とにかく曇る天才女優の幼馴染!   作:サニキ リオ

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第38話 脳破壊される側視点 パート6

 翼と渋谷を歩いたあの日から、数週間が経っていた。

 撮影所に入った瞬間、空気の密度が違うのがわかる。

 軽い、というより張りつめている。

 

 最終回の一部シーン。

 物語の芯に触れる場面を撮る日だ。

 まだ他の話数の収録は残っている。

 それでも、ここを越えたら一度息がつける。

 そんな共通認識が、スタッフ全員の動きを揃えていた。

 

 控室の前を行き交う足音は早い。

 無駄な雑談はなく、台本を抱えた手元だけが忙しく動いている。

 伽須翼。最近、その名前を聞かない日はない。

 

 〝ぼくんち冒険たい〟が思わぬ形で再燃して、渋谷の生中継に映り込んだことで、話題が連鎖した。

 

 今では〝そのとき黒歴史が動いた〟という字幕のついた翼の画像は、ネットミームと化しているくらいだ。

 

「翼君って、今どうしてるんだっけ」

「あの子は今、一般人でしょ。あんまり騒がないほうがいいと思うけどなぁ」

 

 廊下の向こうから、そんな声が流れてくる。

 耳に入っただけで、口元がわずかに緩みそうになる。

 

 あたしはメイク台の前で、鏡越しに自分の目を見ていた。

 いつもより、焦点が合っている気がする。

 今日のアタシは絶好調だ。

 

 あの日。渋谷で並んで、シュークリームを食べた。

 それに、ピンチを救ってもらった。

 その記憶の温度がまだ残っている。

 

「朝香ちゃん、そろそろスタンバイお願いしまーす」

 

 名前を呼ばれて立ち上がる。

 スカートの裾を整え、肩の力を抜く。

 深く息を吸うと、肺の奥まで空気が入ってくるのがわかった。

 

 最終回の内容は、このドラマの核そのものだ。

 主人公である愛が相棒だと信じてきた存在、アンダーソン。

 AIだと思い込んでいた彼は、実は人間で裏から愛を支えていた。

 

 その正体は、幼馴染の下村翼。

 下の名前は偶然にも翼だった。

 

 最終回で起こった事件で、彼が真犯人だと明かされる。

 そんなアンダーソンを演じるのは、人気男性アイドルの鍬矢田ルイ。

 

 彼のスケジュール都合もあって、最終回のシーンだけは先に撮ることになった。

 現場の緊張感は、その事情も含めて共有されていた。

 

「どうも、朝香ちゃん。今日も美人さんだね!」

 

 スタジオに入った瞬間、鍬矢田さんが声をかけてくる。

 私は反射的に笑顔を作った。

 角度も、声の高さも、全部いつも通り。

 

「また君と共演できるなんて光栄だなぁ。結構久しぶりだよね?」

「お互い出世しましたものね……すみません、台本もう一度確認しておきたいので、もういいですか?」

 

 嘘だ。台本なんて既に頭に叩き込んでいて持ってきてはいない。

 

「さっすがー、マジでリスペクトだわ。邪魔してごめんね」

 

 これ以上、踏み込ませない距離で会話を切る。

 今は芝居に集中するだけでいい。

 

 カメラが回る。セットの中に、静かな緊張が満ちていく。

 

 裏切りの告白。

 抑えられた声で語られる真実。

 

 私はアンダーソンを演じる鍬矢田さんを見る。

 怒りも、悲しみも、前に出しすぎない。

 理解してしまった者の視線だけを残す。

 

「カット! OKです!」

 

 声がかかり、空気が一気にほどける。

 拍手が起き、スタッフが次々に声を掛け合う。

 私はその場で、ゆっくり息を吐いた。

 

「……あの人苦手なのよねぇ」

 

 控室へ戻る途中、つい零れた本音だった。

 悪い人ではない。

 演技もできる。

 ただ、態度が軽すぎる。

 

 芝居の余韻が残る場所で、それを踏み越えてくるから嫌なのだ。

 

 それから数日後。

 撮影が終わって家に戻る。

 衣装を脱ぎ、ハンガーに掛ける。

 ファスナーの音が、やけに大きく響いた。

 

 鏡の前に座り、メイクを少しずつ落とす。

 目元から色が消えていくたび、役の輪郭も薄れていく。

 何気なくテレビを点けると、ちょうど夕方のニュースがやっていた。

 

『速報です』

 

 最近人気の女子アナがニュースを読み上げる。

 

『人気アイドルグループ〝Glorious〟の鍬矢田ルイメンバーが不同意わいせつの容疑で書類送検されました』

 

 手が止まる。コットンが、頬に触れたまま動かない。

 

『鍬矢田メンバーは、女性に対してわいせつ行為を複数回行ったということです』

 

 画面の端に、見覚えのある顔が映る。

 ステージ用の笑顔。

 最終回の撮影で、何度も向き合った横顔。

 

『鍬矢田メンバーは、相手にも恋愛感情があり、真剣に交際しているつもりだったと、容疑を否認しており、警察は慎重に捜査を進めています』

 

 音が遠くなる。

 言葉だけが、形を失って流れていく。

 女子アナは、淡々と原稿を読み上げていく。

 

『今後の番組編成や出演作への影響については、続報が入り次第お伝えします』

 

 画面がスタジオ全体に引く。

 照明の白さが、目に刺さる。

 

 先日、演じていた最終回の映像が頭に浮かぶ。

 信じていた相棒が犯罪者。

 フィクションのほうが、まだ救いがあった。

 

 スマホが机の上で震える。

 見なくても、何の連絡かはわかる。

 床に置いた足の裏から、じわじわと冷えていく。

 

 うまくいっていた。

 仕事も、気持ちも、珍しいくらいに噛み合っていた。

 それは、いとも簡単に崩れ落ちていった。

 

「み゛」




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