あたしの名前は羽田朝香。
三蔵法師役を務めることになった天才女優だ。
別現場の収録で共演者がNGを出しまくったこともあり、ドラマ西遊記の現場入りが遅れてしまった。
「翼と共演、翼と共演♪」
「ご機嫌ね、朝香」
浮かれすぎていたせいか、マネージャーの愛夏姉さんが苦笑していた。
おっと、いけない。
気持ちを切り替えないと。
それに、今日は翼以外にも楽しみなことがある。
天才子役の小山内心芦。
あたしがいなくなったあとの劇団クロッカスで、看板を背負ってくれた子だ。
顔が可愛いのはもちろんのこと、あの子は現場での立ち回りがうまい。
演技の面でも同世代とは格の違うものを見せてくれる。
その姿はどこか昔の翼を彷彿とさせた。
「お疲れ様です。前の現場が遅くなってしまってすみません」
現場に着いたらまずは挨拶。
どんなに売れても、これだけは決して疎かにしてはいけない。
現場のスタッフさんに挨拶していると、扉の向こうから声が聞こえた。
「私、大きくなったら翼先輩と結婚したいです!」
「そいつは光栄だな」
「み゛」
……ハッ、危ない。意識が持っていかれるところだった。
「あの、朝香ちゃん? 大丈夫?」
「は、はい、すみません。ちょっと前の現場での疲れが溜まってたみたいで」
「スケジュールギリギリだものね。無理だけはしないでね?」
「あはは、お気遣いありがとうございます」
スタッフさんたちに誤魔化すと、すぐに監督たちにも挨拶へ向かった。
「翼。お疲れ様」
「おう、朝香。前の現場大変だったみたいだな」
「ちょっとね。共演シーンあるのに、遅れてごめんなさい」
「朝香がNG出したわけじゃないだろ。その分、こっちは共演者と親睦深められたし、気にするな」
ああ、こういう全部理解した上での会話が心地よい。
本当、翼と話しているだけで心が弾むようだ。
「羽田先輩、お疲れ様です」
そんな心地よい時間も終わりを告げる。
先ほど翼に唐突なプロポーズをかました心芦がそこにはいた。
声も、角度も、タイミングも、完璧に計算された笑顔だった。
「心芦ちゃん。久しぶりね」
「はい。ゲームのCM撮影依頼ですね!」
なんか、よくわからないけど、やたらと敵意を向けられている気がする。
前までは打算的だけど、ここまで露骨な態度を取るような子じゃなかったのに。
気を取り直して、衣装室へ向かった。
着替えを済ませて、メイクの最終確認をしていると、スタッフが一人、また一人とスタジオの方へ呼ばれていった。
「本番前のセッティングに入ります。準備できたらお声がけください」
最後のスタッフが扉を閉めると、衣装室に静寂が落ちた。
鏡の前に座ったまま視線だけ動かすと、壁際の椅子に心芦が座っていた。
マネージャーはどこかへ行ったらしく、二人きりだった。
「羽田先輩って、ずっとあの感じなんですか」
「あの感じ、って」
「翼先輩のことを目で追うやつです」
唐突な指摘に、顔に血が一瞬で上った。
「あなた、何を言って」
「かわいそうに……翼先輩はあなたに女として興味ないみたいですよ?」
心芦は子供らしくない不気味な笑顔で告げる。
「だって、自分のことをまったく知らない節穴女に惚れる理由がないですもんね」
そのまま言葉の刃を振りかざしてきた。
「ま、演技しか取り柄のないおばさんじゃ、しょうがないか」
どうやら、あたしをわざと怒らせたいらしい。
子供らしくてかわいいところもあるじゃない。
ここは大人の余裕をもって対応してあげなければ。
「こんクソガキァ!」
無理だった。
ぶっ潰したろか、このクソガキが。
「ぴっぴろぴー!」
心芦が舌を出して首を傾けた。
その顔がまた腹立たしかった。
計算なのか、本当に子供なのか、もうわからなくなってきた。
「ハンッ、先輩女優への態度がなってないわね」
あたしは腕を組んで、低く言った。
「そういう態度でいると、消えるわよ」
言ってから後悔した。
正論ではあるが、心芦みたいに普段はわきまえている子に行ったところで釈迦に説法だ。
問題は、どうしてわきまえているはずの心芦がこんなことをしたかだ。
心芦はあたしの注意に対してニヤリと笑う。
「えぇ!? まさか、小学生に嫉妬して権力を振りかざそうとしているんですか! あの天才女優の羽田朝香が!?」
「いい加減に――」
「なーんてね」
心芦の声から、急に力が抜けた。
さっきまでの鋭さが、すっと霧散していく。
「どうせアタシ、もうすぐ消えるからいいんだけどさ」
その一言に、あたしは言葉を失った。
「……消える?」
「ま、芸能界を引退するってこと」
心芦は吐き捨てるようにそう言った。
「最後くらい、歳が同じだった頃のあんたに勝ちたかったんだけど無理だよ、無理。だから、ちょっと八つ当たりってとこ」
子供の口から出た言葉とは思えなかった。
あたしは鏡から目を離して、心芦の方へ向いた。
「どうして引退なんか……あなたなら、まだ全然いけるのに」
あたしが聞くと、心芦は椅子の背もたれに寄りかかって遠い目をした。
「お母さんが、やめさせたいみたい。理由はいっぱい言われたよ」
どこか疲れた表情を浮かべると、心芦は指を折り始めた。
「業界に長くいると悪影響がある。子役は成長したら需要が減るから、今売れてるうちにやめた方が傷つかないで済む。勉強を優先した方が将来のためになる」
一つずつ、淡々と並べていく。
「全部、正しいよ。理屈としてはね」
心芦の声に、感情がなかった。
感情がないのではなく、感情を乗せないようにしているのだとわかった。
「お母さん。最初は応援してくれてたけど、業界のことを知っていくうちに芝居をやらせるのが嫌になったみたい」
「確かに芸能界はよくないこともいっぱいあるけど……」
「あと、子供らしさが急速に失われてるとも言われたよ」
今まさに子供らしさの欠片もない言葉を紡ぐ心芦を見て、あたしは何も言えなかった。
「理解はできるよ。きっと心配もちゃんとしてくれてる」
心芦は床を見たまま言った。
「でも、納得はできないよ」
そこで一度、息を吐いた。
「大人は勝手だよね。こんなに楽しい世界を教えておいて、将来を考えてやめろってさ」
声が初めて揺れた。
あたしは心芦の横顔を見た。
十歳の子供が、大人の言葉で、大人の理屈に負けながら、それでも納得しないと言っている。
「心芦ちゃん……」
「今更、普通の人生に戻っても――子供らしさなんて、もうわかんないよ」
その声には、怒りも悲しみもなかった。
どんな言葉も、今この子には届かない気がした。
それでも、黙っているわけにもいかなかった。
「一つだけ聞かせて」
あたしは椅子から立ち上がって、心芦の方へ向いた。
「演技は、楽しい?」
心芦がこちらを向いた。
答えるまでに、間はなかった。
「楽しいに決まってんじゃん。こんな楽しいこと、他にない」
今日初めて、計算のない顔で言った。
「奇遇ね。あたしもよ」
それ以上は、何も言わなかった。
何を言っても、説教になる気がしたから。
だから、その答えだけは受け取った。
廊下の奥から、スタッフが動く音だけが聞こえてくる。
部屋を出ていくとき、心は振り返って告げ。
「羽田先輩、ごめんなさい。最後にいじわるしたくなっちゃって」
皮肉なことに、そう言った心芦の顔は今までで一番子供っぽかった。