俺の名前は文野ダイ。
劇団クロッカス出身で、あの天才女優・羽田朝香と元天才子役・伽須翼の先輩役者だ。
カラオケで翼と朝香ちゃんに逃げられてから二週間が経った。
事務所の会議室は、やけに静かだ。
天井の空調が回り続けているのに、耳に残るのはその低い唸りだけ。
そんな空気の中で、机の向かいにマネージャーが座っていた。
「まったく、電話にはすぐ出てほしいね」
抑えた声が、部屋の中でほとんど跳ね返らずに落ちる。
「で、何の話です?」
ソファーに体を預けると、クッションが沈む感触が遅れて返ってきて、その分だけ距離が生まれる。
マネージャーは視線を落とし、手元の紙をめくった。
紙同士が擦れる音が、妙に乾いて聞こえる。
「結論から先に言う――今月の仕事、全部止まったよ」
指先が紙の上で止まり、それ以上は動かない。
「まあ、そういう時期もありますよね」
仕事が途切れる時期はある。別に珍しくもない。
朝香ちゃんみたいに、売れ続ける人間の方が例外だ。
俺の言葉にため息をつくと、マネージャーは顔を上げずに告げる。
「そういう話じゃないんだ」
空調の音が、さっきよりも耳に残る。
「オーディション、通らないんじゃなくて、呼ばれてない」
「は?」
喉の内側が一気に乾く。
唾を飲み込む動きだけがはっきり分かる。
「決まりかけてた脇役の件も、正式に白紙になった」
「それ、先方の都合って……」
「表向きはな」
そこで視線が上がる。
逃げ場を残さない角度だった。
「翼君の件、といえばわかるだろ」
「揉めてないですよ。あれはちょっと――」
「それは君の認識だろう。今は一般人の後輩を、半ば騙す形で呼び出して見世物にした。そう聞いている」
空気が動かなくなる。
紙の端も、もう揺れない。
「今のお偉方の中には、出世する前に現場で翼君を気に入っていた人が多い。この意味、分かるよね?」
口を開きかけて、止まる。
言葉にした瞬間、すべて言い訳に変わるのが見える。
「そんな大げさな話じゃ……」
案の定、口から出た言葉は最後まで形にならない。
「てか、おかしいじゃないすか! なんで、あんなプライベートなやり取りがお偉方の耳に入るんですか!」
「その現場、羽田朝香もいたんだろ。彼女の芸能界における顔の広さはよく知っているだろ」
「ま、まさか……」
顔から血の気が引いていくのを感じる。
「現場はリスクを嫌う。トラブルの芽は、早めに摘み取る。今回の件で、君はその芽になった」
言葉が落ちる。
受け止める場所が見つからない。
喉の奥に引っかかる感覚だけが残った。
「それで、どうするんですか」
「どうするも何もない」
冷たい声が淡々と返ってくる。
「今ある話は全部止まってる。新規も来ない。しばらくは待つしかない」
「待てば戻りますよね」
間を置かずに言葉が零れ落ちた。
マネージャーは一拍だけ間を取り、視線がわずかに揺れて、すぐに戻る。
「戻る保証は、ない」
それだけで十分だった。
背もたれに体を預ける。
硬さがそのまま背中に伝わる。
終わった、という言葉が頭の端に浮かぶ。
浮かんだまま、形になる前に押し戻す。
早い。まだ判断するには早い。
この程度で全部切られるはずがない。
これまでだって危ない現場はあった。乗り切ってきた。
時間を置けば、元に戻る。
そういう流れに持っていけるはずだ。
「と、とりあえず、謝った方がいいとか、あります?」
形だけ整える提案を投げると、マネージャーは首を横に振る。
「もう遅い。向こうは処理を終えてる。今さら動くと、逆に印象が悪くなる」
机の上のスマホに視線が落ちる。
黒い画面には血の気の引いた俺の顔が映っていた。
「じゃあ、待つしかないってことですか」
「そうだ」
会話が途切れ、空調の音だけが残る。
膝の上で手を組む。
指先に力が入っているのが分かる。
終わっていない。
実力があれば、また呼ばれる。
この業界はそういう場所だ。
その前提を、何度もなぞる。
「今日はそれだけだ」
靴底が床を擦る音が、やけに大きく響く。
マネージャーが退出し、ドアが閉まる音で会議室の空気が切り離される。
それ以降、俺のスマホが震えることはなかった。