水の中は冷たかった。
暗くて、水圧があって、上がどこかわからなくなる感覚。
耳の奥で低い轟音が響き続けて、それが滝の音なのか自分の血流なのか、判断できなくなっていく。
『バカがよ。筋斗雲も呼べない人間が無茶をするからそんなことになるんだ』
ぼやける意識の中で、俺の声が頭に響く。
違う。俺の声じゃない。
『俺になろうなんざ、五百年早ぇ』
孫悟空だ。
俺が作り上げた石猿の妖怪が、意志を持って俺に語り掛けてきていた。
水の冷たさも、流れに引きずられる感覚も、遠くなっていく。
『覚えておけ。俺を顎で使えるのは玄奘だけだ。他の誰の言うことも聞く気はねぇよ』
それだけ告げて、悟空の声は聞こえなくなった。
同時に、意識が一気に覚醒する。
まずい。息がもたない。
腕を動かしても、水が掴めない。
流れに身体を持っていかれて、自分がどちらを向いているのかすら怪しくなってくる。
視界が暗くて、光がどこにあるのかわからない。
肺が収縮していくのだけが、はっきりとわかった。
そのとき、横から水を切る気配が近づいた。
迷いのない軌道だった。
まっすぐ、こちらへ向かってくる。
強い力で手首を掴まれ、身体ごと向きを変えられる。
流れを横切るように引かれて、足の裏に岩の感触が戻ってきた。
次の瞬間、顔が外に出た。
「っは――!」
肺に空気が戻る。喉の奥が焼けるように痛くて、咽せながらもう一度吸い込む。
周りの音が、一気に戻ってきた。
水が岩を叩く音、遠くからスタッフの声。
「バカじゃないの!?」
すぐ横で声がして、そちらへ顔を向ける。
見覚えのある衣装だった。
顔の印象がいつもと全然違う。
濡れた髪が頬に張り付いて、いつもの整った雰囲気が跡形もない。
水流でメイクが中途半端に落ち、鋭い三白眼とソバカスがはっきりと浮き出ていた。
それでも、間違えようがない。
「……ルナ、なのか?」
「喋らないで! 舌噛むよ!」
肩を掴まれ、また引かれる。
ルナは迷いなく動いていた。
水の流れを読んで、岩の方へ身体を寄せていく。
その動きに無駄がない。
水の中での動き方を、身体が知っているようだった。
「そっち、足つくから!」
言われた通りに足を伸ばすと、岩の感触が靴底に伝わった。
踏みしめて身体を起こすと、胸のあたりまで水から出た。
「っはぁ……げほっ」
空気が肺の奥まで入っていく。
水を吸い込んでいたのか、咽せるたびに胃の中が揺れる感じがした。
「……最っ悪」
ルナが小さく呟いた。
視線は俺ではなく、自分の顔へ向いている。
指先で目元をなぞって、崩れたメイクの状態を確かめている。
その仕草に焦りと諦めが混じっていた。
「よりによって、すっぴん見られるなんて……」
さっきまでの調子とは違う、素に近い声だった。
息を整えながら、状況を整理する。
「なんで、ここに?」
ルナは今日、別行動のはずだった。
「私は滝の下でのシーンを撮影してたから」
水を払いながら、ルナは答えた。
袖を絞ると、水がぽたぽたと落ちる。
「岸で見てたら、バカが飛び込んできたから飛び込んだだけ」
淡々としていた。
助けに来た経緯を、それ以上でも以下でもなく言い切った。
息を整えていると、岸から複数の声が一気に降ってきた。
「翼君!」
「大丈夫か!」
滝の下で待機していたスタッフが、こちらへ向かってくる気配がする。
ロープを持っている人間もいた。
ルナは岸の方へ顔を向けてから、また俺を一瞥した。
「自力で歩ける?」
「ああ、大丈夫だ」
「じゃあ、さっさと行くよ」
先に動き出したルナの後を追って、岸へと向かった。
水の抵抗が、足を動かすたびに全身にかかってくる。
それでも、さっきよりずっと動けた。
スタッフに引き上げてもらって、岸に上がった瞬間、砂利の感触が足裏に広がった。
水を吸った衣装が重くて、立っているだけで疲れる。
ルナは先に上がって、スタッフが差し出したタオルを受け取っていた。
顔を拭いながら、さっと周囲を確認している。
カメラがどこを向いているかを、反射的に把握している動きだった。
その横顔に、三白眼とソバカスがまだはっきり残っていた。