西遊記の撮影が再びやってきた。
今日のシーンは三蔵法師一行が沙悟浄の正体を知る場面だ。
覆海大聖である蛟魔王の手下として送り込まれたスパイ。
それが沙悟浄だと明かされる、物語の転換点になる場面だった。
セットは旅の途中で立ち寄った廃寺の設定だ。
柱が傾いて、床板が軋む。
薄暗い照明の中に、四人が向かい合って立っている。
「本番、いきます」
カチンコが鳴った。
三蔵法師一行として旅を続けてきた沙悟浄が、蛟魔王の手下だったと発覚する。
台本では、旅の途中で見つかった密書がきっかけだ。
悟空として、目の前のルナを見る。
仲間だと思っていた相手が、敵の間者だった。
怒りと、裏切られた感覚と、それでも旅を共にしてきた時間がある。
その感情を乗せて、台詞を返す。
「……お前、最初からそのつもりだったのか」
溢れる悟空の感情を朝香が隣にいることでコントロールする。
「答えやがれ! 捲簾大将、沙悟浄!」
ルナが口を開いた。
「あーあ、バレちゃったかー」
「カット」
監督の声が落ち、スタジオが静まる。
「ここは裏切り者として、冷酷でありつつも妖艶な感じを出してほしい」
「了解でーす」
いつもの返事だった。
ただ、声が少し平たかった。
仕切り直して、もう一度カチンコが鳴る。
同じ台詞を繰り返して、もう一度同じ場面へ差し掛かる。
「答えやがれ! 捲簾大将、沙悟浄!」
「あーあ、バレちゃったかー」
「カット」
また同じところで止まった。
ルナの台詞は正確だった。
声も通っている。
立ち位置も崩れていない。
沙悟浄がそこにいなくても問題はない。
いつも通りルナがやってきた、斎藤ルナとして画に映る演技があれば事足りる話だった。
それをやろうとしているのに、何かが噛み合っていない。
監督が立ち上がって、ルナに近づいた。
二人で短く話している。
ルナは頷きながら聞いていた。
その横顔が、どこか遠かった。
三テイク目。
四テイク目。
五テイク目。
監督の声が落ちるたびに、スタジオの空気が少しずつ重くなっていく。
「すみませんでした。もう一回お願いします」
ルナの声のトーンは変わらない。
笑顔も崩れていない。
テイクを重ねるごとに、その笑顔を維持するコストが上がっているのが見えた。
俺には聞こえていた。
収録の廊下で聞いた、あの声の質と同じものが、今のルナの声の端に滲んでいた。
「休憩にしよう」
五木監督が告げた。
スタッフが動き出して、照明の一部が落ちる。
ルナはその場に立ったまま、台本を手の中で軽く丸めていた。
視線が床に落ちている。
いつもカメラがどこを向いているか把握しているルナが、今は何も見ていなかった。
伊本さんがルナの横に並んで、柔らかい声音で声をかける。
「焦らなくていいよ。難しいシーンだから」
「すみません、頑張りますー!」
それに対して、ルナも笑顔で返した。
俺は如意棒を持ち直して、セットの端に寄った。
ルナが掴もうとしているものは、わかる気がした。
いつも通りに映ろうとしている。
斎藤ルナとして画になろうとしているのだ。
だけど、彼女にあった自分に対する絶対の自信が失われているように見えた。
おそらく、感情の場所が今のルナにはわからなくなっている。
ルナが何を抱えているかは知っているから、余計に軽い言葉をかけられなかった。
休憩の時間が、静かに過ぎていった。