あたしの名前は羽田朝香。
三蔵法師役に抜擢された天才女優だ。
本読みの前から、この部屋の空気が好きだった。
会議室特有の、使い回された空気。
窓のない密閉感。
テーブルを挟んで向かい合う配置。
どこへ視線を向けても、誰かと目が合う距離感。
席についた瞬間から頭は台本の中にあった。
三蔵法師。
これまで女優が演じてきた役だが、今回の三蔵法師は少し違う。
受動的に巻き込まれるのではなく、自分から厄介事へ踏み込んでいく。
錫杖を構えることも厭わない。
本読みが始まって、最初の数ページは様子見だった。
伊本さんの猪八戒は、想像よりずっと丁寧だった。
声の使い方が巧い。
台本を読んでいるのに、八戒がそこにいる感触がある。
ルナの沙悟浄は、まだ掴みきれていない印象だった。
声は通るし、存在感もある。
ただ沙悟浄の輪郭が薄い。
これから現場を重ねるうちに変わってくるのかもしれない。
翼の悟空は、最初の数ページは静かだった。
台本通りに読んでいる。
声の調子も抑えている。
何かを測っているような、慎重な入り方だった。
あたしは三蔵法師として、翼の悟空を一度だけ見た。
視線が合った瞬間、翼の目が微かに動いた。
何かを確認するような、一拍の間だった。
それで十分だった。
台本から視線を上げないまま、あたしは錫杖を構える場面の手前で息を整えた。
「悟空」
名前を呼んだ瞬間、翼の空気が変わった。
声を出す前に、姿勢が変わった。
肩の落ち方、視線の角度、息の吸い方。
どれも一拍遅れることなく、悟空として立ち直った。
あたしは三蔵法師として翼の悟空を見据えながら、内側では全く別のことを考えていた。
やっぱり、彼はすごい。
「師に向かって、その態度はなんですか」
台詞を言いながら、翼の反応を追っていた。
三蔵法師に対して敬意がない悟空。
それでも、邪魔だとは思っていない。その感情の置き方が、台詞の前の一拍の間に全部入っていた。
「……はっ」
翼が息を一つ吐いた。
「これはこれは、失礼いたしました三蔵法師様?」
台本通りの台詞なのに、声の重さが違った。
敬語の形を借りた、剥き出しの含みがある。
隣でルナが息を飲む音がした。
あたしは錫杖のように丸めた台本を持つ手に、わずかだけ力を込めた。
本読みが終わってからも、その感触は手に残っていた。
伊本さんが笑いながら感想を言って、南風原さんが苦笑して、高杉さんが嬉しそうに頷いた。
翼はルナの質問に答えながら、淡々とした顔をしていた。
役者としての目標を聞かれて、即答していた。
『朝香の上を目指してる』
その言葉が、胸の奥に落ちた場所がある。
あたしをすごいと思いながら、その上を目指すと言う。
あの頃と、何も変わっていない。
変わっていないのに、前よりその言葉に熱があるように感じた。
そんなことを考えていたところに、ルナの声が割り込んできた。
「なんかカッコいいねー。私、翼君のこと好きになっちゃったかもー」
その一言で脳がフリーズする。
そういえば、ルナは昔からあたしの真似ばっかり……まさか本当に翼のことを!
「み゛」