでも、メリーさんがスタイリングした郁の美貌は、俺の想定を軽々と超えてきていた。
……マジでモデル事務所とかが放っておかないぞ、これ。
「翼君って、小学校のときも今みたいな感じだったんですか?」
「今ほど余裕はなかったな。とにかく、がむしゃらに稽古してたわけだし」
「努力家の翼君らしいですね」
郁はそう言いながら、考えるような顔をした。
「私は話に聞いてた昔の翼君より、今の翼君のほうが人間らしさがあって良いと思いますよ」
「失礼な奴だな」
「ふふっ、ごめんなさい」
郁の笑顔につられて、俺も笑った。
住宅街へ向かう道は夕暮れで染まっていた。
街灯がぽつりぽつりと灯り始め、電線の影が地面に伸びている。
「翼君って、発声練習、今でもやってるんですか?」
「毎朝な。ランニングとセットで。習慣になってるから、やらないと落ち着かなくてな」
「すごいですね。私なんて基本三日坊主で……」
「発声練習も姿勢矯正も、郁は続けられるだろ?」
「それは翼君が教えてくれたからです」
郁は少し照れくさそうに前を向いた。
「翼君って、あまり自分のことは話さないですよね」
それから、思ったより鋭いことを言ってくる。
「話してるだろ。いろいろ」
「うーん、説明するのに必要なことだったら答えてくれますけど、自分からは話さないですよね」
「それが楽だからだ」
「楽、ですか」
「自分の話をするより、誰かの話を聞いてる方が得意なんだよ。子役時代に染みついた癖だ。現場では自分を出すより、相手を立てた方がうまくいくことが多かったから」
郁はしばらく黙って、それから小さく呟いた。
「……損な性格ですね」
「そうか?」
「翼君がどんな人か、ちゃんと知ってる人って少ないんじゃないですか。翼君が見せてくれないから」
返す言葉が、すぐに出てこなかった。
「私は、もっと翼君のことを知りたいと思ってます」
郁はそう言ってから、気づいて慌てて付け加えた。
「もちろん、友達として、ですけど!」
「そんなに強調しなくてもわかってるって」
住宅街に入って、路地が細くなった。
日が落ちかけて、空の端がオレンジから紫へと変わり始めている。
そのとき、前方に人影が見えた。
四十代半ばくらいの女性。
薄手のカーディガンに、くたびれたバッグを抱えている。
街灯の下に立って、こちらを見ていた。
目が合った瞬間、心臓が重く沈んだ。
歩幅が、無意識に狭まる。
足の裏から地面の感触が遠のいていく。
頭の中が、ゆっくりと白くなっていく。
「翼」
俺の足が自然に止まる。
久しぶりに聞く声だった。
以前よりも、掠れている。
それでも、俺の心の中に深く刻まれた声だった。
「……母さん」