とにかく曇る天才女優の幼馴染!(旧題:天才子役の幼馴染に勝てなかったので、分相応に生きていこうと思います) 作:サニキ リオ
日曜日の昼過ぎ。
駅前のシネマコンプレックスで鹿角と待ち合わせをした。
「おっすー! 凪野くん!」
改札を出た瞬間、元気な声が飛んできた。
振り向くと、私服姿の鹿角が手を振っている。
学校で見る制服姿とは違い、カジュアルなワンピースにデニムジャケットを羽織った姿は、どこか新鮮だった。
「悪い、待ったか?」
「ううん、今来たとこ。じゃ、行こっか!」
鹿角は笑顔で歩き出す。
俺も後を追いながら、なんだか不思議な気分になっていた。
同級生と映画を見に行く。
それだけのことなのに、妙に緊張している自分がいる。
撮影現場でもプレミア試写会でも何度も映画館には足を運んだことがあるのに、こんなに落ち着かないのは初めてだった。
「てかさー、凪野翼って名前カッコいいよね」
「……そうか?」
「カッコいいじゃん! 響きもイケメンっぽいし」
「褒め言葉として受け取っておく」
表情だけは取り繕って、映画館に入った。
伽須翼という芸名で活動していた頃は、合法的に罵詈雑言が言えるからか、同級生からカスカス言われまくった。
そんなこともあり、凪野翼としての名前を褒められたのは初めてだった。
ロビーでチケットを受け取り、座席に着く。
「ちょっと待ってて! ポップコーン買ってくる!」
鹿角は嬉しそうに駆けていった。
俺は一人、座席に座って予告編を眺めていた。
場内が暗くなり、予告編が始まる。
しばらくして、鹿角が戻ってきた。
場内が暗くなったこともあり、スクリーンの光だけが彼女の横顔を照らす。金髪の内側に仕込まれた青が、暗闇の中で妙に鮮やかに浮かび上がっていた。
「お待たせー!」
手には大きなサイズのポップコーンが握られている。
「はい、一口どうぞ!」
鹿角がカップを差し出してきた。
「いや、いいって」
「いいから! 映画館のポップコーンは雰囲気込みで美味しいんだから!」
半ば強引に押し付けられ、俺は仕方なく手を伸ばした。
適当に一つ掴んで口に運ぶ。
「うん、やっぱ映画のポップコーンはキャラメル味だよな」
「え?」
鹿角が不思議そうに首を傾げる。
「これ、塩味だけど……」
「そうなのか。暗くて見えなかった」
その瞬間、場内の照明が完全に落ちた。
本編が始まる。
鹿角は何か言いかけたが、スクリーンに目を向けた。
スクリーンに映し出されたのは、古びたマンションの一室。
中年の夫婦が、険悪な雰囲気で向かい合っている。
『もう、あなたとは一緒にいられない』
妻が、疲れた表情で呟く。
夫は、何も言い返せずに俯いている。
二人の間には、何年も積み重ねられた諦めと疲労が漂っていた。
そして、金曜日の夜。妻が突然、高校生の姿に戻ってしまう。
画面が切り替わり、制服姿の少女が映る。朝香だ。
瞬間、スクリーンから目が離せなくなった。
朝香が演じる高校生の妻は、中年の妻とは別人のように生き生きとしていた。
目がキラキラと輝き、表情も柔らかい。
天真爛漫という言葉がぴったりだ。
『ん? 問題集どこいったんだろ……あれ、ここって図書室……じゃない!?』
部屋を見て驚く朝香の演技。
最初は戸惑い、次に混乱。
そして、周りを見回して声を挙げる。
『さっきまで学校で勉強してたのに』
困惑した様子で、ぽかんとしている。
夫は、高校生に戻った妻を見て呆然とする。
『……えっと、君は誰かな?』
『ひっ……! あ、ああ、あなたこそ、どちら様で!?』
見知らぬ男性に覚える顔は、まさに突然知らない場所に転移したようだった。
間の取り方、表所の変化、動作。
そのすべてがあまりにも自然だ。
これが朝香の強み。役を演じるために自分の過去と呼応する感情を引き出す技法――メソッド演技だ。
朝香はどんな経験も糧にし、それをあらゆる演技へと変換することができる。
なんでも演技の糧にする。
その貪欲さが朝香が天才役者と言われる所以だ。
物語が進むにつれ、夫は純粋無垢な高校生と過ごす時間の中で、妻がまだ天真爛漫だった頃を思い出していく。
『ふっふっふー! 今日のカレーの味には自信あるんだよね!』
無邪気にはしゃぐ朝香の姿。
その目には、何の曇りもない。
冒頭の疲れ切った妻とは、完全に別人だった。
しかし、月曜日の朝になると、妻は元の姿に戻ってしまう。
そして、高校生だった時の記憶は、何も残っていない。
週末だけ、妻は純粋な高校生に戻る。
『……おはよう』
元の姿に戻った妻は、いつもと同じ疲れた表情で目を覚ます。
夫は、複雑な表情でそれを見つめる。
あの天真爛漫な笑顔は、もうどこにもない。
でも、ふとした瞬間。妻が笑った時の目元、首を傾げる仕草、何かに夢中になっている時の表情。
そこに高校生だった妻の面影が見える。夫はそれに気づくのだ。
ああ、彼女はまだここにいるんだ。疲れて、諦めて、笑顔を失った彼女の中に、まだあの頃の彼女が残っているんだ、と。
そして、物語の中盤。妻に異変が起きる。
高校生の姿に戻ったが、精神は妻のままという状態になってしまう。
画面に映る朝香は、制服姿の高校生。でも、その表情は全く違った。
『……あなた、今日は燃えるゴミの日だけど、捨ててくれたわよね?』
高校生の見た目なのに、そこにいるのは完全に冒頭で見た妻だった。
肩の力の抜け方、目の疲れ、口元の緩み。
全てが、何十年も生きてきた女性の疲労を物語っている。
夫は、戸惑いながらも優しく接しようとする。
『ああ。もちろんだ。それより大丈夫か? 身体に異変があるかもしれないし、ゆっくり休んだほうが――』
『やめて』
朝香は夫を睨みつける。その目は、冷たかった。
『どうせ、若い姿の私が好きなんでしょ。こんな姿になったら、急に優しくなって』
『そんなことは――』
『いいわよ、もう。あなたが私を愛してないことなんてよくわかってるの』
朝香は投げやりに言う。
その演技に、俺は息を呑んだ。
見た目は高校生なのに、そこにいるのは完全に別の人間だった。
天真爛漫な高校生、高校生の姿の中年女性。
同じ顔、同じ声なのに、全く別の人間に見える。
これが天才の演技なんだ。
クライマックス。夫は、高校生の姿の妻に向き合う。
『本当はわかっていたの。変わったのは私。あなたを愛さなくなったは私なの』
『君は変わってしまったわけじゃない。ただ、疲れてしまっただけなんだ。だからもっと俺が君を支えられるように頑張れば――』
妻は俯いたまま答える。
『もう戻れないわ。あの頃には。あなたが好きだったのは、あの頃の私でしょ』
『違う』
夫は、はっきりと言う。
『俺が愛しているのは、今の君だ。高校生の君でも、今の君でも、君は君だ』
妻がゆっくりと顔を上げる。
『本当に……?』
『ああ。俺は、君を愛している』
朝香の目から一筋の涙が流れる。そして、微笑む。
その笑顔は高校生の妻とも、疲れた妻とも違う。
どちらでもあり、どちらでもない。
ただ、夫を愛する一人の妻としての、穏やかな笑顔だった。
『私も……愛してる』
その瞬間、光に包まれる。
画面が切り替わると、妻は元の姿に戻っていた。
その表情は以前とは違う。疲れはあるが、目には光がある。
夫婦が微笑み合い、エンドロールが流れ始めた。