とにかく曇る天才女優の幼馴染!   作:サニキ リオ

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第55話 感情は後からついてくる

 日課のジョギングを終えると、俺はすぐに稽古場へと向かった。

 登校時間まで二時間くらいしかないが、少しでも稽古をしておきたかったのだ。

 事務所があるフロアの下の階には小さな稽古場がある。

 

「お疲れ様です」

「遅かったわね、翼」

 

 中に入ると、そこには既に朝香がいた。

 相も変わらずストイックな姿勢には頭が下がる思いだ。

 

「役作りの調子はどう?」

「……正直、まだ何かが足りない気がしてる」

 

 自然とため息が零れ落ちる。

 形は作れる。

 声の重さも、含みの乗せ方も、分析した通りに動ける。

 

 でも、台詞を声に出すたびに、その形の中に何もない感覚がついて回っていた。

 

「迷い道もいずれ正道となります」

「っ!」

 

 その声を聴いた途端、周囲の景色が変わる。

 乾いた空気、無機質な岩壁、そして俺を押し潰さんとする岩の牢獄。

 俺はいつの間にか、孫悟空の封じられた五行山に囚われていた。

 

「石から生まれた石猿、孫悟空よ。お前はこの牢獄から出て何を望むのですか」

 

 そして、俺の前にいたのは朝香ではなかった。

 三蔵法師、その人だった。

 

「何も。ここから出してくれりゃ俺ァ、あんたに付き従う。そういうもんだろ?」

 

 自然と口を突いてそんな言葉が零れ落ちていた。

 一拍置いて何が起こったか理解する。

 無意識の内に、俺の内に眠る生まれかけの孫悟空を引き出されたのだ。

 

「二十九点って、ところかしら」

 

 その光景も一瞬にして掻き消える。

 

「……はっ」

 

 つい飲まれてしまっていた。

 

「やっぱり、まだまだだなぁ」

 

 朝香に勝った?

 冗談じゃない。

 

 こんなバケモンに勝ったなんて誇れる訳もない。

 プライベート・AIの演技はまぐれだ。

 状況が整い、火事場の馬鹿力を出せただけに過ぎない。

 あのときの演技を恒常的に出せなければ、朝香に勝つなど夢のまた夢だ。

 

「大方、乱暴者の悟空と理性的な悟空の間で揺れているってところかしら」

「よくおわかりで……」

「メソッド演技もいいけど、あんたの長所が疎かになってるわね」

 

 それはそうだろう。

 俺はメソッド演技に引っ張られただけで、テクニカル・アクティングが疎かになっていた。

 

「外側から作ってる内に、内側もできてくる。翼のそういう役作り……あたしは好きだったけど?」

 

 言われて、言葉が詰まる。

 視線だけがわずかに揺れた。

 

 外側から作る。

 形をなぞって、そのあとで中身が追いついてくる。

 それは、俺がずっとやってきたやり方だった。

 

「でも、それだと……!」

 

 途中で言葉を切る。

 プライベート・AIのときは違った。

 下村翼という役は、俺自身の痛みと地続きだった。

 感情が先にあって、技術がそれを形にした。

 だから、あの演技ができた。

 

 孫悟空は違う。

 石から生まれて、五百年岩に封じられた妖怪だ。

 人間の倫理観すら持たない存在を、俺のどこから引っ張り出せばいい。

 

「間に合わない、って顔してるわね」

 

 朝香は壁に背を預けたまま、淡々と続ける。

 

「今回は主役。しかもあの孫悟空。求められてる水準が違うのはわかる」

 

 一歩だけ近づいてくる。

 

「だからって、やり方を変える理由にはならないでしょ」

 

 距離が詰まる。

 逃げ場がなくなるほどではないが、意識は向く。

 

「いつかどこかの誰かさんが言ってたわ、脚本家の意図を組むのは息をするより簡単だー、ってね」

「そうだな。そうだった」

 

 やっと身についたメソッド演技に固執しすぎて、つい自分の長所を忘れるところだった。

 俺の十八番は、常に百点を出せるテクニカル・アクティング。

 

 形から入ればいい。

 感情は後からついてくる。

 

 頭ではわかったが、その後からがどこから来るのかが、まだ見えていなかった。

 

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