面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました   作:濃厚とんこつ豚無双

23 / 31
第二十二話 新たな嘘

七月末、夕刻。

 

サン・ルネ北営舎二階奥の執務室は、この数日ほとんど同じ顔をしていた。

 

王宮北翼の警備配置図。

王都内情勢要約。

北営舎兵員状態一覧。

西部国境線と河谷線の時程表。

王都駅から北営舎までの伝令路。

 

どれも日ごとの差分は少ない。

王都はまだ完全には死んでいない。

紙も動く。門も開く。保全評議の布告も、まだ王都の名で出る。

その変わらなさは少佐にとって安心ではなかったが、望みではあった。

 

彼はルサントを壊してから拾うような取り方を好まなかった。

 

できれば王都の紙も、王女の名も、王国そのものの形もまだ残っているうちに取りたかった。

ベルヴァーニュが裸の侵入者としてではなく、必要とされる保護として最後に現れる形。

戦で奪うより先に国の方がこちらへ傾いたと読ませる形。

そういう綺麗な取り方をまだ諦めていなかった。

 

そこへ、副官が最優先扱いの電信紙を持って入ってきた。

 

封蝋の色は、いつもの公用赤より深い。

戦争省が格式より速度を優先する時の色だった。

 

文面は短かった。

 

「ロガリア連合王国、ルサント危機仲介使節派遣決定。首席 サー・エドマンド・ペンブルック卿。汽船にて明朝出港。現地入り、八月中旬見込」

 

八月中旬。

いまから二週間あまり。

 

彼はその一行を二度読まなかった。

読む必要がなかったからだ。

 

綺麗に取るには時間が要る。

仲介は、その時間を消す。

 

ロガリアの使節が着く頃までに何が既成で、何が未遂で、何が必要に見えているか。

そこから逆算すれば慎重はそのまま遅れになる。

 

少佐は机上の北翼配置図を一枚抜き取り、立ち上がった。

 

 

 

 

王宮北翼の廊下は、夕方の白い光を静かに溜めていた。

 

扉の外には、黒衣の礼装歩哨が二名。

帯剣も銃器ない。

 

この外観は、ほとんど彼自身の設計だった。

その配置はまだ壊れていなかったことを一瞥してから入室した。

 

今回はアルジュー侯は同行していない。

表敬ではなく、確認だからだ。

 

エレオノーラ第一王女殿下は、窓辺に立っていた。

 

前回と同じ位置だった。

今立ち上がったのでもない。

最初から立っていたのだろう。

 

「殿下、お加減はいかがですか」

「ええ、何も変わりません」

 

前置きはそこまでだった。

この王女は、回り道の長い会話を好まない。

 

少佐は穏やかに言った。

「ロガリアより仲介使節が派遣されるそうです。首席はサー・エドマンド・ペンブルック卿。あと二週間あまりでこちらへ入るでしょう」

 

王女の表情は、ほとんど動かなかった。

だが侍女の一人が、わずかに視線を伏せた。

 

「ずいぶん早いのですね」

「ええ。列国は、王都がまだ言葉を持っているうちに来たがります」

 

そこで、一呼吸だけ置いた。

それからできるだけ平らに本題へ入った。

 

「殿下。本当に、我々の保護は今なお必要とされておりませんか」

 

部屋が静まった。

侍女の指先が、わずかに祈祷書の背を押さえた。

王女は少佐を見た。疲れている目だった。

 

「保護は必要です」

 

と王女はやがて言った。

少佐は黙って待った。

 

「ですが必要の有無と、あなたがたに請うことは、別ですわ」

 

窓の外の光だけが、しばらく部屋を白くしていた。

少佐は、もう一歩だけ踏み込んだ。

 

「もし不安がおありなら、その旨をロガリアの仲介へこちらから伝える用意もあります。殿下のお立場にとって、その方が穏当な場合もある」

 

王女が不安を一語でも漏らせば、請願ではなくとも徴候になる。

逆に、あまりに硬く撥ねれば、判断能力の偏りとして記せる。

だが王女は、そのどちらでもない方へ歩いた。

 

「ロガリアが仲介に入るのであれば、わたくしはその席で自ら申し述べます」

 

少佐は少しだけ目を細めた。

 

「仲介の前に他国へ保護を乞うたと書かれるのは望みません。父の名にも、王国の名にも障りますもの」

 

それが彼女の答えだった。

 

保護の必要は認める。

だがベルヴァーニュへの請願ではない。

不要とも書けず、恐慌とも書けず、拒絶だけでもない。

残るのは、「殿下は危険を理解しつつ、なお仲介到着を待つ意向」の一行だけである。

 

最も扱いの悪い一行だった。

不要なら放っておける。請うなら受け取れる。

だが必要を認めておきながら、相手だけを拒む。

 

「では、ありのままに記します」

「そうなさい。少なくとも、言っていないことを言ったことにはなさらないで」

 

それは穏やかな口調だった。

だが意味としては、ほとんど退出命令に近かった。

 

扉が閉まる直前、彼は一度だけ振り返った。

王女は、やはり座っていなかった。

 

 

 

 

アルジュー侯の執務室は、王宮南寄りの古い一室だった。

 

昼の光を好む部屋だが、夏の夜は少し暑い。

窓は半ば開かれ、机の端には電報がすでに置かれていた。

ただし少佐の机に来たものと違って、その下にはさらに三通、ベルソール戦争省運輸課からの別電が重ねてある。

 

情報は、すでにこちらの方が一歩先に進んでいた。

アルジュー侯は略装に着替え、上着の留め金を二つ外したまま、椅子へ深く凭れていた。

 

「殿下は何と」

と侯が先に言った。

 

「保護請願はありません。保護の必要は認めるが、我々に請うこととは別だと。ロガリアが来るなら仲介の席で自ら申し述べる、と」

 

侯は葉巻を灰皿へ置いた。

「相変わらず、よくできたお方だ」

「はい、書かれ方を知っておられる」

「ならば、こちらも書き方を変えるしかない」

 

少佐はそこで切り出した。

「本国はどうするおつもりですか」

 

侯は、机の上の別電を指で軽く叩いた。

「動く」

 

それだけで、半分は分かった。

 

「国境の東部第三師団をヴァルモン方面へ前進。鉄道は戦争省運輸課が差配する。北営舎の儀礼随伴部は、明朝より装いを改める」

「もう数日だけ、待てませんか」

 

侯は何も言わなかった。

 

「建前がもう一枚整う可能性があります」

 

「王都の紙はまだ動いている。保全評議は布告を出し続けている。殿下は我々に保護を請わず、先ほどは仲介席で自ら申し述べると明言されました。この状態で軍団を越えさせれば、評定の第一行は最悪の形で書かれるでしょう」

 

少佐はそこで、あえて言葉を濁さず続けた。

「『ベルヴァーニュ、仲介到来を前に軍団越境』です」

 

しばらく沈黙があった。

それを破ったのは、侯の乾いた声だった。

 

「君の慎重は平時の美徳だ。しかし戦時の慎重は、敗色を呼び寄せる」

 

「……先日、君は『評定の第一行は師団一つ分の重みを持つ』と言ったな」

 

少佐は、ごく小さく頷いた。

 

「ならば師団で書けばよい」

その一言で、部屋の温度が少し変わった。

 

「ロガリアの老人が着く頃には、ルサント全域がベルヴァーニュの旗の下にある。そうなっていれば、第一行がどう始まろうと、第二行以後がそれを読み替える」

 

侯は葉巻を取り上げた。

火はもう半分ほど短くなっている。

 

「逆に待てば、王都の紙とノルトマルクの自制そのものが連邦の功績になる。あれは昨日までのルサントを守った顔でロガリアを迎えたがっている。そんな第一行を、こちらから贈るつもりはない」

 

彼は机の端の電報を、一つずつ指で押した。

 

「運輸課は今夜からヴァルモン向けの優先枠を空ける。予備機関車の転用も済んだ。工兵監部は橋材積込済み。君が今夜ここでどれだけ警句を並べても、鉄道は明後日には動く」

 

それで終わりだった。

彼はそれでも、一つだけ言った。

 

「殿下はなお保護を請われていません」

「請願の完成を待ちすぎた。それが君の瑕疵だ」

 

その言い方は、怒っているというより、すでに整理済みの評価に近かった。

 

「請願が無いなら、請願したと言い張るしかあるまい。王女殿下は賢い方だ。しかし、過度な賢さは危険でもある。我々が殿下を守る理由はただ血縁にあるのではない」

「……仲介の場で、そのことを殿下自身が口にするのでは」

「そうだな。口にできると良いが」

「……殿下がおられねば、誰を立てるのですか」

「我らが陛下の称号が一つ増えるだけのことよ」

「それは無用な軋轢を」

「ならば、このままロガリアによって仲裁されて帰ることを良しとするか?」

「……しかし」

「我らは平和に済ませたかった。だから最初からこうしなかったのだ」

 

そこで少佐は、自分の敗北の形を初めてはっきり見た。

 

王女の名と王都の紙を残したまま、ルサントをベルヴァーニュへ滑らせるつもりだった。

王女が請願し、王都が沈黙し、ノルトマルクが先に越える。

そのどれかを待ちながら、最後に保護として入る。

それが彼の考えていた、綺麗な取り方だった。

 

侯は違う。

王女は最良の道ではあっても、唯一の道ではない。

請願が無いなら請願があったことにし、王女が邪魔になるなら王朝ごと飲み込む。

少佐が守ろうとしていた綺麗さは、侯にとっては時間がある時だけ選ぶ方法にすぎなかった。

 

つまり少佐は、侯へ屈したのではなかった。

自分がまだ戦争の外側に置いていたものまで、侯はすでに戦争の手段の中へ入れていた。

ただそれだけの差だった。

 

「……承知いたしました」

 

その一語は、短かった。

短くするほかなかった。

 

侯は頷いた。

「明朝、具体の手配を報告せよ」

 

それだけで会話は終わった。

 

 

 

 

自室へ戻ると、少佐は副官二人をすぐに呼んだ。

 

執務室の空気はまだ昼の熱を少し残していたが、窓の外はもう暗い。

机の上には、さっきまで「まだ間に合う」側に並んでいた紙が、急に過去の紙になって並んでいる。

 

少佐は椅子へ座らず、立ったまま命じた。

「儀礼随伴部は明朝をもって装いを改める。礼装黒衣を外し、野戦上衣へ。帯剣解除は継続せず、小銃は所定通り。北営舎本館警備の夜間当直は二倍」

 

副官の一人が、復唱しながら書き留めた。

 

「本国戦争省運輸課との照会を本夜中に開始。ヴァルモン向け師団輸送計画は別電に従え」

 

もう一人が頷く。

 

「王宮北翼の歩哨は現状維持。銃も剣も出すな」

 

そこで、二人の筆が一瞬だけ止まった。

 

少佐はその停止を見て、淡々と続けた。

「殿下の扉の前だけは、まだ礼が見えねばならない」

 

副官はそれをそのまま復唱した。

平坦に。

だからこそ、余計な感想を差し挟まぬ程度には分かっているのだろう。

 

「本国戦争省宛の状況報告起案。文面は短く。こう書け」

 

少佐はしばらく逡巡したのち、口述した。

 

「……エレオノーラ王女殿下、ベルヴァーニュ本国の保護を請う」

 

副官は顔を上げたが、何も訊かなかった。

問えば、自分もその一文の内側へ入ることになると知っているからだった。

 

「次行。『請願に基づく当座の保全措置として、北営舎儀礼随伴部の対王宮態勢を維持』。ただし具体の時刻と証人名は空欄のまま置け。追って埋める」

 

副官はそれを書き留めた。

書き留めてしまえば、まだ起きていないことまで、紙の上では半ば起きたことになる。

少佐はそれをよく知っていた。

 

起案はそこで終わり、副官たちは一礼して退室した。

扉が閉まると、ようやく部屋の静けさが戻る。

 

少佐は机へ手を置いたまま、しばらく動かなかった。

 

嘘を埋めるには、新たな嘘がいる。

前日に自分自身が言った言葉を、いま自分の頭で反芻していた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。