とにかく曇る天才女優の幼馴染!   作:サニキ リオ

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第86話 脳破壊される側視点 パート12

 あたしの名前は羽田朝香。

 三蔵法師役を務めることになった天才女優だ。

 

 芝居から帰ってこられなくなかった翼が滝つぼに飛び込んだときは、心臓が止まるかと思った。

 泳ぎの得意なルナがいてくれた本当に良かった。

 

 目を覚ました翼は意気消沈といった様子だ。

 無理もない。

 翼は現場に迷惑をかけることを誰よりも嫌うもの。

 そんな翼が本当に苦しそうに、覚悟を決めた表情で告げた。

 

「……朝香。一つ、頼みがある」

「珍しいわね」

 

 内心、心臓が飛び出るかと思った。

 翼が、あたしに頼みごとをしている。

 自分の問題は全部自分で解決しようとするあの意固地な翼が、あたしに頼んでいる。

 

 嬉しくないわけがなかった。

 

「次のルナとの共演シーン。カメラ外で、俺の視界に入る場所にいてくれないか」

「何をするの?」

「お経を唱えていてほしい。声に出さなくていい。口パクでいい。ただ、唱えていると俺がわかれば十分だ」

 

 声も出さず、そこにいるだけでいい。

 それだけで翼の助けになれる。

 背中から羽が生えて崖の上まで飛んでいけそうな気持ちだった。

 

「要するに、緊箍児の代わりに使いたいということ?」

 

 内側でウキウキしながら、必死に表情を取り繕う。

 

「そういうことだ。応急処置にしかならないのはわかってる。根本的な解決は自分でやる。ただ今の俺には、一度暴走を止める手がかりが必要で」

「自分でコントロールできるようになるまでの繋ぎってことね」

「そうだ」

 

 条件を一つ出した。

 あたしに頼ったまま終わりにしないこと。

 

 本当はもっと言いたかった。

 信じてる、とか。

 絶対大丈夫、とか。

 そういう言葉は、今の翼には逆効果だとわかっていたので飲み込んだ。

 

「翼がメソッドを使いこなせるようになるまで、あたしは三蔵法師でいてやる。でも最終的には、あなた一人で戻ってこられるようになりなさい」

「ああ」

「約束よ」

 

 頷いた翼の表情が、少しだけほぐれていた。

 あたしは腕を組んで、テントの外に視線を向ける。

 感情が顔に出る前に、どこかへ逃がさなければいけなかった。

 

 翼の役に立てる。

 翼があたしを必要としてくれた。

 それだけで、今日という日がとてつもなく特別なものに感じた。

 

 落ち着け、あたし。

 これはただの応急処置だ。

 翼にとっては演技の問題を解決するための手段でしかない。

 浮かれる理由なんてどこにもない。

 

 わかっている。わかっているのに。

 

 本番前の準備が始まった。

 あたしはカメラが入らない位置に立って、翼の視界に入るよう角度を調整した。

 ここから翼まで、それなりに距離がある。

 

 口パクが伝わる距離としては遠いが、伝えなければいけない。

 翼の芝居の錨になれるように、三蔵法師でいなければいけない。

 

 呼吸を整えて、三蔵法師を下す。

 天竺を目指す高位の僧侶。

 その人格を、全身に降ろす。

 

 感情を整える。姿勢を正す。視線を定める。

 

「オン・サンマヤ・バンダ・カン・ソワカ……フラーム・フラーム・ヴァジュラ・バンダ・カン……」

 

 今回のドラマで設定された緊箍呪を唱えるたびに、自然と心が無心へと近づいていく。

 そして、口から出る音が消えて口だけが動くようになった。

 唇だけが、静かに言葉の形を作り続ける。

 

 悟空の位置から、時折視線がこちらへ流れてくる。

 彼は錨がある場所を確認している。

 ならば、師として答えなければならない。

 

 三蔵法師はここにいる、と。

 

 そのまま続けていると、本番前の立ち位置確認で、悟浄が悟空の唇に自分のものを重ねているのが見えた。

 

「は? ……オン・サンマヤ・バンダ・カン・ソワカ……」

 

 役が吹き飛んでしまったので、お経を音から唱え直す。

 

 えっ、ちょ、待って待って、どういうこと?

 

 確かに本番では人工呼吸をするシーンはある。

 それはあくまでも溺れた悟空を見つけて人工呼吸を施したあとからスタートするシーンだ。

 少なくとも、立ち位置の確認段階ではする必要のない行為だ。

 

 それをルナがわざわざしたということは、だ。

 

「み゛」

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