ゲームCMの撮影が終わったのは、夕方を少し過ぎた頃だった。
学校にも用事があったため、学校まで送ってもらってから用事を済ませて一人で歩いて帰ることにした。
久しぶりに通学路を徒歩で歩く。
夕暮れが街を染めていて、電線の影が地面に長く伸びていた。
そのとき、前方に見覚えのあるシルエットを見つけた。
思わず足が止まる。
翼の隣に、女子がいた。
最近見るギャルでも、文学少女でもない。
「誰ぇ……?」
声が、無意識に零れた。
鎖骨あたりで揃えられたミディアムヘア。
軽くウェーブがかかっていて、夕日に透けている。
目元がはっきりと見えて、頬に差した血色が遠目からでもわかる。
芸能界で山ほど顔面つよつよを見てきた。
グラビアアイドル、女優、モデル。
その全員と並べても引けを取らない、そういうレベルの顔だった。
ビジュアルだけのパラメーターなら、あたしと張れるかもしれない。
いや、張れるだけじゃない。
「なんで翼の隣に……」
二人は笑いながら歩いている。
翼が何か言って、女子が笑う。
その笑顔に、翼も笑う。
あたしの知っている翼は、テクニカル・アクティングが染みついた笑みを浮かべる。
あんなに自然に、あんなに穏やかに笑う翼を、あたしは知らない。
気づいたら、あとをつけていた。
プロとして培った気配の消し方がこんな形で役に立つとは思っていなかった。
一定の距離を保ちながら、二人の後ろを歩く。
翼の家が近づいてきたところで、前方に人影が見えた。
四十代半ばくらいの女性。
薄手のカーディガンに、くたびれたバッグ。
翼の足が止まった。
あたしも、反射的に電柱の陰に身を寄せる。
女性の顔が見えた瞬間、記憶の中の何かが引っかかった。
知っている顔だ。
あの人は、翼のお母さん、
撮影現場に何度か顔を出していた。
いつも穏やかで、翼だけじゃなくあたしにも優しかった。
スタッフにも丁寧に挨拶をしていた人だ。
久しぶりに見る顔は、あのころとは違って見えた。
頬がこけていて、目の周りが暗い。
服も、くたびれている。
でも、間違いなく翼のお母さんだ。
何かあったのかと思いながら、あたしは耳を澄ませた。
「お金を貸してほしいの。五十万。ちょっと借金がかさんじゃって」
……借金?
「それ以前に、父さんと離婚したときの慰謝料、まだ払い終わってないんじゃないか」
「それはまた別の話でしょ!」
声のトーンが変わった。
穏やかだったあの人の声とはまるで違う。
「翼、まだ〝ぼくんち冒険たい〟の収入残ってるでしょ。放課後にこんな可愛い彼女とデートするくらい余裕もあるみたいだし、実の母親が困ってるのに、貸せないなんてひどい話ね」
それを聞いた瞬間、胸の奥が冷えた。
「それにお父さんだって翼に八つ当たりしてたんでしょ。私だけが悪いわけじゃないじゃない」
「そういう話じゃ――」
「あなたが〝ぼくんち冒険たい〟であんなに稼げたのは、私が音楽の仕事を取ってきたからよ。なら、あのお金は私が稼いだも同然でしょ」
翼が売れなくなってから、翼のお母さんはこうなっていたのか。
翼はずっと、こんな思いをしていたのか。
翼の顔が見えた。
言葉が出ていない、出せないでいる。
あの翼が、あの現場で誰よりも冷静に立ち回っていた翼が、お母さんの前では言葉を失っている。
じっとしていることなんてできない。
翼は今、苦しんでいるのだ。
電柱の陰から出ようとした、そのときだった。
「違います!」
聞き慣れない声が、鋭く響いた。
翼の隣にいた女子だった。
一歩前に出て、翼のお母さんを真っ直ぐ見ている。
「彼女さんは黙っててくれる? あなたには関係ないわ」
「関係なくないです!」
声は震えていたが、止まることはなかった。
「お父さんが八つ当たりしたから自分も許されるって、そういう話じゃないですよね? あなたが翼君を傷つけたことには、変わりないじゃないですか!」
「だから私だけが悪いわけじゃないって言ってるの!」
「誰かのせいにするんじゃなくて、自分がしたことの話をしてください!」
あたしは、動けなかった。
「翼君が頑張ったから生活できてたのに、翼君が稼げなくなったら怒鳴り散らして見捨てて……それって、翼君を子供として育ててたんじゃなくて、お金を生む道具として使ってたってことじゃないですか」
「道具!? 私がどれだけ翼のために――」
「じゃあ聞きます」
女子の声が、静かになった。
「翼君が売れなくなったとき、最初に心配したのはお金のことでしたか? それとも翼君自身のことでしたか?」
「翼君の味覚障害、知ってましたか」
「翼君がどれだけ孤独だったか、気づいてましたか」
その言葉はそのままあたしの胸を抉ってくる。
近くにいたのに、あたしだって気づけなかった。
まるで、それを咎められている気がした。
翼のお母さんに向かって、この子は当然のように問いかけている。
それだけじゃない。
翼の孤独も、翼の苦しさも、全部わかった上で言っている。
「翼君は今も、あなたのことが嫌いになれないでいます。さっきいいよって言おうとしてたのが、証拠です。それがどれだけ翼君にとって苦しいことか。わかりますか?」
電柱に、背中を預けた。
言おうとしていたことが、全部先に言われた上に、その言葉はあたしには言う資格のない言葉だった。
「翼君はもう、自分のために生きていいんです。あなたのために消耗されなくていいんです」
翼のお母さんが、舌打ちをして踵を返した。
遠ざかっていく背中を、あたしはただ見ていた。
翼が、その背中を黙って見送っている。
横に立つ女子が、へにゃへにゃと崩れ落ちた。
翼が慌てて支えて、二人で公園の方へ歩いていく。
あたしは、その場から動けなかった。
何年も、翼の隣にいたつもりだった。
稽古場で、撮影現場で、ずっと翼を見てきた。
翼の演技を誰よりも知っていると思っていた。
でも、翼のお母さんがあんな人になっていたことを、あたしは知らなかった。
翼が味覚障害だったことを、知らなかった。
翼が孤独だったことに、気づいていなかった。
そして今、翼の隣には翼のために啖呵を切れる女子がいる。
あたしじゃない誰かが、翼の痛みを受け取って、翼の代わりに燃えていた。
「み゛」