翼と渋谷を歩いたあの日から、数週間が経っていた。
撮影所に入った瞬間、空気の密度が違うのがわかる。
軽い、というより張りつめている。
最終回の一部シーン。
物語の芯に触れる場面を撮る日だ。
まだ他の話数の収録は残っている。
それでも、ここを越えたら一度息がつける。
そんな共通認識が、スタッフ全員の動きを揃えていた。
控室の前を行き交う足音は早い。
無駄な雑談はなく、台本を抱えた手元だけが忙しく動いている。
伽須翼。最近、その名前を聞かない日はない。
〝ぼくんち冒険たい〟が思わぬ形で再燃して、渋谷の生中継に映り込んだことで、話題が連鎖した。
今では〝そのとき黒歴史が動いた〟という字幕のついた翼の画像は、ネットミームと化しているくらいだ。
「翼君って、今どうしてるんだっけ」
「あの子は今、一般人でしょ。あんまり騒がないほうがいいと思うけどなぁ」
廊下の向こうから、そんな声が流れてくる。
耳に入っただけで、口元がわずかに緩みそうになる。
あたしはメイク台の前で、鏡越しに自分の目を見ていた。
いつもより、焦点が合っている気がする。
今日のアタシは絶好調だ。
あの日。渋谷で並んで、シュークリームを食べた。
それに、ピンチを救ってもらった。
その記憶の温度がまだ残っている。
「朝香ちゃん、そろそろスタンバイお願いしまーす」
名前を呼ばれて立ち上がる。
スカートの裾を整え、肩の力を抜く。
深く息を吸うと、肺の奥まで空気が入ってくるのがわかった。
最終回の内容は、このドラマの核そのものだ。
主人公である愛が相棒だと信じてきた存在、アンダーソン。
AIだと思い込んでいた彼は、実は人間で裏から愛を支えていた。
その正体は、幼馴染の下村翼。
下の名前は偶然にも翼だった。
最終回で起こった事件で、彼が真犯人だと明かされる。
そんなアンダーソンを演じるのは、人気男性アイドルの鍬矢田ルイ。
彼のスケジュール都合もあって、最終回のシーンだけは先に撮ることになった。
現場の緊張感は、その事情も含めて共有されていた。
「どうも、朝香ちゃん。今日も美人さんだね!」
スタジオに入った瞬間、鍬矢田さんが声をかけてくる。
私は反射的に笑顔を作った。
角度も、声の高さも、全部いつも通り。
「また君と共演できるなんて光栄だなぁ。結構久しぶりだよね?」
「お互い出世しましたものね……すみません、台本もう一度確認しておきたいので、もういいですか?」
嘘だ。台本なんて既に頭に叩き込んでいて持ってきてはいない。
「さっすがー、マジでリスペクトだわ。邪魔してごめんね」
これ以上、踏み込ませない距離で会話を切る。
今は芝居に集中するだけでいい。
カメラが回る。セットの中に、静かな緊張が満ちていく。
裏切りの告白。
抑えられた声で語られる真実。
私はアンダーソンを演じる鍬矢田さんを見る。
怒りも、悲しみも、前に出しすぎない。
理解してしまった者の視線だけを残す。
「カット! OKです!」
声がかかり、空気が一気にほどける。
拍手が起き、スタッフが次々に声を掛け合う。
私はその場で、ゆっくり息を吐いた。
「……あの人苦手なのよねぇ」
控室へ戻る途中、つい零れた本音だった。
悪い人ではない。
演技もできる。
ただ、態度が軽すぎる。
芝居の余韻が残る場所で、それを踏み越えてくるから嫌なのだ。
それから数日後。
撮影が終わって家に戻る。
衣装を脱ぎ、ハンガーに掛ける。
ファスナーの音が、やけに大きく響いた。
鏡の前に座り、メイクを少しずつ落とす。
目元から色が消えていくたび、役の輪郭も薄れていく。
何気なくテレビを点けると、ちょうど夕方のニュースがやっていた。
『速報です』
最近人気の女子アナがニュースを読み上げる。
『人気アイドルグループ〝Glorious〟の鍬矢田ルイメンバーが不同意わいせつの容疑で書類送検されました』
手が止まる。コットンが、頬に触れたまま動かない。
『鍬矢田メンバーは、女性に対してわいせつ行為を複数回行ったということです』
画面の端に、見覚えのある顔が映る。
ステージ用の笑顔。
最終回の撮影で、何度も向き合った横顔。
『鍬矢田メンバーは、相手にも恋愛感情があり、真剣に交際しているつもりだったと、容疑を否認しており、警察は慎重に捜査を進めています』
音が遠くなる。
言葉だけが、形を失って流れていく。
女子アナは、淡々と原稿を読み上げていく。
『今後の番組編成や出演作への影響については、続報が入り次第お伝えします』
画面がスタジオ全体に引く。
照明の白さが、目に刺さる。
先日、演じていた最終回の映像が頭に浮かぶ。
信じていた相棒が犯罪者。
フィクションのほうが、まだ救いがあった。
スマホが机の上で震える。
見なくても、何の連絡かはわかる。
床に置いた足の裏から、じわじわと冷えていく。
うまくいっていた。
仕事も、気持ちも、珍しいくらいに噛み合っていた。
それは、いとも簡単に崩れ落ちていった。
「み゛」