日課のジョギングを終えると、俺はすぐに稽古場へと向かった。
登校時間まで二時間くらいしかないが、少しでも稽古をしておきたかったのだ。
事務所があるフロアの下の階には小さな稽古場がある。
「お疲れ様です」
「遅かったわね、翼」
中に入ると、そこには既に朝香がいた。
相も変わらずストイックな姿勢には頭が下がる思いだ。
「役作りの調子はどう?」
「……正直、まだ何かが足りない気がしてる」
自然とため息が零れ落ちる。
形は作れる。
声の重さも、含みの乗せ方も、分析した通りに動ける。
でも、台詞を声に出すたびに、その形の中に何もない感覚がついて回っていた。
「迷い道もいずれ正道となります」
「っ!」
その声を聴いた途端、周囲の景色が変わる。
乾いた空気、無機質な岩壁、そして俺を押し潰さんとする岩の牢獄。
俺はいつの間にか、孫悟空の封じられた五行山に囚われていた。
「石から生まれた石猿、孫悟空よ。お前はこの牢獄から出て何を望むのですか」
そして、俺の前にいたのは朝香ではなかった。
三蔵法師、その人だった。
「何も。ここから出してくれりゃ俺ァ、あんたに付き従う。そういうもんだろ?」
自然と口を突いてそんな言葉が零れ落ちていた。
一拍置いて何が起こったか理解する。
無意識の内に、俺の内に眠る生まれかけの孫悟空を引き出されたのだ。
「二十九点って、ところかしら」
その光景も一瞬にして掻き消える。
「……はっ」
つい飲まれてしまっていた。
「やっぱり、まだまだだなぁ」
朝香に勝った?
冗談じゃない。
こんなバケモンに勝ったなんて誇れる訳もない。
プライベート・AIの演技はまぐれだ。
状況が整い、火事場の馬鹿力を出せただけに過ぎない。
あのときの演技を恒常的に出せなければ、朝香に勝つなど夢のまた夢だ。
「大方、乱暴者の悟空と理性的な悟空の間で揺れているってところかしら」
「よくおわかりで……」
「メソッド演技もいいけど、あんたの長所が疎かになってるわね」
それはそうだろう。
俺はメソッド演技に引っ張られただけで、テクニカル・アクティングが疎かになっていた。
「外側から作ってる内に、内側もできてくる。翼のそういう役作り……あたしは好きだったけど?」
言われて、言葉が詰まる。
視線だけがわずかに揺れた。
外側から作る。
形をなぞって、そのあとで中身が追いついてくる。
それは、俺がずっとやってきたやり方だった。
「でも、それだと……!」
途中で言葉を切る。
プライベート・AIのときは違った。
下村翼という役は、俺自身の痛みと地続きだった。
感情が先にあって、技術がそれを形にした。
だから、あの演技ができた。
孫悟空は違う。
石から生まれて、五百年岩に封じられた妖怪だ。
人間の倫理観すら持たない存在を、俺のどこから引っ張り出せばいい。
「間に合わない、って顔してるわね」
朝香は壁に背を預けたまま、淡々と続ける。
「今回は主役。しかもあの孫悟空。求められてる水準が違うのはわかる」
一歩だけ近づいてくる。
「だからって、やり方を変える理由にはならないでしょ」
距離が詰まる。
逃げ場がなくなるほどではないが、意識は向く。
「いつかどこかの誰かさんが言ってたわ、脚本家の意図を組むのは息をするより簡単だー、ってね」
「そうだな。そうだった」
やっと身についたメソッド演技に固執しすぎて、つい自分の長所を忘れるところだった。
俺の十八番は、常に百点を出せるテクニカル・アクティング。
形から入ればいい。
感情は後からついてくる。
頭ではわかったが、その後からがどこから来るのかが、まだ見えていなかった。