「み゛」
夏の日差しと共に、絶命寸前のセミのような声が聞こえる中。
本番前の位置の確認で、横たわる俺の唇にルナのものが重なっていた。
こうして間近で見ると、メイクのバッチリ決まった整った顔だ。
それでも、俺にとっては必死に俺を助けようとしてくれたメイクの落ちた顔のほうが魅力的に映った。
「……ぷはぁ」
「……ここではキスしなくても良かったんじゃないか?」
「練習でできないことは、本番でもできないから」
ルナの表情は、どこか暗かった。
それも一瞬のこと。
すぐにいつもの飄々とした態度へ戻っていく。
「ちなみに、これ私のファーストキスだけどー?」
「へぇ、そうか。俺は初じゃないけど」
「おー、プレイボーイ」
「事故だよ、昔な」
適当にあしらいつつも、内心ルナのことが気がかりだった。
俺を助けたときから、どこか普段被っている仮面にひびが入っているような気がしたのだ。
今のキスだって、内心嫌がっているのは感じ取れた。
シーン的には人工呼吸をして悟空を助けるシーンだったが、嫌なら別に初めからNGを出せばよかったのだ。
「貴重なファーストキスをこんなんで消費してよかったのか? 本番のほうが納得できたろ」
「ま、好きな人いてもできないだろうからねー」
ふと、零れ落ちた本音に、俺は何も言えなくなった。
「本番、いきます」
カチンコの音が鳴った。
滝の近く、岩場の縁。
水音が絶えず響いている中、俺は水の中から引き上げられた直後の体勢で倒れていた。
衣装が濡れて重い。
身体に水が残っている感覚を、そのまま役に乗せる。
悟空として、今何が起きたかを整理する。
妖怪に背後を取られ、筋斗雲に乗って追いかけようとしたところを、水の中に引きずり込まれた。
それを近くにいた悟浄が助けた。
悟空にとって、背後を取られるのは屈辱だ。
助けられたのも、気に食わない。
その感情は内側から溢れ出しそうになるが踏み止まる。
意識を緊箍児へ集中させる。
頭を締め付ける金の輪。
玄奘に繋がれた枷。これが、俺と悟空を繋ぐ境界線だ。
これがある限り、俺は悟空でありながら俺だ。
カメラ外の端に、虚ろな目をした朝香の姿があった。
きっと、無心でやってくれているのだろう。
三蔵法師の衣装のまま口が静かに動いていて、声は出ていない。
唇だけが、お経の形を作り続けていた。
それだけで、俺の足場が戻ってくる。
「……助かった」
岩に手をついて、身体を起こす。
すぐ横には、沙悟浄が立っていた。
いつも齧っているキュウリを持っていない。
水に入った跡があって、衣装の裾が湿っている。
「お礼なんて、別にいいけど」
ルナの声が、いつもより少し低い。
いつも通りの軽さが表面にある。
その下に、何か別の層がある。
普段より薄く、わずかに本音が透けて見える感触だった。
「なんでここにいた」
「たまたま」
視線が流れた。水面の方を見て、また戻ってくる。
「たまたまにしては、タイミングが早かったな」
「気のせいじゃない?」
口元が笑っているのに、目が笑っていない。
視界の端で、朝香の口が動き続けていた。
「お前、いつも一人で動いてるよな」
「一人の方が気楽だからねー」
「俺たちと一緒にいるのが嫌なのか」
「嫌って、わけじゃないけど……」
ルナはそこで少し間を空けた。
わざとらしい沈黙だった。
本音を隠すために、間を置いているのが透けて見える。
その透け方が計算より深いところから来ていた。
沙悟浄の感情が滲んでいる。
仕込んできたものより、深い場所からだ。
「ハッキリしねぇ奴だ」
再び役に引き込まれそうになった瞬間、意識を端に向けた。
口パクのお経が、変わらず続いていた。
それがあれば、俺は戻ってこられる。
「助けてあげたのに、なんか疑われてる?」
「うちの師匠が底抜けにお人好しなもんでな。疑うのは俺の役目ってわけだ」
悟空として、真っ直ぐ沙悟浄の目を見る。
「一人で動いてて、一人で調べて、一人で戻ってくる。それがお前のやり方だろ。なのに今日は違った」
ルナの目が、一瞬だけ揺れた。
その瞬間、また引き込まれる。
再び俺は緊箍児へ意識を戻して、悟空としての足場を立て直した。
「……別に」
ルナが視線を外した。
「近くにいたから、それだけ」
声のトーンが、さっきより僅かに落ちた。
わざとらしさが一枚剥がれた瞬間だった。
仕込んできたものが、意図せず出てくる感触。
悟空として、それを受け取る。
「疑って悪かったな」
「え?」
体を起こして頭を下げた悟空に、悟浄は困惑する。
「お前はいい奴だ。それがよーく、わかった」
「何がよくわかっただ……あたしの何を知ったのさ!」
悟空の言葉を起点に、悟浄の素が零れ落ちるシーン。
それが想像以上に、零れ落ち過ぎていた。
五木監督はカットをかけなかった。
つまり、このまま演れということだ。
「俺ァ、人を見る目はあるんだ。お前が綺麗だってことがよくわかった」
このセリフは、悟浄がずっと欲しかった言葉を言われたことで悟空に惚れるきっかけになる。
問題は思ったよりも感情演技ができている反面、演技の安定性が揺らいだルナにできるかというところだが……。
「あ、う……」
バッチリできていた。
表情まで操り、照れている感じがバッチリ出ている。
いや、これはテクニカル・アクティングじゃない。
メソッド演技だ。
本物の感情――恋心を持ってきている。
「うし、そろそろ回復したな……胡仙を助けにいくぞ」
「どうしようかなー」
「来ないなら一人で行く」
「……しょうがないなー」
口先だけの渋り方だった。
もう動く気でいるのが、足の重心でわかる。
悟空として立ち上がりながら、視界の端をもう一度確認した。
朝香の口が、まだ動いていた。
ギリギリだったが、俺は最後まで俺としていられた。
「カット!」
監督の声が飛んで、水音が現実のものに戻った。
肺に空気が戻る感覚があった。
役に引き込まれる寸前を、ずっと綱の上で堪えていた身体が、ようやく力を抜いた。
「良かったよ。もう一回確認するが、翼。途中で止まりかけたのは?」
「役のコントロールを確認していました」
「制御はギリギリってところか。ルナ。今のシーン、後半の温度変化が効いてた。その調子で頼む」
「了解でーす」
横目でルナを見ると、さっきまでの沙悟浄の顔は、もうどこにもなかった。
目の端がほんの少し、まだ遠い場所を見ている。
カメラ外の端に視線を向けると、朝香はすでに衣装を整えてスタッフと次の段取りを確認していた。
「……もっと頑張らないとな」
少なくとも、自分の手で芝居から戻ってこれるようにならねば。