放課後、俺は一人で帰路についていた。
駅に向かう途中、スマホが振動する。
画面を見ると、朝香からの着信だった。
「もしもし」
『翼。今、大丈夫?』
朝香の声は、いつもより少し硬い。
「ああ、大丈夫だけど」
『ちょっと、話したいことがあるの』
「話したいこと?」
『電話じゃなくて、直接会って話したい。今から時間ある?』
朝香の声には、切迫したものがあった。
「わかった。どこで会う?」
『慶明高校の近くのカフェ。三十分後に』
「了解」
電話を切って、俺はカフェに向かった。
カフェに着くと、朝香はすでに席についていた。
窓際の席で、帽子とマスクで顔を隠している。
「お待たせ」
俺が声をかけると、朝香は顔を上げた。
「翼……」
その目は、疲れ切っていた。
いつもの強気な朝香とは違う。何か、深刻なことがあったらしい。
「どうした、何かあったのか?」
「……ニュースは見た?」
憔悴した朝香の顔とその発言だけで、もう何が起きたのか理解できてしまった。
「っ! まさか、プライベート・AIに鍬矢田ルイが出てたのか」
「ははは……あなたのほうがよっぽど名探偵ね」
朝香は乾いた笑いを零した。
おそらく、放映している話数から撮影時期を考えてみれば、収録は最終話付近。
鍬矢田ルイの所属グループ〝Glorious〟がライブツアー中であることから最終話のシーンを先に撮っていたと考えるのが自然だ。
つまり、一番盛り上がるシーンに起用した話題性のあるアイドルが不祥事で緊急降板。
撮影シーンもすべてお蔵入りになったというわけだ。
「大丈夫、なわけないよな」
「ええ、現場はてんやわんや。プロデューサーは死にそうな顔してるし、今週の撮影もバラシになったわ」
朝香の声が、わずかに震えている。
「それで、代役を探してるんだけど……」
「代役?」
「プロデューサーが、翼を起用したいって言ってるの」
その言葉に、俺は思わず固まった。
「俺を?」
「そうよ。覚えてる?
「なっつ! そうかプライベート・アイって南風原さんが関わってたのか!」
南風原Pこと
俺が子役だった頃はまだADだった。
沖縄出身の陽気な性格で、子役の俺にも一人の役者として敬意を持って接してくれていたことはよく覚えている。
そういうキャラの人だとはわかっていても、あの対応は嬉しかった。
そうか。十年でプロデューサーまで出世していたのか……。
「翼はあたしとの関係性もある程度世間で知られてる。話題性もあるし、役にも合ってると思うって……連絡先がわからないし、そもそも南風原Pは身動きが取れない状態。だから、あたしがパイプ役を頼まれたの。あの人には世話になったし、土下座までされちゃうと、ね」
朝香は真剣な顔で俺を見つめている。
「それに……あたしも、翼と共演したい」
「朝香……」
「翼となら、いい芝居ができる。それは確信してる」
朝香の目には、強い意志が宿っていた。
「俺はもう芸能界を辞めたんだぞ」
「無理言ってるのはわかってる。特別出演の一回だけ、頼めない?」
「一回だけって……」
「お願い。翼にしかできない役なの」
朝香は、珍しく頭を下げた。
その姿を見て、俺は言葉を失った。
朝香が頭を下げる。それがどれだけ異常なことか、俺は知っている。
「……役の内容、教えてくれ」
俺がそう言うと、朝香は顔を上げた。
「アンダーソン。あたしの相棒役」
「相棒って、あれAIだろ?」
「ずっとAIだと思ってた存在。でも実は、裏で支え続けてた人間だったの」
朝香は台本を取り出して、俺に渡した。
「……こんな形でネタバレくらうとは思わなかった」
プライベート・AIは毎週楽しみに見ていたので、割とショックだったりする。
「ちなみに、今日放送する回で伏線が出るわ」
「サラッと、ネタバレすんな」
まあ、緊急事態だからしょうがないけど。
「アンダーソンの正体は、幼馴染の下村翼。そして最終的に、彼が事件の真犯人だと明かされるの」
台本をめくると、そこには朝香との掛け合いが書かれていた。
……これは繊細で難しい芝居を要求されるな。
「これ、相当難しいぞ」
「だから翼じゃないとダメなの」
朝香は真剣な顔で続けた。
「翼なら、この役は完璧に演じられる」
「俺の小手先の演技じゃ届かないだろ。憎しみ、愛情、後悔、それらを抱えたままの献身……これを最高のクオリティで演じようとすれば、高いレベルのメソッド演技が絶対に必要だ」
シンプルに、これを普通に演じて見せた鍬矢田ルイの演技力が妬ましい。
イケメンで人気アイドルで、演技力もあって……それなのに、スキャンダルで台無しにするなんてバカすぎる。
何で才能ある人間ほど、性欲に負けるんだよクソが。
その演技力、いらないなら寄こせってんだ。
「足りるわよ。翼の技術なら」
朝香は自信満々に言った。
「それに、あたしが隣にいる。一緒に作り上げましょう」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
朝香と、もう一度共演する。
あの頃みたいに台詞を交わし、呼吸を合わせる。
それが、どれだけ魅力的か。
「俺は演技から逃げたんだ」
それがわかっているからこそ、何も考えずにこの話に飛びつくわけにはいかなかった。
「一発屋として消えて、家族も壊れて、全部嫌になって逃げた」
「……気がつかなくてごめんなさい」
悲しそうに朝香が目を伏せる。
「味覚障害のことも、ご両親が離婚されたことも、何もあたしは知らなかった。それなのに、あなたが演技の世界に戻ってくるって信じて疑わなかった」
「それは別にいい。演技マシーンって言われてる朝香に、そんなこと求めてないし」
「み゛、ぐっ……」
ダメージを受けた様子で朝香がこめかみを押さえる。
「誉め言葉だよ。そんな朝香に信じてもらってったのに、俺は期待に応えられなかった……そんな俺が、また演技をする資格なんてあるのか?」
「資格なんて関係ない」
朝香は即答した。
「翼が演技をしたいかどうか。それだけあれば、あとはどうとでもなるわ」
「演技を、したいかどうか」
俺は、自分の心に問いかけた。
演技をしたいか――答えは、すぐに出た。
「やるよ」
俺の言葉に、朝香の目が輝いた。
「本当!?」
「ただし、条件がある」
「条件?」
「俺を朝香が今所属しているナイトプロに入れてくれ」
芸能界をやめた俺は無所属だ。
特別出演とはいえ、ドラマに出るからにはしっかりとした後ろ盾がほしい。
「もちろんよ! 絶対、説得してみせるわ!」
朝香は両拳を握りしめて鼻息を荒くする。
あんまり騒ぐと身バレするし、可愛くて心臓に悪いからやめてほしい。
「ありがとな。絶対に仕上げて見せるから待っててくれ」
「ええ。最っ高に期待してるわ!」
「梨夢、丸代、郁に俺のやってきたことは無駄じゃなかったって証明してもらえたんだ。もう一度、演技で俺自身の努力を結果で証明してみせる!」
「み゛」
心からの宣言に、何故か朝香は絶命寸前のセミのような声を挙げるのだった。