「メソッド演技?」
鹿角が身を乗り出す。ノートを膝の上で少しずらして、姿勢を整えた。
「実際に感情を作り出す技法だ。役の人物になりきって、その感情を本当に体験する」
「本当に体験って、どうやるの?」
「例えば、この前の映画で朝香が演じた高校生の妻。あれは、朝香が本当に高校生に戻った人妻の感情を作り出してた」
鹿角は目を輝かせた。
「それ、どうやるの?」
言葉に詰まる。
理論は知っているが、俺はコツを教えられるほどメソッド演技がうまかったわけじゃない。そうなると、手段は限られてくる。
「聞いた方が早いな」
ポケットからスマホを取り出す。
[翼:メソッド演技のコツ、教えてほしい]
メッセージを送信してすぐ画面が光った。
[朝香:やっぱり演技やる気になったの!?]
違うと訂正しようとして親指が動く前に、次の通知が重なる。
[朝香:待ってて、今から電話する!]
突如として着信音が鳴り響く。
拒否する理由を探す前に、指が動いていた。
「もしもし」
『翼!』
声が弾んでいる。耳が少し痛いくらいの音量だ。
『やっぱり、役者に戻る気になったの!?』
「いや、そうじゃ――」
『ずっと待ってたのよ!』
言葉を挟む余地が見当たらない。朝香の声は興奮で少し上ずっている。
鹿角がこちらを見て、期待に満ちた表情で頷く。
スピーカーにして、と口の形だけで伝えてきた。
画面をタップして、スピーカーモードに切り替える。
『メソッド演技はね、役の人物になりきる技法なの』
朝香の声が部屋に広がった。鹿角は息を呑んで、じっと耳を澄ませている。
『表面的に演じるんじゃなくて、その役の感情を本当に体験するのよ』
「いや、理論はわかってるんだけどな。実際やるのは難しくてさ」
『そうね……例えば、悲しいシーンを演じるとき。翼は監督が泣いてほしいタイミングを読み取って泣いてたわよね』
「ああ、監督の理想像と撮った映像がどうなるかは頭の中で再現できるからな」
『いつ聞いても化け物よね……あたしは違うわ。過去の記憶を使うの。自分が本当に悲しかった経験を思い出して、その感情を引き出して変換する』
鹿角は真剣な顔でメモを取り始めた。ペンの動きが速い。
『それと、役の背景を深く掘り下げるのも大事ね。この役は、どんな人生を送ってきたのか。何がトラウマで、何を恐れているのか。そういうことを全部想像して、役の人生を生きるの』
「お前はその辺、本当にうまかったよな」
『ありがと。そうすると、自然に感情が湧き上がってくる。台本に書いてあること以上の感情が、勝手に出てくるのよ』
鹿角のペンが止まらない。ノートの文字がどんどん増えていく。
『翼は、テクニカル・アクティングが得意だったわよね』
「メソッド演技が苦手だから身に着けただけだ。結局、それしかできなかったし」
『あれはあれで、すごい才能だと思うわ』
胸の奥が、静かに波打つ。
『翼は脚本の意図を完璧に理解して、百点の答えを出せる。監督が求めてることを瞬時に判断して、その通りに演じられる。それって、すごく難しいことなのよ』
「そうか?」
自分でも驚くほど、声が小さかった。
『そうよ。あたしは役に入り込みすぎて監督の意図からズレることもある。翼は常に現場が求めてる演技を提供できる。それは適応型の役者としての才能よ』
「適応型ねぇ……」
『あたしは役になりきって、その役の感情を生きる。翼は現場のニーズに応えて、最適な演技を提供する。どっちが優れてるってわけじゃなくて、タイプが違うだけ』
鹿角がこちらを見ている。ノートを抱えたまま、じっと俺を見つめていた。
『また一緒にやれるといいわね』
電話が切れる。
部屋に戻った静けさが、やけに濃かった。
窓の外から、どこか遠くで車が走る音だけが聞こえる。
「すごい……あの羽田朝香と直接話せるなんて」
鹿角は目を輝かせて俺を見ていた。
「まあ、同じ劇団所属で共演経験もあるからな」
俺の演技は〝大人に媚びることしかできないヘタクソ〟の演技だ。
現場の空気を読んで、求められた演技を提供する。
俺にはそれしかできなかった。
「バッサー。羽田朝香に認められてたじゃん! 適応型の才能って!」
「……あんなの努力すれば誰にだってできるだろ」
適応型は百点を取れる代わりに、それ以上がない。
朝香は監督の意図からズレることもあると言っていたが、結局こっちの方がいいと監督を納得させるだけの演技をするのだ。
俺にはそんなこと一度もなかった。
「バッサー?」
鹿角の声で我に返った。
「ああ、悪い。じゃあ、朝香から聞いた話に注意してメソッド演技をやってみるか」
「うん!」
鹿角は真剣な表情で頷いた。
さっきまでのノートはもう閉じられている。
「本当に推しが死んだ時のこと思い出せ。そのときの感情を、もう一度体験するんだ」
「本当に」
鹿角は少し考えてから、もう一度カメラに向かった。今度は声を出さず、ただ画面を見つめる。数秒の沈黙。そして、ゆっくりと目を見開き、口元が震える。
「オ゛ジジン゛ダ……うぅうぅぅぅ」
濁点だらけの言葉を呟き、ゆっくりと膝から崩れ落ちてフェードアウト。
少なくとも、さっきよりはマシだろう。
「そうだ、それだ」
「ほえ? 今のでいいの?」
鹿角は驚いたように顔を上げた。
「感情が本物だった。ただ、地味すぎて伝わりづらいから、もう少し大げさにやるのも大事だ。芸人の誇張した物真似みたいなもんだ」
「なるほど! 本物の感情をちょこっと大きく表現するってことだね!」
鹿角は目を輝かせながら、ノートを開いてメモを取った。
「その感覚を掴めれば、あとは練習あるのみだ」
「わかった! 何度もやってみる!」
鹿角は何度か練習を繰り返した。
最初はぎこちなかったが、だんだんと自然になっていく。
表情の変化も、さっきより滑らかだ。
「いいぞ。感情の変化がわかりやすい」
「マジで? やった!」
鹿角は嬉しそうに飛び跳ねた。
「あとは、そうだな。もっとテンポよくした方がいい。ショート動画は、十五秒から三十秒くらいで収めろ」
「短っ! でも、確かにショート動画だもんね」
鹿角は納得したように頷く。
「その方が見やすいし、伸びやすい。長い動画は飽きられる」
「なるほど、テンポが大事なんだね」
鹿角は真剣な顔でメモを取った。
「他に気をつけることは?」
「表情の作り方だな。カメラは顔をアップで撮るから、目の動きや口元の変化が重要になる」
「目の動き、具体的には?」
鹿角はペンを構えた。
「食レポがわかりやすいな。A級グルメは目を閉じる、B級グルメは目を開くって具合にな。驚いたときは目を見開いて、浸っているときは目を閉じるんだ」
「なるほど!」
鹿角は一生懸命メモを取っている。ペンの音だけが部屋に響く。
「あと、声のトーンも変えろ。嬉しいときは高めに、悲しいときは低めに」
「ふむふむ、声のトーン、これも大事だよね」
鹿角は目を輝かせながら、ノートにどんどん書き込んでいく。
「それと、パッと見ギャルだろ、お前」
「え? うん、まあ、そうなるのかな?」
鹿角は困惑したように笑った。
「そこも武器にしろ。コメントに返信するときや、SNS上ではオタクに優しいギャルになれ」
「オタクに優しいギャル! それ、確かに需要ありそう!」
鹿角は興奮したように目を輝かせた。
「人間ギャップが好きなもんでな。オタクなんかは特にそうだ。派手な見た目の一軍女子みたいなのは、住む世界が違うなんて考える。その前提があるから、ギャルがオタクに寄り添うとコロッと好きになるってわけだ」
まあ、正確にはオタクだからではなく、こんな陰キャの自分にだけ優しくしてくれるなんて、雲の上の存在の陽キャなのに女神か!? みたいな卑屈な精神が産んだ幻だ。
実際問題、オタクに優しいギャルは、みんなに優しいし、そもそもギャルがオタクなのだ。
「使えるものは全部使え。上に行きたいならその精神は絶対に必要だ」
「わかった! ギャップ、全力で活かす!」
鹿角は嬉しそうに飛び跳ねた。
「とりま、これ投稿してみる!」
「編集も大事だぞ。テンポよくカットを切り替えて、飽きさせないようにしろ」
「わかった!」
鹿角は真剣な顔でスマホを操作し始めた。
画面の光が、彼女の顔を白く照らしていた。