撮影は午後から本番に入った。
本番前の待機時間、朝香が五木監督の隣に立っていた。
監督のモニターを、二人で覗き込んでいる。
声をかけようとして、朝香の横顔を見て足が止まった。
いつもと違う目をしていた。
何かを読み取ろうとしている目だ。
朝香があんなに切迫した顔をするのを、俺は見たことがない。
モニターの画面を覗くと、午前中に撮った心芦のシーンが流れていた。
五行山のセット。
心芦演じる幼少期の玄奘が、岩の外から悟空を覗き込んでいる場面だ。
『ボクが出してあげようか』
スピーカー越しでも、心芦の声には張りがあった。
根拠のない宣言を、ためらいなく言い切っている。
画面の中で心芦がニヤリと笑う。
大妖怪の前で、怖がってもいなければ媚びてもいない顔だった。
朝香はその顔をじっと見ていた。
再生が終わっても、モニターから目を離さない。
「朝香。何をそんなに必死に見てたんだ」
声をかけると、朝香は一拍遅れて振り返った。
監督が気を利かせてその場を離れていく気配がした。
「心芦ちゃん、芸能界をやめるみたいなの」
朝香の声は、いつもより低かった。
「今日の撮影が最後になるかもしれないの」
胸の奥で何かが沈んだ。
あの演技が、今日で終わる。
午前中に見た心芦のシーンが頭の中で再生された。
あれだけのものを持っている子役が十歳で幕を引く。
自分も似たような経験をしただけに、複雑な気分だ。
「お母さんが反対していて、心芦ちゃん自身も納得はしてないけど折れそうで」
「……そうか」
出てきた言葉は、それだけだった。
もっと何か言えるはずだと思ったが、言葉が見つからなかった。
あれほどの才能が、理屈に負けて消えていく。
それが理不尽だとわかっていても、他人の家の話に踏み込む言葉を俺は持っていない。
朝香も同じなのだろう。
「あたしには、どうにもできない。家のことだし、心芦ちゃんの人生だし」
朝香は一度モニターに視線を戻した。
止まった画面の中で、心芦がニヤリとしたまま固まっている。
「だから、役作りを変えるのか」
俺が言うと、朝香の目が僅かに動いた。
「あの子が演じた幼少期の玄奘を喰らって糧にする。あたしの三蔵法師の中に、心芦ちゃんの玄奘を生かす」
静かな言い方だった。
「それがあたしにできる、唯一のことだから」
朝香が今日の撮影に何を持ち込もうとしているのか、その輪郭が見えた気がした。
主演として、役作りを一から組み直す。本番直前に、しかも他の誰かの演技をベースにして。
普通はやらない。やれない。
「本番までに、間に合うのか」
「間に合わないと思う?」
「微塵も」
朝香はそれから監督の元へ行って頭を下げた。
「準備してくる」
踵を返した朝香の背中は、いつも通りだった。
「相変わらず眩しいなぁ」
俺も負けてなんかいられないな。