「本番、いきます」
カチンコが鳴った。
俺は如意棒を構えて、井田さんを見た。
牛魔王として、その目は静かだった。
かつての義賊の面影があるが、その奥に何かが澱んでいる。
悟空として、その目を読む。
知っている目のはずなのに、何かが変わってしまった。
「久しぶりだな……牛魔王の兄さん」
声が予定より低く出た。
悟空として、この感情を処理する。
怒りではなく、まだ信じたくないという気持ちを前に出した結果、感情が声に滲んでいた。
「おう。久しぶりだな、悟空。最後に会ったのは、お前が天界に召し上げられる前か」
井田さんの声が、スタジオに響いた。
低く、静か。
それでいて、どこか気さくな印象を持たせる絶妙な芝居だ。
「随分とやんちゃしたみたいだな。お前は昔から堪え性がない。まさか五百年も封じられるとはなぁ」
牛魔王は昔と変わらない親し気な空気を醸し出す。
それが、敵になるかもしれないと張りつめている悟空との対比になっていた。
「だが、無事に出られたようで何よりだ。そうだ。お前の釈放祝いだ。いい酒を用意して――」
「あの国を焼き払ったのは、兄さんなのか」
そこですかさず台詞を遮って、核心を突く。
それだけで空気が一気に重くなる。
「そうだ。俺自らの手で焼いた」
「なんでだよ」
悟空として、牛魔王のことを知っている。
弱い奴を守るために戦っていた英傑。
妖怪、人間に限らず罪のない者を傷つけることを、誰よりも嫌っていた。
その英傑が今、人に仇なす存在へと成り果てている。
「どうして、あんたが罪のない人間を殺す」
声に熱が乗った。
計算ではなく、悟空としてこの状況が腑に落ちていなかった。
「俺ァともかく、あんたはそんな人じゃなかったはずだ。一体、何があった!?」
信じていた親類の豹変。
昔、俺が両親に感じていた本物の感情を使う。
井田さんとは親子役を演じていたこともあって、その演技はピタリと填まった。
「答えろ……父さん!」
ピタリと填まりすぎた結果、俺の口から出たセリフは台本にある〝兄さん〟ではなく、〝父さん〟だった。
しまった、勢い余って感情のままに……!
スタジオが、一瞬静止した。
「……カット」
監督の声が、遅れて落ちてきた。
同時に、笑いが弾けた。
スタッフが一人、二人と吹き出して、気づいたらスタジオ全体が笑い声に包まれていた。
「翼……お前なぁ」
「すみません! 台本と違う台詞が……!」
頭を下げると、目の前で井田さんが肩を揺らしていた。
笑いを噛み殺そうとして、失敗していた。
「くくっ……確かに俺はお前の父さんだったな!」
井田さんが笑いながら言った。
「よーし、父さんNG大賞獲っちゃうぞー!」
さらに、井田さんが悪ノリしはじめた。
NG大賞とか、絶対ここ使われるじゃん……!
「あの、本当にすみません」
「いやいや、謝らなくていい。良い感じに和ませてもらったよ」
井田さんはタオルで目元を押さえながら、まだ笑っていた。
「ちょっと待て。笑いすぎて撮影できない……!」
南風原さんが腹を抱えながら言った。
それからスタジオが落ち着くまで、五分ほどかかった。
仕切り直して、もう一度本番に入る。
「一体、何があった!? 兄さん!」
今度は兄さんと、ちゃんと言えた。
スタジオが静まり返った。
「カット! 良かった。このテイク使おう」
監督が立ち上がって頷いた。
「翼、最初のテイクの感情の乗り方がベースにあったから、今のが生きたんだと思うぞ」
「ありがとうございます……思いっきり台詞間違えちゃいましたけど」
「あれはあれで価値があった。感情が本物だった証拠だよ」
井田さんが俺の肩を叩いた。
「いい芝居だった。父さんのくだりを除けば」
「うぐっ……」
いきなり感情のコントロールをミスるなんてまだまだ俺も未熟だ。
改めて気合いを入れ直さなければ。