誰も彼女を知らない。   作:ヘルタ様万歳

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名前のない春

第三話

果たして、幽園■■の人生とは何だったのだろうか。

 

他者に愛され、他者から求められ。その果てにただ静かに散っていっただけの存在?

 

名簿には確かに私の名前があった。顔や所属、在籍記録も。けれど、それらはただ存在していたという事実を証明しているだけで、私という存在の何一つを語ってはいない。

 

結局、外見だけだったのだ。

 

人は私を見て、美しいと言う。

綺麗だと。

特別だと。

 

見てくれだけが小綺麗に整っていても、その内側には何もない。空っぽな器。風が吹けば乾いた音を立てるだけの伽藍洞。

 

それが、私だった。

 

私は自分の仕様の無さを自覚しているから、別に中身を見てほしいなんてありきたりに嘆いたりもしない。

 

ただ――放っておいてほしかった。

その程度だったのだ。

 

誰にも求められず、誰にも執着されず。青空の下を何事もなく歩いていたかった。ただ、それだけ。

 

けれど普遍とは誰にでも平等に与えられるものではないらしく、ありふれている筈のものほど、時にひどく手が届かないくらい高い場所にあった。

 

なんて滑稽だろうか。

 

路端に座り込み駄々を捏ねる子供の様にただ望むだけで誰にも歩み寄ろうとはしなかった癖に、美しい柄の描かれた殻ではなく中の空洞を愛してほしいだなんて。誰かに理解されたいわけでもなく、孤独だけは嫌がっていた。曖昧で、中途半端で。だから罰が当たったのだ。

 

人を拒みながら、人の中で生きようとした。誰も愛さないまま誰かに優しくされる事だけを望んで……そんな都合のいい願いが叶うわけもないのに。

 

ふと、窓の外に視線を向ける。

 

夕方の色が滲み始めているのに、その青さだけは薄れずに残っている。何も知らない顔で、何も関係ないというように。

 

「……いいなぁ」

 

言葉は自然に零れた。羨望なのか諦めなのか自分でも分からない。ただあの空だけがどこまでも自由に見えた。

 

静かな図書館の中で紙の擦れる音が遠く響く。

 

誰かが頁をめくったのだろう。その音を聞きながら、私はゆっくりと椅子にもたれかかった。

 

結局、名前を知ったところで何かが変わるわけではない。鮮明に記憶が戻るわけでもなければ、失ったものが戻るわけでもない。ただ、幽園■■という空っぽの輪郭だけがそこに残った。

 

まるで、焼け落ちた部屋の跡みたいに。

 

 

 

 

 

 

正義実現委員会の扉を開いた時、羽川ハスミはほんの僅かに背筋を正した。入学してまだ間もない。制服にも校舎にも、この学園特有の空気にもようやく身体が馴染み始めた頃だった。それでも、正義実現委員会という名前には自然と姿勢を改めさせられる。トリニティ総合学園の秩序と規律を担う組織。そこへ所属する以上、自分もまた相応しくあらねばならない――そう考えるのは、彼女にとってもはや呼吸に近い習慣だった。

 

「本日の校内見回り、私に担当させてください」

 

そう申し出た時、周囲の先輩たちは少し驚いたような顔をした。入ったばかりの一年生が、自ら初日の巡回を買って出るとは思わなかったのだろう。だが、ハスミ自身にとっては自然な事だった。自分に出来る事があるのなら、率先して引き受けるべきだ、と。それだけの話である。

 

「校舎の配置や構造なども把握しておきたいですし」

 

静かに微笑みながらそう告げると、そこまで言うならとそのまま任される形になった。

 

夕方へ傾き始めた校舎は、昼間とは異なる静けさを帯びていた、授業中とは違う、人の気配がゆるやかに薄れていく時間。窓から差し込む西日の色もどこか柔らかかった。

 

ハスミは廊下を歩きながら、無意識に周囲へ視線を巡らせる。

 

警邏である以上目を光らせ、治安維持に努めなければならない。些細な異変も見逃さず、生徒たちが安心して学園生活を送れる環境を守る。それが正義実現委員会に所属する者としての責務だった。

 

気の緩みは規律の綻びへ繋がる。一つの見落としが取り返しのつかない事態を招く事もある。だからこそ、常に周囲へ意識を張り巡らせる必要があった。そうして胸中で静かに自身へ喝を入れた、その時だった。

 

ふと、視線の端に何かが留まる。

 

廊下の先。開け放たれた窓。風が吹き込み、白いカーテンがゆるやかに揺れている。その場所に、一人の少女がいた。

 

窓枠へ身体を預けるようにして静かに校庭を眺めている。海をそのまま溶かしたような長い青髪が風に揺れて、光を受けるたび毛先が水面のように淡く煌めく。その姿だけが周囲から切り離されて見えて、ハスミは思わず足を止めた。

 

その少女は、とても美しかった。

 

あまりにも自然にそこへ存在しているのに、現実感だけが余りにも希薄だった。まるで風景の一部として描かれた絵画がそのまま立ち上がったかのようなドキリとした感覚。

 

形の良い横顔が映る。白い肌。長い睫毛。水色の瞳。どれもが整い過ぎていて、どこか作り物じみている。けれど不思議と冷たさは感じず、触れれば簡単に壊れてしまいそうな危うさに肌を直接撫でられる様な不安に煽られる。

 

夕陽が彼女の輪郭を薄く染めた。窓の外では運動部の生徒たちの掛け声が遠く響いているのに。喧騒から切り離されたように、その少女だけが別の時間の中に立っているようだった。

 

「――失礼」

 

出来るだけ柔らかい印象を与える様に努めて、ハスミはその少女へ声をかけた。生徒が窓枠へ寄りかかっている以上、本来なら注意を促すべき場面なのだから。

 

少女が、ゆっくりと振り返る。

 

その瞬間、ハスミは自分の呼吸がほんの僅かに止まった事を自覚した。

 

横顔だけでも息を呑むほど美しかったのに、声をかけられてから少し遅れて振り返った少女の顔は今までに目にしたそのどれよりも特別に映った。

 

窓の外を見ていた意識が水面からゆっくり浮かび上がってくるような、そんな緩慢さ。青い髪がさらりと肩を滑り、夕陽を受けて淡く光った。それから少しして、水色の瞳が静かにハスミを映した。

 

その視線には警戒も驚きもなかった。ただそこに人が居たから見る、それだけの温度しか感じられない。

 

「こんにちは」

 

先に口を開いたのは少女の方だった。鈴を転がすような声、という表現を、ハスミはその時初めて理解した気がした。澄んでいて、すっと耳に残る様な心地良い美しい声。美人は声まで美しいのかと、らしくない事を考えた。

 

「こんにちは。……その、窓枠へ寄りかかるのは一つ間違えれば危険な行為になり得ます。落下でもすれば大事ですから」

 

ハスミは静かに歩み寄る。委員会としての立場を思い出すように自然と口調を整えて。もっとも、その注意には普段ほどの強かさがなかった。自分でも分かるほど声音が柔らかい自覚がある。

 

少女は一度だけ瞬きをする。それから窓の外へ視線を戻し、ふっと薄く笑った。

 

「大丈夫だよ。落ちたりしないから」

 

気を付けるではなく、落ちないと断言するような言い様に僅かなズレを感じながらも、本人がそういうならと引き下がる。

 

「本人が気を付けているならこれ以上は言いません」

 

「誤解を招く様な事してごめんね?」

 

「いえ……」

 

風が吹き込む。カーテンが揺れ、少女の長い髪が窓の外へ流れるように靡いた。ハスミは無意識にその横顔を見つめていた。

 

綺麗だ、と。その感想ばかりが何度も頭の内側へ浮かび上がる。単純な言葉なのにそれ以外思いつかない。作り物めいた整った顔立ちも、透き通るような肌も、窓辺に立つ姿そのものも妙に現実感が薄くて、まるで最初から誰かの記憶の中にだけ存在している幻想の様だった。

 

「……失礼ですが一年生、ではありませんよね?」

 

ハスミはわずかに視線を細める。少女はその問いにすぐには答えなかった。水色の瞳がゆっくりとこちらを向き、それから少しだけ悪戯っぽく笑った。

 

「どう見える?」

 

「……え?」

 

「私、何年生に見える?」

 

からかうような声音だった。けれどその調子さえどこか掴み所がない。

 

突然の予期しない質問に暫し言葉に詰まる。

 

同学年で見かけた事は一度もない事から、少なくとも同学年ではない気がする。

 

「……落ち着いた方だとは思います」

 

慎重に言葉を選ぶハスミに、少女はおかしそうに小さく笑った。

 

「それ、褒めてる? それとも『老けてる』の新しい表現方法だったりするのかな」

 

「い、いえっ、決してそういうわけでは……」

 

訂正しながら、ハスミは自分が妙に調子を狂わされている事へ気付く。

 

「ふふ、……ごめんね? 君が神妙そうな顔してたからさ、ちょっと揶揄ってみたくなっちゃった」

 

少女は楽しそうに笑う。揶揄われたと分かっても尚、彼女に対し一切の怒りが湧いてこない。ただ容姿が整っている、というだけでは説明できない不思議な魅力が彼女にはあった。見ていると、視線を逸らす理由が少しずつ失われていく様な。

 

「……お名前を伺っても?」

 

気付けば、そう尋ねていた。

すると彼女は静かにハスミの方へ顔を向けた。

 

その沈黙は妙に長く感じられた。夕方の光がゆっくり床を滑り、遠くで運動部の掛け声が響く。世界は普段通りに動いているのに、この窓辺だけが薄い膜で隔てられているかの様に恐ろしく感じた。

 

やがて彼女は口を開く。

 

「……幽園」

 

そこで、一度言葉が途切れる。

 

「幽園、■■」

 

集中して聞いていたにも関わらず僅かなノイズが頭に響いた。まるで古いラジオへノイズが混ざるように、その部分だけ雑音にかき消されてしまった。しかしそんな自然なものではなくて、聞こえているはずなのに認識だけが滑り落ちるかの様な不可思議な現象。

 

「……え?」

 

ハスミは思わず聞き返した。

少女は少しだけ首を傾げる。

 

「聞こえなかった?」

 

「いえ、その……」

 

確かに、声は聞こえた。だが、名前だけが頭に残らない。発音を理解する直前で何かに掻き消されたかのような不自然さ。ハスミはわずかに眉を寄せた。けれど、目の前の少女はどこか他人事みたいに微笑んでいる。

 

「気にしないで。あまり重要な事じゃないから」

 

そう言って再び窓の外へ視線を戻した。

 

しばらくの間、二人の間には静かな沈黙が漂う。

 

窓の外では運動部の掛け声が遠く響いていた。夕陽は校舎の壁を赤く染め、風が吹くたび開け放たれた窓からカーテンがゆるやかに揺れた。

 

少女――幽園は、その景色をぼんやり眺めている。まるで見慣れているはずの光景を初めて見るものみたいに。

 

ハスミは無意識にその横顔へ視線を向けていた。

 

長い睫毛。透き通るような白い肌。夕陽を映した水色の瞳。近くで見るほど現実感が薄れていくような感覚があった。整いすぎたものには時折こういう奇妙な違和感が宿る。その光景があまりにも綺麗で、ハスミは自分がしばらく言葉を失っていた事に少し遅れて気付いた。

 

自分でも不思議だった。ハスミは人の容姿だけで、こんなにも感情を乱される性格ではない。むしろ普段は、相手の立ち振る舞いや仕草、言葉遣いの方へ意識が向く事が多い。

 

けれど目の前の少女は違った。存在そのものが妙に目を引いて、つい視線が吸い寄せられてしまう。いっそ暴力の様だった。

 

「ねえ」

 

不意に、幽園が口を開く。

ハスミは小さく瞬きをした。

 

「はい?」

 

少女はこちらを見る。

 

その視線は穏やかだった。けれど、どこか距離感がおかしい。人を見る目というより、水面へ映った影を眺めているような違和感がある。

 

「そういえば、君の名前は?」

 

彼女の事はあまりよく知らないが、何となく、ハスミから

見た彼女の真意は別にある様な気がした。

 

「一年の羽川ハスミと申します」

 

幽園はその名前を頭の中で転がすように、小さく繰り返す。

 

「――羽川ハスミ」

 

鈴を鳴らすような声だった。自分の名前がこんな風に響くものなのかと、ハスミは少しだけ驚く。普段聞き慣れているはずの音なのに、まるで別のものみたいに聞こえた。

 

「綺麗な名前だね」

 

幽園は静かに笑う。その言葉に、ハスミはわずかに目を見開いた。

 

「……ありがとうございます」

 

体の芯が熱くなっていくのを自覚しながら、返事が少し遅れてしまう。幽園はまた窓の外へ視線を戻し、ハスミもこれ以上邪魔をすべきでないと考え、見回りを再開した。

 

 

 

 

 

その後も、ハスミは何度か幽園と顔を合わせるようになった。

 

とはいえ、待ち合わせをしたわけでも約束を交わしたわけでもない。ただ校内を見回っていると、不思議なほど自然に彼女の姿が視界へ入り込んでくるのだ。

 

幽園は静かな場所を好むらしかった。

 

中央図書館の窓際。人気の少ない書架の奥。あるいは、その付近の芝生。陽の当たる場所へ無造作に寝転び、空を眺めている事もある。

 

最初にその姿を見つけた時、ハスミは少し驚いた。

 

芝生へ横たわる幽園は、まるで最初からそこに存在する風景の一部の様だった。長い青髪が草の上へ流れ落ち、陽光を受けるたび、水面のように淡く揺れる。白い肌は日差しの中でも妙に青白く見え、閉じられた瞼の長い睫毛が静かな影を落としていた。

 

自由気ままな猫みたいだ、とハスミは思った。

 

気まぐれで、人懐っこそうに見える瞬間がある。けれど少しでも踏み込み方を誤れば、何も言わず離れていってしまいそうな危うさがある。

 

それからは見回りの度、ハスミは無意識の内に彼女の姿を探している自分に気付いていた。

 

図書館付近を通る時。人気の少ない廊下を歩く際。中庭へ足を踏み入れた瞬間、視線が自然と空の様な青色を探していた。自分でもどうかと思うほど、ハスミは幽園にのめり込んでいた。

 

それは単に容姿が整っているからだけではない。確かに彼女の容姿は息を呑むほど美しい。均衡の取れた輪郭、透き通るような肌、水面を閉じ込めたみたいな瞳。そのどれもが非現実的なほど完成されている。しかしハスミを狂わせているのはどちらかと言えば、もっと別の部分だった。

 

たとえば幽園は、人の名前を呼ぶ時、どこか不思議そうな顔をする。まるで言葉の感触を一つずつ確かめているみたいに。逆に、自分の名前を呼ばれても、そこへ感情が結びついていないように見える瞬間もあった。

 

彼女はよく笑うが、その笑みにはどこか決定的な空虚さがある。一見楽しそうなのに、偶に自重を重ねる様に凪いでいる瞬間がある。それがハスミには恐ろしくもあり、同時に目を逸らせない理由でもあった。

 

幽園はハスミから見ても、壊れかけているように見えた。

 

正確には、どこか欠けたまま存在しているような。けれど本人はその欠落を少しも恐れていない様にも見える。むしろ当然のものとして受け入れている節さえあり、それが妙に痛々しかった。

 

だからハスミは無理に干渉しないよう努めた。見かけても、話しかける為にわざわざ近付いたりはしなかった。偶然近くを通った時や、目が合った時にだけ自然に声をかける。

 

「こんにちは、幽園さん」

 

図書館脇の芝生。木陰へ横になっていた幽園が声に反応してゆっくり目を開ける。

 

水色の瞳が、ぼんやりとハスミを映した。陽光を受けたその色は、まるで薄いガラス細工みたいに透き通っている。

 

「んー? あぁ……こんにちは、羽川」

 

彼女は眠たげに笑う。その声音は柔らかく、風へ溶けるように軽い。

 

木陰へ横たわる幽園は、今日もどこか現実感が薄かった。芝生へ流れる青髪は陽光を受けて淡くきらめき、その輪郭だけが周囲から切り離されて見える。両腕を枕にして寝転び、空を見上げる姿はまるで最初からそこへ描かれていた風景みたいだった。

 

ハスミはその姿を見下ろしながら、胸の奥へ静かな熱が広がるのを感じていた。

 

最近はもう、そうした感情を否定しようとも思わなくなっている。ただ同時に近付き過ぎてはいけないとも理解していた。幽園はあまりにも無防備で、掴もうとすれば指の隙間から零れてしまいそうな危うさがある。だからこそハスミは踏み込み過ぎない距離を保とうとしていた。

 

「お休みのところ申し訳ありませんが、そろそろ雨が降るかもしれませんので」

 

幽園は寝転んだまま、ゆっくり空を見上げた。木々の隙間から覗く空はまだ青い。だが遠くの雲はわずかに灰色を帯び始めていて、風にも湿り気が混ざっている。

 

「ああ、本当だ」

 

「気づいていらっしゃらなかったのですか?」

 

「うん。見てたら、ぼんやりしちゃってた」

 

幽園は目を細める。

 

「幸福な者は時計の針を見ない……だったかな。誰の言葉だっけ」

 

「少なくとも、今の状況にはあまり相応しくない気もしますが」

 

ハスミが少し困ったように返すと、幽園はくすりと笑った。

 

「そう?」

 

「ええ。雨に降られて体調を崩されても困ります」

 

「羽川は真面目だね」

 

「……そうでしょうか?」

 

腑に落ちず、そう返しながらも声音は自然と柔らかくなる。幽園と話していると自分でも気付かないうちに警戒心が薄れていっている気がして自重する様に咳払いをした。

 

幽園は少ししてからゆっくり身体を起こした。芝生へ流れていた髪がさらりと肩を滑り落ちる。その青色は近くで見るほど不思議だった。深い海の底だけを掬い取ったみたいな、静かな色。

 

「羽川はさ」

 

「はい?」

 

「疲れないの?」

 

「何がでしょう」

 

「ずっと、そうやって姿勢良く堂々としてること」

 

ハスミはわずかに言葉を止めた。

 

幽園は静かにこちらを見上げている。その水色の瞳は透き通っている癖に、時折底の見えない暗さを宿す瞬間があった。

 

「……疲れないと言えば嘘になります。私も人間ですので」

 

少し考えた末に、ハスミはそう答える。

 

「ですが、いずれ誰かがやらなければならない事ですから」

 

「ふぅん」

 

幽園はどこか遠くを見るように目を細めた。

 

「人は皆、役者だっていうけど、羽川は様になってるね」

 

「役、ですか?」

 

「うん。正義の人って感じ」

 

その言葉に、ハスミは少しだけ視線を揺らす。

 

正義の人。

 

そう言われる事に慣れていないわけではない。事実そういった機関に所属している。けれど幽園の声音にはどこか奇妙な響きがあった。褒めているようで、少しだけ寂しそうな。

 

「幽園さんは、時々そうして本の言葉を引用なさいますね」

 

「あはは。癖みたいなものかな」

 

幽園は軽く笑う。

 

「本って便利だよ。自分の言葉じゃないのに、口にするだけで中身の伴った人間の振りができる」

 

その言葉にハスミは息を詰めた。彼女は笑っている。いつも通り、薄く穏やかに。なのにその一言だけ妙に冷たく胸へ残った。

 

「――幽園さんの中身が伴っていないなんて、私は思いませんが」

 

ハスミの言葉に、幽園は少し驚いたように瞬きをした。それから、ふっと楽しそうに笑う。

 

「羽川って、たまに踏み込んでくるよね」

 

「申し訳ありません。無遠慮でした」

 

「ううん。嫌じゃないよ」

 

そう言って、幽園は立ち上がった。制服へついた草を軽く払いながら、空を見上げる。

 

遠くで、小さく雷が鳴った。

 

「……ほんとに降りそう」

 

「ですからそう申し上げたでしょう」

 

「ふふ。羽川の言う事は聞いておくべきだったかな」

 

幽園はそう呟くと、不意にハスミを見上げる。

 

木漏れ日の隙間から覗く水色の瞳が、静かにハスミを映していた。透き通るように淡い色なのに、その奥だけは深い海のように暗い。覗き込めばそのまま音もなく沈められてしまいそうな瞳だった。

 

「ねえ、羽川」

 

名前を呼ぶ声が柔らかい。囁くほど小さいわけでもないのに、不思議と耳のすぐ傍で響いているようにさえ聞こえる。

 

「はい、なん…でしょうか」

 

幽園は少しだけ首を傾げた。長い青髪が肩を滑り落ち、陽光を受けて水面みたいに揺れる。その仕草は妙に緩慢で、見ているだけで呼吸の速度まで乱されそうだった。

 

「一緒に図書館、行く?」

 

その声音にはどこか甘い熱が混ざっていた。ただの誘いなのに、断られる事を最初から想定していないかの様な自然さがある。まるで隣へ来るのが当然だとでも言うように。

 

幽園は人との距離が近い。それをハスミは知っていた。だが彼女の場合、それは媚びや計算とは少し違う。本人にその気があるのかさえ曖昧なまま、人の心の柔らかい部分へ入り込んでくる。

 

そして今、彼女はきっと意図的にそれをやっている。

 

水色の瞳が、じっとハスミを見上げる。

 

試すように。

誘うように。

 

その視線だけで、胸の奥が静かに熱を帯び始める。

 

行きたい、と。ほんの一瞬そう思ってしまった。

 

もし今ここで頷けば、幽園はきっと嬉しそうに笑うのだろう。図書館の窓際に座って、本を開きながら、時々こちらを見て微笑むのだろう。そんな光景が、ひどく容易く想像できてしまう。

 

けれど、ハスミは感情を押し込めるようにゆっくり首を横へ振った。

 

「すみません。まだ業務が残っていますので……」

 

その返答に幽園は一瞬だけ目を瞬かせた。

 

ハスミはその変化を見て、やはり試されていたのだ、と理解する。ハスミが何かを言おうと口を開きかけた時、幽園はふっと笑った。

 

その笑みはいつもより少し柔らかかった。

どこか楽しそうで、少しだけ安心したようでもある。

 

「そっか。羽川って、ちゃんとしてるね」

 

からかうような声音なのに、不思議と嫌味がない。むしろその奥には微かな満足感のようなものさえ滲んでいた。

 

「当然です。私は正義実現委員会ですから」

 

ハスミがそう返すと、幽園は肩を揺らして笑う。

 

「ふふ……羽川のそういうところ、好きだなぁ」

 

その一言は確かにハスミの理性を揺らした。胸の奥が熱を持つ。呼吸がわずかに浅くなる。

 

幽園は、それに気付いている節さえある。それなのにその笑顔には悪意がない。ただ面白がるような、悪戯めいた光だけが揺れていた。

 

「花言葉って知ってる?」

 

唐突な問いだった。

ハスミはわずかに目を瞬かせる。

 

「花言葉、ですか?」

 

「うん。花に意味を付けるやつ。“あなたを愛しています”とか、“永遠の幸福”とか。そういうの」

 

「一般的な知識程度でしたら」

 

「ふぅん」

 

幽園はゆっくり近づいてくる。

 

その歩調は相変わらず緩やかなのに、彼女との距離が縮まるたび呼吸が乱れる。木漏れ日の下で見る彼女は、あまりにも綺麗だった。風に揺れる髪も、透き通る瞳も、薄く笑う口元も、全部が妙に現実感を欠いている。

 

「じゃあ、黒百合の花言葉は?」

 

「……申し訳ありません。存じ上げません」

 

そう答えると、幽園は小さく笑った。

 

「そっか」

 

彼女は少しだけ目を細める。

水色の瞳がじっとハスミを映していた。

 

「羽川に似合ってると思うよ」

 

その言い方が、妙に意味深だった。けれどハスミが何かを尋ね返す前に、幽園はくるりと背を向ける。

 

「じゃあ、またね。羽川」

 

長い青髪が夕暮れの中で揺れる。

 

呼び止める間もなく、彼女はそのまま校舎の向こうへ消えていった。まるで最初から風景の一部だったものがそのまま静かに溶けていくみたいに。

 

残されたハスミは、しばらくその場へ立ち尽くしていた。

 

胸の奥に、妙な引っ掛かりだけが残る。

 

 

 

後日、図書館で調べ物をしていたハスミは、その頁を開いた瞬間、小さく息を止める事になる。

 

『黒百合』

 

花言葉、――恋。

 

「……っ」

 

思わず本を閉じかける。静かな図書館の中で、自分の心臓の音だけがやけに大きかった。

 

脳裏へ浮かぶのは、水色の瞳を細めながら笑っていた幽園の顔。

 

あの時の声音が、遅れて耳の奥で蘇る。

 

「……また、からかわれましたね……」

 

小さく呟く。けれどその声音には呆れよりも、どこか熱を帯びた困惑の方が強く滲んでいた。

 

そして何より問題なのは、揶揄われたと知った今でも、幽園の笑顔を思い出すだけで胸が少し熱くなる自分を否定しきれない事だった。




思わせ振りな態度取ってる幽園にも問題がある気がしてきた。

それはそうと、何となくタイトルを変えました。
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