朝香とルナは、先に宿泊所へと戻った。
俺と伊本さんは、日の落ちた砂丘に居残りで撮影だ。
撮影するのは第二話の三蔵法師一行が野営をしている場面だ。
焚き火のセットが組まれて、その周囲に四人が配置される。
火の明かりだけが頼りの薄暗い中、スタッフが照明の補助を最小限に絞った。
炎の揺れが、砂の上に不規則な影を落としている。
三蔵法師と沙悟浄が先に休んでいる設定で、今のシーンに映るのは悟空と八戒だけだ。
「本番、いきます」
カチンコが鳴った。
悟空として、夜の砂丘を見渡す。
妖気はなく、星が夜空に煌めいている。
「交代の時間ですよ、悟空」
八戒役の伊本さんが、焚き火の傍に腰を落とした。
大柄な身体が、火の光で大きく影になる。
「……もう少しいいですよ。眠れないので」
悟空として、その場に腰を下ろす。
警戒を解いたわけじゃないが、今夜は話し相手がいてもいいと思った。
「じゃあ、二人で見張りましょうか」
伊本さんは、笑顔のまま焚火を突き始める。
火の中に枯れ枝を一本足して、静かに燃えるのを眺めている。
「こうしていると家族のことを思い出しますなぁ」
「家族、ですか」
伊本さんの口元が、ほんの少し動いた。
「妻は美人で、上の子は六つ、下の子は四つ。自慢の家族さ」
「家族がいるのに旅に参加したんですか?」
「まあ、いろいろあってね」
ここで初めて明かされる八戒の過去。
それを現実の伊本さんの子煩悩というキャラに絡めて見せるシーンだ。
「上の子はもう読み書きができてね。下はまだちょこちょこ転んでばかりだけど、それがまた愛らしくて」
声のトーンが、一段柔らかくなった。
「転ぶたびに泣くけど、妻が駆け寄る前にもう立って。また転んで、また立って」
「我慢強いんですね」
「僕に似たんだろうさ」
伊本さんは笑ったが、その笑みはどこか遠かった。
火を見ている目の奥に、別の光景が映っているようだった。
俺は少し間を置いてから尋ねた。
「どうして玄奘についていったんですか。そんなに大切な家族と離れてまで」
焚き火の音だけが続いた。
伊本さんは答えるまでに、ひと呼吸を置いた。
「名誉のためだよ」
静かな声だった。
「身内に妖怪がいるというだけで、妻も子も肩身の狭い思いをしてきた。どれだけ大人しく暮らしていても、恐れられる。嫌われる」
枝が爆ぜて、火花が散った。
「この旅を成し遂げれば、仏の位が得られると聞いた。そうなれば、少しは違う。あの子たちが生きやすくなる」
伊本さんは火から目を離して、砂丘の方を見た。
「僕は昔、妖怪たちの上に立ち、大勢の人間を不幸にした」
「聞いています。妖怪大国である滅法国の軍を仕切っていたんですよね」
天蓬元帥、猪八戒。
七大聖にも匹敵する戦力を誇った大妖怪として、その名は大陸中に轟いていた。
だからこそ、孫悟空は八戒を兄弟子として敬意を払って敬っていたのだ。
「国王と離別したあとは散々な人生を送っていた。ボロ雑巾のように落ちぶれた僕を拾い、支えてくれたのが妻だ」
一つ一つの言葉に嘘がない。
積み上げるたび、セリフに説得力が増していく。
「愛する家族にこれ以上、苦労はかけたくないんだ」
そこには本物の感情があった。
俺は膝の上に手を置いたまま、伊本さんの横顔を見た。
強い妖怪だった人間が、家族のために旅に出た。
傍にいてやることより、遠くへ行くことを選んだ。
それが正しかったのかどうか、本人にもわからないのかもしれない。
「なら、とっとと天竺いかないとですね」
「え?」
俺の言葉に、伊本さんは首を傾けた。
「だって、さっさと玄奘を天竺に送っちまえば名誉も手に入るし、家族にも早く会える。でしょ?」
伊本さんは一瞬だけ目を細めた。
「はっはっは! 違いない!」
それから豪快に笑った。
ただ頷いて、また火の方へ目を向けた。
焚き火が静かに燃えている。
砂丘の奥で、風が低く唸った。
「カット!」
監督の声が落ち、静けさが残った。
「ありがとね、翼君」
伊本さんが立ち上がりながら言った。
その声には、まだ八戒の温度が残っていた。
「こちらこそ、最高の演技でした」
俺も立ち上がって、砂を踏んだ。
焚き火のセットが片付けられていく。
「そうだ。うちの子の写真見る?」
「ええ、宿泊所に戻ったら見せてください」
夜の砂丘に、スタッフの懐中電灯の光が動いている。
俺はしばらく、その光景を眺めていた。