面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました   作:濃厚とんこつ豚無双

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第十話 夏季統合動員演習

老レオポルト・フォン・ライフェンベルクの手紙が、王都を経てクラウスの手元に届いたのは、夏季統合動員演習の第四日目の朝だった。

 

ただし、クラウスが手紙を読んだのは深夜になってからである。

 

朝の時点でクラウス・フォン・ライフェンベルク大尉がしていたのは、祖父の筆跡を見て気を緩めることではなく、泥と電信音と怒鳴り声の間で、いまにも詰まりそうな一個軍団分の移動表を睨み続けることだった。

 

祖父の手紙は、内ポケットの中で一日中、少し湿っていた。

 

 

夏季統合動員演習の総覧前の最終日は、ミッテルフェルト結節駅から西へ二十キロほどのラーエ河渡河と高地への攻撃をもって締めくくられるはずだった。

 

北部二邦の先頭部隊が河西岸に橋頭を取る。

第二梯団が正午までに砲兵と工兵を連接。

午後にはハーゼン高地への攻勢に移る。

 

野戦図上で書けば三行で済む計画だ。

だが、三行で済む計画ほど現場では泥に弱い。

 

運悪くも前夜からの雷雨で、ラーエ河は水かさを増していた。

工兵隊が夜通しで組んだ舟橋三列のうち、下流側の一列は未明に係留索が流木に引かれて半ばずれ、中ほどの橋面も踏板の一部が浮いている。

 

渡れることは渡れる。

ただし、その「渡れる」は「無理をしないなら」という程度の意味に留まっていた。

重砲兵縦列や弾薬車輌まで含めて予定通り、というには、河水も工兵もあまりに現実的だった。

 

しかも、総覧前の最終日なだけあり見物人が多かった。

 

観閲塔には統帥府長官補佐官、軍務省の老将官たち、数邦の君侯代理。

そして、ベルヴァーニュ公使館付武官ド・サン=クレール少佐の姿まである。

 

演習とは本来、失敗を安全に経験するためのものだ。

だが人は、見られているとそれを忘れる。

見栄が実務に混ざると、軍隊は不機嫌になる。

 

そして不機嫌な軍隊の近くにいると、クラウスが怒鳴られる確率が上がる。

 

それが最も困る、と彼は思っていた。

 

 

午前六時四十分。最初の報告が入った。

 

「下流第一橋、重量車輌通過不能。補修に少なくとも一時間半」

「第二橋、騎兵および徒歩兵は可。重砲兵は間隔拡大を要す」

「上流第三橋、工兵架橋中。完成見込み、九時二十分」

 

三本の橋のうち、使えるのは実質一本半。

 

ハルトゥング少佐は、その三本の報告を机上に並べ、短く言った。

 

「正午までに両梯団を西岸へ揃えるのは無理です」

 

事実だった。

そして事実は、いつもながら誰も喜ばせなかった。

 

軍務省の老少将が即座に不機嫌になる。

 

「正午攻勢開始は日程に載っている。補佐官閣下も諸君侯代理も、そのつもりで来ておられる。時間は動かせん」

 

鉄路局の現地文官が、紙束を抱えたまま返した。

 

「時間が動かせないなら、橋が動いていただくほかありませんが、いまのところ橋は人格を持っておりません」

 

正論は、疲れた朝にはよく効く。

だが人を納得させるほどではない。

 

ヴィルマー中将が雨除け天幕の下で路線図を見下ろした。

 

「下流第一橋が死んだ以上、第二橋に全部を押し込めば詰まる。第三橋が開く九時二十分まで待てば、砲兵の西岸整列が間に合わぬ」

 

「だったら重砲を後ろへ回し、歩兵だけ先に押し込む」

 

と老少将が言った。

 

「重砲がなければ西岸の攻勢判定が立ちません」

 

ハルトゥング少佐の答えは、いつも通り容赦がなかった。

 

「先頭部隊だけで高地へ突っ込み、判定官に『気概で撃った』とでも申すおつもりですか」

 

正しい。

完璧に正しい。

だが老少将の顔が、みるみる赤くなっていく。

 

まずい、とクラウスは思った。

 

このまま放っておくと、少佐と老少将の間で「正しさ」と「体面」の衝突が起きる。そこへ諸邦の将軍たちが加われば、議論は発散し、橋はいつまでも渡れず、演習は失敗し、その後始末がたぶん自分に来る。

 

「ライフェンベルク大尉、君はどう見る」

 

クラウスは机上の実施要領と渡河判定附録を見た。

雨で少し湿った紙。

橋頭確保。攻勢開始線。砲兵火力連接。重量後続。

 

全部が「渡河」の中に入っている。

 

歩兵が渡るのも渡河。

砲兵が渡るのも渡河。

弾薬車が渡るのも渡河。

全部が同じ「渡河」として扱われている。

 

だが橋は一本半しか使えない。

一本半しかない橋で、全部を同時に渡すのは無理だ。

 

ならば、何を先に渡せばいいのか。

 

正午に必要なのは何か。

全部が西岸にあることではない。

攻勢を「開始できる状態」が西岸にあること。それだけだ。

 

攻勢を開始するのに必要なのは、先頭の歩兵と、砲兵火力が届いていること。

歩兵は橋を渡らないと駄目だ。

これは動かせない。

 

だが砲兵は?

 

重い砲そのものを無理に橋へ押し込まなくても、東岸高地から撃てば、西岸の前面には届くのではないか。

前進観測班だけ西岸へ渡して、「そこを撃て」と信号を送ればいい。

砲兵の本体がまだ東岸にいても、火力だけなら連接できる。

 

つまり――

 

「渡河」と「火力連接」は、別のことだ。

 

別のことなら、分ければいい。

また分けるのか、と自分でも思った。

本当に芸がない。

だが橋が足りないなら、箱を増やすしかない。

 

「……攻勢開始と、全渡河完了を、同一時刻で扱う必要はないのではないでしょうか」

 

天幕を叩く雨の音だけが続いた。

 

「正午に必要なのは、両軍団が全部西岸にあることではなく、攻勢開始線に先頭戦闘梯団が入り、砲兵火力が連接されていることかと存じます」

 

「歩兵と工兵と軽砲だけを『先頭戦闘梯団』として第二橋から先に渡します。重砲兵は東岸に残したまま、前進観測班を西岸に渡し、電信で連絡すれば『火力連接済』として判定を受けられるはずです。弾薬車と重量後続は第三橋完成後。つまり――」

 

つまり、いつもの結論だ。

 

「――渡河を一つの行為ではなく、先頭、火力、重量後続に分けるのです」

 

橋が足りないから、渡河を分ける。

本質はそれだけだった。

 

ハルトゥング少佐の目が細くなった。

ほとんど同時に、路線図と橋面容量と砲兵射界を頭の中で回し始めている。この人の頭の回転だけは、本当に怖いくらい速い。

 

「東岸砲兵の射界は?」

 

とヴィルマー中将が訊いた。

 

少佐が即座に答えた。

 

「ハーゼン高地前面なら届きます。前進観測班を西岸へ渡せば、演習判定上は火力連接を立てられる。重砲隊そのものが西岸に揃うのは午後でよい」

 

鉄路局の文官が、生き返ったような顔になった。

 

「重量後続を第三橋へ回せるなら、第二橋は持ちます。歩兵と軽砲だけなら正午前に十分押し込める」

 

よし、とクラウスは思った。

計算上は成り立つ。

正直な所、多分届くんじゃないか以上の認識はなかったのだが、少佐が言うなら大丈夫なのだろう。

 

だが老少将は、なお不満そうだった。

 

「しかし、観閲塔から見れば、重砲が東岸に残るではないか」

 

見た目の問題。

これも予想していた。いや、予想というより、この老少将がここで「見た目」を持ち出すことは、これまでの会議で嫌というほど見てきた。

また表札を一枚足すしかない。

 

「観閲上は、重砲兵は『予備火力位置』として東岸高地に布置されるとすればよろしいかと」

 

老少将が少し目を開く。

 

「後ろに残されたのではなく、先を支えるために後ろへ置かれた。そういう位置づけです。西岸へ進むのが先頭戦闘梯団、東岸に残るのが予備火力梯団。どちらも攻勢の一部です」

 

老少将は、その語を口の中で転がした。

 

予備火力。

「残された」ではない。

「置かれた」だ。

 

人は位置そのものより、呼び名に納得する。

本当に不思議だが、何度見てもそうだ。

 

「予備火力、か。ならば見た目も悪くはない」

 

ハルトゥング少佐が鉛筆を走らせた。

 

「第一軍団先頭二個旅団、工兵一個大隊、観測班、軽砲二個中隊を第二橋へ集中。第二軍団は歩兵一個旅団のみ先行。重砲は東岸高地へ展開、射界登録後に判定連接。弾薬と輜重は第三橋完成後」

 

少佐は顔を上げた。

 

「いけます」

 

 

電信器が乾いた音を立て、橋畔へ指令が走る。

第二橋は歩兵・工兵・軽砲専用。

第一軍団先頭旅団は縦列幅を縮小。

第二軍団は一時河岸集結。

重砲兵は東岸高地へ即時展開。前進観測班に信号兵を付す。

第三橋完成後、重量後続と弾薬車を回す。

 

なるほど、自分のぼんやりとした構想はこうして形になるのか。

クラウスは半ば他人事のようにその様子を眺めていた。

 

雨はまだやんでいなかったが、河岸の動きは急に整い始めた。

工兵が橋面に砂を撒き、歩兵が濡れた銃身を抱えたまま走って渡り、馬牽軽砲の車輪が板をきしませる。

東岸高地では重砲兵が泥を掘って砲座を作り、信号兵が電線を引いていく。

 

疎いクラウスでも思わず感心するほど、その練度は高かった。

 

 

正午。

観閲塔の時計が鐘を打った。

 

西岸の攻勢開始線には、第一軍団先頭旅団と第二軍団の一部が並んでいた。

工兵旗が橋頭に立ち、前進観測班は河西岸の樹林縁から東岸高地へ信号を送っている。

 

重砲の砲列はまだ東岸だ。

だが判定官の手元には「火力連接済」の札が置かれた。

 

ハーゼン高地への攻勢判定は、二十一分遅れで開始された。

 

二十一分は、報告書の書き方次第で「予定通りの範囲」にも「やや遅延」にもできる。

そういう時間だった。

 

午後二時前、判定官は攻勢成功を宣した。

 

西岸先頭梯団が高地前面を制し、東岸予備火力が敵予備を拘束、第三橋完成後に重量後続が連接。

 

教範の文章としてはひどく整っている。

整いすぎているくらいだ。

 

現実には、歩兵は泥にまみれ、砲兵はずぶ濡れで、工兵は昼食を取り損ね、鉄路局の文官だけが寿命を縮めていた。

だが報告書は、たいていそういう部分を静かに削る。

 

 

夕方、実施本部へ戻った。

 

ハルトゥング少佐は机へ資料を置くと、珍しく一息ついてから言った。

 

「大尉殿」

 

「はい」

 

「私はいまだに、あなたが軍事的天才だとは思っていません」

クラウスは少しだけ安堵した。

この人は、少なくともその点では正しい。

 

「私もそうは思っていません」

少佐はほんのわずかに口元を緩めた。

 

「でしょうな。だが、皆が一つの語で潰し合っている時に、その語を三つへ割る癖は、少なくともこの国では役に立つ」

「今日は、橋が足りなかっただけです」

「そうです。橋が足りなかった。だがあなたは、橋が足りない時に何を先に渡すべきかより先に、“渡河”という語そのものを割った」

少佐が今日やったのは、容量と射界と時刻の計算だ。

自分がやったのは、「渡河」を三つに割って名前を貼っただけである。

 

「そういう人間は、上に行くと妙に誤解されます、多分」

少佐はそう言った。

 

クラウスは返す言葉に困り、曖昧に頷いた。

少佐は去り際に、もう一言だけ付け加えた。

 

「私が今日の計算をする場を作ったのは、あなたです」

 

 

その夜、ようやく祖父の手紙を開いた。

 

老レオポルトの筆跡は、年齢のわりにまだ硬かった。

 

"クラウス

君が落ち着いて見えるのは、たぶん深慮があるからではなく、面倒を嫌うからだろう。

それ自体は悪くない。

だが年寄りどもは、若い者の沈黙へすぐ意味を足したがる。

あまり立派に見えようとするな。

立派に見えぬよう努めても、見たい者は勝手に見る。"

 

クラウスは小さく息を吐いた。

 

祖父は相変わらず正確だった。

 

ただ、もう少し早く届いていてくれればよかった、とも思った。

今日一日だけで、自分はすでに「段階渡河を即断した若い参謀」として何人かの将官に記憶され、ベルヴァーニュ側では「橋梁障害下で攻勢時刻を維持する理論家」として記録されている。

 

クラウスは手紙を畳み、机の引き出しへしまった。

 

外では操車場の灯がいくつも揺れ、遠くで連結器の当たる硬い音が聞こえる。

あの音だけは、今日の成功を過大評価しない。

そこが少しだけ、ありがたかった。

 

 

翌朝、統帥府長官補佐官室から出た覚書には、こうあった。

 

夏季統合動員演習第四日、ラーエ河渡河に際し、悪天候による橋梁障害下においても攻勢開始線及び火力連接を維持し得たこと、実施本部における段階区分の整理によるところ大。

ライフェンベルク大尉、連絡調整及び実施整理に熟す。

今後も要件に応じ同様案件へ同席させること。

 

「実施整理に熟す」。

 

その乾いた一句が、人事簿の余白にまた増えた。

 

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