本読みが終わると、しばらく誰も口を開かなかった。
五木監督が台本を手に持ったまま、視線を朝香へ向けている。高杉さんは頬杖をついていた。どちらも口の端がわずかに上がっている。
「……いやぁ」
最初に声を出したのは伊本さんだった。
「怖かったねぇ、お二人さん」
笑い混じりだったが、本気の成分が混ざっていた。
「本読みでこの空気になるのは、心臓に悪いね」
南風原さんが苦笑しながら首を振る。
「現場入ったらどうなっちゃうんだろ」
「楽しみですねぇ」
高杉さんがニコニコしたまま言った。
「脚本書いといてなんですけど、あのシーンであそこまで空気変わるとは思ってなかったです。悟空の一呼吸の間、私も止まっちゃいました」
「翼の間の取り方が良かったからな」
五木監督が低い声で言いながら頷く。
「三蔵が動いた瞬間に合わせて返してきた。あれは計算か」
「半分はそうです。残りは朝香の動きに引っ張られた感じです」
「正直でよろしい」
短く頷いて、また台本に目を落とした。
ルナが台本を閉じながら、こちらへ顔を向けた。
「翼君ってさー。本読み中、ずっと朝ちゃんのこと見てたよねー」
「三蔵法師と悟空のシーンが多いからな」
「そうじゃなくてー」
俺の返答に、ルナは口を尖らせる。
「朝ちゃんが三蔵法師として喋るたびに、翼君の顔が変わってた。台本を追ってる顔じゃなかった」
返す言葉を探していると、横から腕を組んだ伊本さんの気配が動いた。
「わかるわかる。翼君、朝香ちゃんが動くたびに一回呼吸が変わるんだよね」
「それ、役としてー? それとも、素でー?」
「どっちでもある、としか言えないな」
正直に答えると、ルナが目を細めた。
「朝ちゃん、本当にすごいねー。対面で食らいつける人、まずいないからねー」
「朝香と共演したことあるんだっけか」
「プライベート・AIのとき、ゲストで一回ねー。あのときも朝ちゃんの現場って空気が変わると思ったけど、翼君はそこに入っていけてた。さすがだねー」
どこか遠い目をして、ルナは続ける。
「朝ちゃんのペースに飲まれるんじゃなくて、ちゃんと返してたもんねー。あのやり取り、本読みとは思えなかったよー」
「うんうん。三蔵法師と悟空の関係性として、面白くなりそうだね」
ルナの言葉に伊本さんも頷いた。
しばらく、賑やかな感想戦が続いた。
南風原さんと高杉さんが次の撮影スケジュールの話を始め、伊本さんが監督と何かを確認し合っている。
テーブルの上が少しずつ動き出して、顔合わせの場としての役割が終わりに近づいていた。
そのタイミングを見計らうように、ルナがこちらへ身を乗り出してきた。
声のトーンは変わらないのに、向けてくる視線がさっきより近い。
「ねぇ、翼君。もう一個聞いていいー?」
「なんだ」
「翼君って、役者としてどんな目標あるのー? 朝ちゃんみたいになりたいとかー?」
「朝香の上を目指してる」
即答すると、ルナの目がわずかに丸くなった。
「へぇー。朝ちゃんのことすごいと思ってるくせに、目指すのは上なんだー」
「すごいと思ってるから上を目指してるんだよ」
「なにそれー」
ルナが笑った。
声は場に溶けるくらいの音量だったが、視線だけは外れなかった。
少し間を置いてから、さっきより軽い調子で付け加えた。
「なんかカッコいいねー。私、翼君のこと好きになっちゃったかもー」
場の空気に乗せた、軽い冗談だった。
南風原さんの苦笑が視界の端に入る。
俺が何か返す前に、テーブルの端から音がした。
台本が、微妙なずれ方で置かれた音だった。
朝香が両手を台本の上に揃えて置いている。
視線はテーブルの一点に固定されたまま、表情は動いていない。
「み゛」
それから絶命寸前のセミのような声が、会議室に響いた。