とにかく曇る天才女優の幼馴染!(旧題:天才子役の幼馴染に勝てなかったので、分相応に生きていこうと思います) 作:サニキ リオ
場内には、あちこちで鼻をすする音が聞こえる。
俺も、少し目頭が熱くなっていた。
朝香の演技は、圧倒的だった。
天真爛漫な高校生と、高校生の姿をした疲れた妻。
同じ顔、同じ声なのに、全く別の人間に見える。
子役時代、俺が必死に追いかけていた背中は、もっと遠くへ行っていた。
「……なんか原作と違くね?」
「えー、原作読んでみようかな!」
「俺は原作よりこっちの方が好きだな」
「やっぱ朝香ちゃんって天才だわ」
場内の明かりがつき、観客たちが席を立ち始めた。
ロビーを出た瞬間、鹿角がぷんすか顔で叫んだ。
「なにあれ! 原作改変しすぎ! ヒロインの設定全然違うし! 原作ファンなめんな!」
そんなぷんぷん丸の横で、俺は逆に興奮していた。
「いや、あれはいい脚本だよ。ちゃんと映画という媒体に落とし込んでる。原作の見どころを損なわず、新しい物語として成立させてる。伏線の張り方も、演出も……それに朝香の演技も完璧だった」
朝香の演技は、相変わらず素晴らしかった。
いや、素晴らしいなんて言葉じゃ足りない。圧倒的だった。
「特に、妻が過去を思い出すシーンはヤバかった! 朝香は一言も台詞を発さず、ただ表情だけで全てを語っていた。目の動き、微かな眉の動き、唇の震え! それだけで後悔、苦しみ、希望が伝わってきたんだ!」
画面越しでも、その感情が痛いほど伝わってきた。
台詞の間も完璧だった。言葉を発する前の一瞬の沈黙。
その沈黙が、言葉以上の重みを持っている。
つい熱が入り、両手でジェスチャーまでして語ってしまう。
「……すご」
鹿角が目を丸くしていた。原作至上主義らしい彼女が、俺の言葉に耳を傾けている。
「なんかさ、すごい説得力ある。てか、凪野ってめっちゃ語るね」
「まあ、昔ちょっとかじってたから」
「かじってたって、映画研究会とか?」
「ああ、まあ……そんな感じ」
曖昧に答えると、鹿角は「へー」と興味深そうに頷いた。
「じゃあさ、凪野くん的には今回の映画、どう?」
「脚本も演出も良かったと思う。ただ――」
もし俺が共演していたら、どうだったろうか。
朝香の演技を受けて、どんな芝居を返せただろうか。
そんなことを考えている自分に気づいて苦笑した。
もう、そんなことを考える意味はないのに。
「ただ?」
「いや、何でもない。良い映画だったよ」
鹿角は少し首を傾げたが、それ以上は追及してこなかった。
「お腹空いたね。どっか入る?」
「ああ、そうだな」
映画館近くのカフェに入り、窓際の席に座った。鹿角はミルクティーを、俺はパフェを注文する。
「やっぱ映画の後はカフェで感想会だよねー!」
運ばれてきたミルクティーに口をつけながら、鹿角が嬉しそうに笑う。
俺の前には、色とりどりのフルーツが乗ったパフェが置かれている。
スプーンを手に取り、アイスクリームをすくって口に運ぶ。
「おっ、ここのパフェうまいな」
そう呟いて、次のスプーンを口に運ぶ。
鹿角は、じっと俺を見ていた。
「……ねぇ、凪野くん」
「ん?」
「なんで、美味しそうに食べるフリしてるの?」
スプーンを持つ手が止まった。
「いや、本当にうまいぞ」
「嘘。さっき映画館でポップコーン食べたとき、塩味をキャラメル味って間違えたでしょ」
鹿角は真剣な顔で俺を見つめていた。
「暗かったから、見間違えたとかじゃないよね。口に入れた後に言ったもん」
「……よく覚えてるな」
「気になってたから」
鹿角は少し不安そうに眉を下げる。
「もしかして、味がわからないの?」
俺は少し考えてから、小さく息をついた。
「気にするなただの味覚障害だ」
「味覚障害?」
「何も味がしない。甘いも、しょっぱいも、酸っぱいも。全部同じってだけだ」
鹿角は驚いたように目を見開いた。
「全部って……本当に何も?」
「食べ物を口に入れても、温度と食感しかわからない。冷たいとか、柔らかいとか、それだけだ」
「それって……いつから?」
「小学生の頃から。ずっとこうだ」
「原因とか、わかってるの?」
「ストレスだよ。小学生のとき、両親が離婚してさ。いろいろあって……それからだ」
俺は一発屋とはいえ、子役時代に大金を稼いでいた。
そのせいか降ってわいた大金を得た母親はどんどん狂っていき、不倫はするわ、仕事がなくなっていく俺に怒鳴り散らしたり、親父は親父で優しかった母親を狂わせたのは俺だと当たってきたり、それはもう散々だった。
「そんな……」
鹿角の声が小さくなった。
「もう慣れた。味がわからなくても、生きていけるし」
「でも、凪野くん、すごく美味しそうに食べてたよ」
「気を使われたくないからな」
俺は自嘲気味に笑った。
「味がわからないって言うと、みんな気を使うだろ。可哀想とか、大丈夫とか。そういうの、面倒くさいんだ」
それに仕事で食レポをする機会もあった。
あのときは、店が宣伝したいポイントを押さえ、事前にレビューを見てリアクションをしていた。
そのおかげか、俺の〝おいしく食べるフリ〟は無駄に洗練されていたのだ。
「だから、美味しそうなフリを……」
「ああ。そうすれば、誰も何も言わない。普通に接してくれる」
鹿角は何も言わず、そっと髪を耳にかけた。
さっきまで目立っていたターコイズの色が、今は影に隠れている。
「誰かに話したことあるの?」
「ない。お前が初めてだ」
こんな情けない話、朝香にはできなかった。
なぜ話してしまったのか、自分でもわからない。
ただ、鹿角になら話してもいいかもしれない。
そう思ってしまった。
「どうして、あーしに?」
「さあな……」
俺は視線を窓の外に向けた。
「お前は、なんか押し付けがましくないからだろうな」
「押し付けがましくない?」
「普通に接してくれるっていうか」
鹿角は少し考えてから、優しく微笑んだ。
「そっか。じゃあ、これからも普通に接するね。可哀想とか、大丈夫とか、そういうの言わない。今まで通り、普通にね」
鹿角はミルクティーを一口飲んでから、少し真剣な顔で言った。
「それと、あーしの前では無理して美味しそうに食べなくていいよ」
「どうして?」
「気を使われたくないのはわかるけど、美味しそうなフリするのも疲れるでしょ」
鹿角の言葉に、俺は少し戸惑った。
「慣れてるから平気だぞ」
「慣れてても、疲れることには変わりないじゃん」
鹿角はパフェのスプーンを置いて、真っ直ぐに俺を見つめた。
「あーしの前では、そのままでいいよ。無理しないで」
胸の奥が、静かに温かくなった。
「……ありがとな」
「どういたしまして!」
鹿角は笑顔を取り戻した。
その笑顔を見て、俺も自然と笑顔になっていた。
味覚障害のことを誰かに話したのは初めてだった。
話してよかったと思った。
少なくとも、鹿角の前では無理をしなくていい。
そう思えるだけで、気持ちが楽になった気がした。