とにかく曇る天才女優の幼馴染!   作:サニキ リオ

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第26話 薪にして、心に焼べる

「……母さん」

 

 母さんは俺を見て、ほっとしたような顔をした。

 それから郁にちらりと視線を向けて、すぐに俺に戻ってきた。

 

「探したわよ。家に行ったら、まだ帰ってなかったみたいだから」

「何の用」

「そんな冷たい言い方しなくていいじゃない。お金を貸してほしいの。五十万。ちょっと借金がかさんじゃって」

「それ以前に、父さんと離婚したときの慰謝料、まだ払い終わってないんじゃないか」

「それはまた別の話でしょ!」

 

 母さんの声が跳ね上がった。

 

「翼、まだ〝ぼくんち冒険たい〟の収入残ってるでしょ。放課後にこんな可愛い彼女とデートするくらい余裕もあるみたいだし、実の母親が困ってるのに、貸せないなんてひどい話ね」

「…………」

「それにお父さんだって翼に八つ当たりしてたんでしょ。私だけが悪いわけじゃないじゃない。なんで私だけ責められなきゃいけないの」

 

「そういう話じゃ――」

「あなたが〝ぼくんち冒険たい〟であんなに稼げたのは、私が音楽の仕事を取ってきたからよ。私が動いたから実現したんじゃない。なら、あのお金は私が稼いだも同然でしょ」

 

 めちゃくちゃな理論だとわかっている。

 何の言い訳にもなっていないとわかっていた。

 それでも、言葉が出てこなかった。

 

 昔の母さんの顔が浮かぶ。

 稽古場から帰る車の中で、頭を撫でてくれた手。

 疲れた顔をしていても笑っていた横顔。 

 俺を産んで、育ててくれた人だ。

 自分が一発屋として消えていかなければ、こうはならなかったのかもしれない。

 

「いい――」

 

 口が開きかけた、その瞬間だった。

 

「違います!」

 

 横から聞いたことのない郁の大声が割り込んできた。

 一歩前に出て、母さんを真っ直ぐ見ている。

 

「彼女さんは黙っててくれる? あなたには関係ないわ」

「関係なくないです!」

 

 声は震えていた。

 それでも、止まらなかった。

 

「お父さんが八つ当たりしたから自分も許されるって、そういう話じゃないですよね? あなたが翼君を傷つけたことには、変わりないじゃないですか!」

「だから私だけが悪いわけじゃないって言ってるの!」

「誰かのせいにするんじゃなくて、自分がしたことの話をしてください!」

 

 母さんの目が、細くなった。

 

「子供のくせに生意気ね!」

「あなたこそ大人なのにわからないですか!?」

 

 母さんの剣幕にも、郁は一歩も引かなかった。

 

「翼君が頑張ったから生活できてたのに、翼君が稼げなくなったら怒鳴り散らして見捨てて……それって、翼君を子供として育ててたんじゃなくて、お金を生む道具として使ってたってことじゃないですか」

「道具!? 私がどれだけ翼のために――」

「じゃあ聞きます」

 

 郁は、真っ直ぐ母さんを見据える。

 その瞳は、まったく揺れていなかった。

 

「翼君が売れなくなったとき、最初に心配したのはお金のことでしたか? それとも翼君自信のことでしたか?」

 

 母さんの口が止まった。

 

「翼君の味覚障害、知ってましたか」

「味覚、障害?」

「翼君がどれだけ孤独だったか、気づいてましたか」

 

 母さんの表情が歪む。

 

「……あなたに何がわかるのよ」

 

 絞り出すような声だった。

 

「私だって必死だったの! 翼の才能に全部賭けて、それが空振りになって、どうすればよかったっていうの。あなたみたいな子供に、何がわかるの」

「わかりません、わかりたくないです」

 

 郁は首を振った。

 

「でも」

 

 一度だけ息を吸って、郁は続けた。

 

「翼君は今も、あなたのことが嫌いになれないでいます。さっきいいよって言おうとしてたのが、証拠です。それがどれだけ翼君にとって苦しいことか……わかりますか?」

 

 母さんは何も言わなかった。

 

「母親なら、彼の優しさに、甘えないでください」

 

 郁の声は静かだった。

 怒鳴っているわけじゃないのに、一言一言に重さがあった。

 

「翼君はもう、自分のために生きていいんです。あなたのために消耗されなくていいんです」

 

 沈黙が落ちた。

 夕暮れの住宅街に、風が一筋通り抜けていく。

 

 母さんは、長い間黙っていた。

 郁を見て、俺を見た。

 そして、また郁を見た。

 

「チッ……」

 

 それから、舌打ちをして踵を返した。

 遠ざかっていく背中は小さく、どこか丸まっていた。

 その背中が角を曲がって見えなくなるまで、俺はずっと眺めていた。

 

 胸の中がぐちゃぐちゃだった。

 怒りなのか悲しみなのか、感謝なのか、自分でもわからない。

 何かが少しだけほぐれたような気がした。

 

「こ、怖かったぁ……」

 

 郁がへにゃへにゃと地面に崩れ落ちた。

 

「おい、大丈夫か」

 

 郁はそのままぺたんと座り込んで、膝の上に両手を置いた。

 顔が真っ赤で、息が少し上がっている。

 

「まさか。あんな啖呵切るなんて思わなかったぞ」

「切るつもり、なかったんですけどね……」

 

 郁はへらっと笑った。

 力が抜けきったような、それでいてどこかすっきりした笑顔だった。

 それから俺は郁を近所の公園に連れて行ってベンチへ座らせた。

 

「……お手数をおかけしました」

「気にするな」

 

 俺も郁の隣に屈んで、夕暮れの景色を眺めた。

 遠くで、カラスが鳴いている。

 どこかの家から夕飯の匂いが漂ってきた。

 

 しばらくの沈黙の後、郁がぽつりと言った。

 

「翼君の気持ちを思ったら、黙っていられなかったんです」

「俺の気持ち?」

「いいよって言おうとしてた翼君の顔、見てたら……なんか、胸が痛くて」

 

 郁は胸に手を当てて、祈るように続けた。

 

「私自身は、何も言える立場じゃないです。だけど、翼君はお母さん相手に言いたいことが言えないように思えて……だから、翼君が押し殺していた気持ちを薪にして、それを心に焼べてみたら、あんな感じに」

「薪にして、心に焼べる」

 

 俺は、その言葉を頭の中でゆっくり転がした。

 

 自分の感情じゃなくていい。

 誰かの痛みを借りて、それを本物の感情にする。

 さっきの郁は、間違いなくそれをやっていた。

 

「まさか、演技で俺が教えられることになるなんてな」

 

 郁はしばらく黙って、それからゆっくり首を傾げた。

 

「私、演技してたつもりじゃなかったんですけどね」

「なら、猶更すごいな」

 

 俺は立ち上がって、郁に手を差し出した。

 郁はその手を掴んで、ゆっくりと立ち上がる。

 まだ少し足元がふらついていた。

 

「郁。ありがとな」

「良いんですよ。私がやりたくてやったことですから」

 

 郁は言いたいことを言ってくれたことに関してだけの礼と思って、俺の感謝を受け取る。

 

 だけど、郁には俺が教えた小手先の技術だけでは返しきれないほどのことを教えてもらった。

 

 俺がメソッド演技が苦手な理由。

 それがようやくわかった。

 

 俺は、自分自身の感情と向き合うのが怖かっただけだ。

 

 自分の痛みは見ないふりをして、他人の痛みを本気で受け取ることも避けていた。

 今日、郁が俺の代わりに怒りを燃やしてくれたのを見て、初めてわかった。

 

 たとえ育ててもらった親でも怒ってもいいのだ、怨んでいいのだ。

 感情から逃げてたのは、演技の技術の問題じゃなくて、俺自身の問題だったのだ。

 

「それじゃあ、そろそろ帰りましょうか」

「ああ、家まで送っていくよ」

「ありがとうございます!」

 

 夕暮れに映える郁の笑顔は、今まで見てきたどの芸能人よりも美しく尊いものに見えた。

 さっきまで胸を塞いでいたものが、まだ全部消えたわけじゃない。

 

 でも、少しだけ息がしやすくなった気がした。

 

「…………み゛……」

 

「ん? なんか聞こえなかったか?」

「蝉でしょうか? 時期的には早い気もしますけど……」

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