砂丘での撮影が終わって、宿泊所に戻った。
他のキャストやスタッフが部屋に引き上げていく中、俺は外に出た。
宿泊所の裏手は、庭とも呼べない広さの空き地だった。
「スゥー……ふっ」
軽く如意棒を振るう。
この如意棒は撮影用に作られた特注品で、長さや重さが俺用に最適化されたものだ。
風を切る感触と、止まったときの重心の落とし方を確認する。
八の字に回してから両手で回し、片手でも回す。
棒術指南を受けたときは、棒を落としまくっていたが、すっかり落とさず手の甲を通して回せるようになった。
「八の字、両手、片手……アッキャー!」
最後に脇に挟んで両手を開いて決めポーズ。
アクションシーンはまだ先だが、それまでには完璧に仕上げないといけない。
夢中で如意棒を回していると、汗が首筋を伝ってTシャツの背中に張り付く。
「もっとペース上げてみるか……」
さっきよりも速度を上げてみる。
今度は片手で八の字に回しているときに、脇を使ってさらに加速させる。
「脇、外、外、脇……痛ぇ!?」
ガンガンに加速させてぶん回していたら、勢い余って頭にぶつけてしまった。
「おぉ……うおぅ……!」
「ちょっと、大丈夫!?」
地面にのたうち回っていると、声をかけられた。
「とりあえず、これで冷やしたら?」
顔を上げると、朝香が心配そうな顔をしてスポーツドリンクを差し出してきていた。
朝香は、部屋着に薄いカーディガンを羽織ったラフな格好をしていた。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
スポドリを受け取ると、ひんやりした感触が掌に広がった。
それからぶつけた箇所に当てて冷やしていると、痛みが段々と引いてきた。
「見てたのか」
「少しね」
「カッコ悪いとこ見られちゃったな」
「頑張ってる人間が格好悪いわけないじゃない」
朝香はそう言って優しくほほ笑んだ。
「……なんか素直に労わられると調子狂うな」
「何それ。あたしだって、素直に褒めるときくらい……あったかしら?」
自分で疑問に思ってんじゃねぇか。
「まあ、いいじゃない」
なんだか照れ臭くなってきたので、キャップを開けて一口飲む。
冷たい水が喉を通って、身体の中心に降りていく感覚がある。
朝香は特に何も言わず、俺の横に立って空き地の方を見た。
自分のペットボトルは持ったまま、開ける様子がない。
朝香がこちらを向いた。
外壁の灯りが、横顔に当たっている。
「今夜は無理しなくていいんじゃない?」
「なんでだよ」
「身体が砂丘の疲れを覚えてる。その状態で根を詰めすぎると明日に響くわ」
朝香はそこで少し間を空けた。
視線が空き地の端に流れて、また戻ってくる。
「それに、役に同調しすぎると戻ってこれなくなるわ」
「……別にそこまで入り込めてないぞ」
「そうね。作り出した役に食われていたもの」
言い切る口調だった。
俺はもう一口、水を飲んだ。
夜の空気が肌に当たって、汗が引き始めている。
「翼のメソッド演技はすごい。コツを掴んだから積極的に使いたい気持ちもわかる。だけど、使いこなせない技術ほど危ないものはない」
「俺がメソッド演技を使いこなせてないってのか」
「使えることと、使いこなすことの差はあなたが一番よくわかっていると思うけど?」
確かに、悟空を演じているときの俺の思考は孫悟空そのものになっていた。
作った役を纏うのではなく、そのものになっていたのだ。
だけど、俺はちゃんと現実に戻ってきている。
「翼。まだ撮影は始まったばかりよ。まだカチンコの音で戻ってくれるからいいけど、そのうちカチンコの音すら聞こえなくなるわ」
朝香がそんな風になっているのは見たことがないが、その言葉にはやけに説得力があった。
「現実に戻ってくるまでが芝居よ。もし、帰り道を見失ったらあたしを思い出しなさい」
それだけ言うと、朝香はペットボトルのキャップをようやく開けた。
一口飲んで、また閉める。
二人とも、しばらく黙っていた。
空き地の端で、砂が夜風に吹かれて細かく音を立てた。
「ははっ、まるで玄奘だな」
「ええ、あたしは三蔵法師だもの」
なんだかおかしくなって二人で吹き出してしまった。
そのとき、宿泊所の裏口が開いた。
「あ、いたいたー」
やってきたのは、ルナだった。
風呂上がりなのか、髪がまだ少し湿っている。
なのに、顔はばっちりメイクが入っていた。
「なんで風呂上りなのに、メイクしてるんだ」
「すっぴんは人に見せたくないんだよねー」
「寝る前に風呂入ればよくないか」
「風呂上がりの写真ってインプレ稼げるじゃーん。一応、これがすっぴんってことになってるしー」
真顔で即答するルナに、思わず感心した。
それを損得でやっているというより、空気を吸うようにやっている感じが、アイドルとして積み上げてきた時間の重さを感じさせた。
「さすが人気アイドルグループのナンバーワンだな」
「でしょー」
ルナは得意そうに笑って、それからスマホを取り出した。
「せっかくだし、三人で写真撮らない? 撮影風景として後で使えるじゃんー」
「後で使えるって、ドラマの宣伝でか」
「そうそう。南風原さんも、SNSでの展開は最初から考えてるって言ってたからー。こういう現場の雰囲気が伝わる素材、多いほどいいよねー」
なるほど、と思った。
ルナを西遊記に起用したのは、彼女のビジュアルや演技だけじゃない。
ルナ自身がSNSのコンテンツとして動けるという計算が、最初からあったのだ。
南風原さんらしい布石の打ち方だった。
「どうする」
俺が朝香を見ると、朝香は少し考えてから肩をすくめた。
「まあ、せっかくだから」
「よしきたー!」
ルナが先に俺と朝香の間に入ってきて、スマホを高く構えた。
三人分の顔が画面に収まる。
「はーい、チーズー」
シャッター音がして、ルナが画面を確認する。
「いいじゃんいいじゃん。翼君、もうちょっと笑ってー」
「笑顔の種類のリクエストをくれ」
「悟空っぽい感じでよろー」
「わかった」
悟空っぽさを調整するなら、メソッドで入った方が早いな。
俺の中に作った悟空を即座に呼び起こす。
「ちょっと、また……」
隣の玄奘が、視線だけをこちらへ寄越した。
何かを言いかけて、やめた顔だった。
なんだぁ……いつの間に、女みてぇに髪を伸ばしたんだこの坊主は?
「はっ……!」
シャッター音が響いた瞬間、現実に引き戻される。
「これいいじゃんー! 翼君、さっきより全然いい顔してるよー」
画面を覗くと、確かにさっきより自然な表情になっていた。
「次は翼君が如意棒振ってるやつ撮りたいー」
「動きを見せるなら動画のほうがいいんじゃないか?」
「いいねー、最高ー!」
如意棒を持って、さっきの素振りを再現する。
止まる間を作らないよう、連続して流す。
「かっこいいー! アクション映えするじゃんー!」
「アクションシーンの練習だからな」
「……今日は無理しないでって言ったのに」
「このまま投稿したいくらいだよー。まあ、解禁前だから無理だけどー」
ルナが動画を確認しながら、少し残念そうに言った。
「こういうの後で出すと確実にバズるよねー。衣装ありで砂丘で撮ったやつもあるしー」
「あなた、台本全然読まない癖に写真ばっかり撮ってたものね」
「これが私の仕事だよー。ファンは舞台裏が好きだからねー」
そうやって話しているうちに、宿泊所の裏口がまた開いた。
「あれ、まだ外にいたのかい」
伊本さんだった。
湯上がりの格好で、タオルを肩にかけている。
「伊本さん! ちょうどよかったー! 一緒に写真撮りませんかー?」
「おー、いいねいいね!」
伊本さんは二つ返事で加わった。
四人で並んで、ルナがまたスマホを構える。
三蔵法師、孫悟空、猪八戒、沙悟浄。
衣装じゃないのに、なんとなくそう見えた。
「はいチーズー!」
「いやぁ、こういうの楽しいねぇ」
伊本さんが目を細めた。
「若い人たちの青春に混ぜてもらって、おじさん感激だよ」
「伊本さん、また撮りましょー!」
「はっはっは、もちろんさ」
ルナが撮った写真を全員に送って、それぞれが確認している間、朝香がスマホを持つ手を静かに下ろした。
画面をしばらく見ていた。
それから顔を上げて、空き地の奥の方へ少しだけ視線を向ける。
何を思っているのかは、その横顔からは読めなかった。
「朝香」
「なに」
「こういうのも悪くないな」
朝香は少し間を空けてから、スマホをカーディガンのポケットにしまった。
「そうね」
短い返事だったが、声が柔らかかった。
「じゃあ、そろそろ入ろうかー。明日も早いしねー」
ルナが伸びをしながら言って、伊本さんも頷いた。
「そうだね。明日に備えてゆっくり休まないと」
伊本さんが笑いながら先に建物の中に戻っていき、ルナもそれに続く。
夜風が一度流れて、低木が揺れた。
「明日も頑張りましょ」
「ああ、そうだな」
俺は如意棒を持ち直して頷く。
灯りのついた入口を目指して、二人で歩いた。
廊下は静かで、先に戻ったルナと伊本さんの声も、もう聞こえなかった。