面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました 作:濃厚とんこつ豚無双
八月二日午後。
ベルヴァーニュの前進司令部は、接収したヴァルモン駅構内に設けられていた。
名目の上では第三師団司令部を核にした、軍団前進司令部。
だが実際には師団も列車も命令も、どれもまだ完全には揃っていない。
駅舎の待合室を丸ごと占拠し、机を並べただけの急造の司令部である。
窓の外では遅れて到着した予備役兵たちが長蛇の列をなし、下士官の怒声が整列を促していた。
その部屋の中央に、第三師団司令官であるアンリ・ド・モンフォール少将がいた。
「鉄道は遮断されたか」
「は」
「ヴァルモンで足踏みしている間に」
「はい。されど閣下――」
「いい。分かっている。兵が予定通りに集まらなかったと言いたいのだろう」
「……は」
副官はそれ以上言わなかった。
モンフォールは、手元の報告書へ視線を落とした。
セルヴィエール鉄路橋破壊。
プレセリ手前鉄路半壊。
バレーヌ橋完全使用不能。
破壊そのものより不快だったのは、その落とし方である。
仕事としてあまりに丁寧だったからだ。
「……嫌な落とし方だ」
と彼は低く言った。
副官が小さく頷いた。
その一言で意味は足りたらしい。
丁寧な破壊ほど、軍人を不快にさせるものはない。
敵が慌てて橋を落としたのなら、せめてその狼狽を嘲笑できる。
それすらできない時に残るのは、ただ不快という感情である。
彼は時間を奪われるのが嫌いだった。
いや、嫌いでないならたぶん軍人には向いていない。
◆
この事態そのものは彼の無能によるものではない。
その点について、彼は一片の疑いも持っていなかった。
警戒はしていた。
動かせるものは動かした。
しかも、これは事態発生後に慌てて始めた動員ですらない。
第三師団の前進準備はルサント情勢が公然たる危機として噴き出すより前から、すでに静かに回り始めていた。
それでも、今朝彼が直ちに兵力として数えられたのは、間に合った竜騎兵連隊と先着した歩兵の断片だけだった。
第三師団は、定数の半分もまだ揃っていない。
連隊本部と軍旗だけが先に着いた連隊。
砲は来たが馬が来ない砲兵中隊。
橋材だけ先に届いて、工兵そのものは後方駅で止まっている荷車列。
この根底には、ベルヴァーニュの動員制度の問題がある。
例えばノルトマルク連邦は中央統帥府の主導のもと、軍が計画した動員制度に従って各邦の権限で最優先として鉄道を動かす。
時刻表のすべてが分単位で組まれ、軍が国家の鉄路を掌握する。
帝国にはそれがない。
動員計画を実質的に担当する戦争省運輸局は小さく、権限は広いようでいて薄い。
彼らは時刻表を練るのではなく、その場で鉄道を「確保」する。
動員は県知事が告げ、憲兵が予備役兵を探し、鉄道会社は空いている列車枠を探し、各地の集積所はそこへ押し込めるだけ押し込む。
結果として何が起きるかと言えば、想像に難くない。
連隊ごとに集合地点が違う。
酷い時には装備の受け渡し場所すら違う。
速く集まる兵、遅く集まる兵、途中で行方の分からなくなる兵。
最終的には「集まった人間だけでやるか」という、戦術単位としてはほとんど悪夢に近い即席の集合体まで生まれる。
もちろん国家はこの問題を正しく認識している。
認識したうえで着手しきれていないだけである。
ベルヴァーニュ第二帝政は、この大陸で最も強い陸軍を持つ国家である。
それは誇張ではない。
兵の練度は群を抜き、砲兵の射撃精度は他国の追随を許さない。
一度師団が隊形を整えて砲列が揃い命令が一本へ通れば、正面からこれを押し返せる国はいない。
だが、その強さには前提がある。
一度師団が隊形を整えれば、である。
整う前のベルヴァーニュ軍は最強の軍ではなく、各段階がそれぞれ善意と制度の惰性で押し出してくる部品の集積にすぎない。
軍が国家を動かしてはならない。
軍は政府の手綱の内側にとどまらねばならない。
それが第二帝政の癖だった。
これはひとえに約百年前、国民の記憶に刻まれた第一帝政の栄光と崩壊――軍人皇帝の影――が国家の意思になったからである。
そしてモンフォールは、その癖の代価をヴァルモン駅構内で支払わされていた。
◆
午後三時、戦争省から電信が来た。
短かった。
"ロガリア使節団、ヴォワ王国到着見込み。王都前面への進出を急がれたし"
それだけである。
別の部署から来た二通目も同じようなものだった。
"王都前面への進出をこれ以上遅らせるな。ノルトマルク軍が集結中である"
三通目は運輸局である。
"鉄道優先枠は確保済。先着順に兵は輸送する。集結後は現地判断にて前進されたし"
いずれも言うのは容易い。
モンフォールは、その紙を読んでから机の端へ置いた。
こういう時、本国の電文は都合のいいことしか言わない。
急げ。兵士は順不同で送る。混乱するな。
戦争省は矛盾する命令を美しくまとめる才能に恵まれているらしい。
「閣下」
と副官が言った。
「戦争省からの派遣参謀殿がお見えです」
モンフォールは一瞬だけ目を閉じた。
また別の厄介事である。
しかも電信と違って、目の前に相手がいる分だけ質が悪い。
入ってきたのは、軍靴がやたらとよく磨かれている参謀中佐だった。
礼儀は正しく、制服も正しい。
そして貴重な鉄道の枠を割いたくせに、この駅で不足しているものを何一つ持っていなかった。
「師団長閣下」
「…用件は」
「戦争省の意向として、進出時刻の再確認を」
「外を見ろ。何時に進軍できるか、君には計算できるのか?」
中佐は一瞬だけ黙った。
こういう種類の人間は、現場の皮肉を受ける訓練をあまりしていないからだ。
「閣下のご苦労は承知しております。しかし本国としては、ロガリアの動きもあり――」
「知っている」
モンフォールは短く言った。
「だから今こうして書類と格闘している」
「では、第三師団主力のヴァルモン集結完了はいつになりますか。本国はそれを知りたがっております」
その問いにモンフォールは、不快を通り越して少し呆れた。
"急げ"という短い命令で済ませる方がまだましだと思うことがあるとは知らなかったからだ。
「歩兵第十四連隊はまだ半分、砲兵第五中隊は砲だけ、工兵中隊は橋材と別便、輜重は一駅手前で詰まっている。後続は優先枠を確保してくださったようで、準備ができた順に兵士を送るらしい。さて、どう見積もるべきかね」
中佐はあからさまに顔を硬くした。
「閣下」
少し間があって、ようやく言葉を選び直して言った。
「皇都としては、速やかな前進が政治上きわめて重要であると――」
「もちろんだ、速やかな前進は必要である」
モンフォールは答えた。
「では、この状態で進軍をすることが皇都の望みということか?」
中佐は、それ以上踏み込まずに黙った。
少し遅いが、ぎりぎりで賢明ではあった。
そして、彼の存在は何の役にも立たなかった。
中佐が去って扉が閉まった後、モンフォールは副官に言った。
「戦争省から来る人間は、なぜいつも時刻だけを訊くのだろうな」
副官は答えなかった。
答えられる類の問いではないと知っていたからだろう。
◆
八月三日。
セルヴィエールの復旧は、当初の三日間という見込みより半日遅れる見通しであった。
半日。数字にすればそれだけである。
だが軍団の時程にとって半日は小さくなかった。
先に出るはずの歩兵が待ち、続くはずの砲兵が詰まり、弾薬車は駅の後ろで順番を失った。
「半日で済んだと見るべきでしょうな」
師団工兵の少佐が言った。
モンフォールは地図から目を離さずに答えた。
「半日を取られたと見るべきだ」
八月四日。
第三師団は、ようやく軍になり始めた。
ただし、まだ輪郭でしかない。
歩兵旅団の先頭は揃う。
砲兵列が遅れる。
弾薬車が後ろに詰まる。
輜重の一部は駅名を間違え、騎兵連絡将校は自分の旅団より先に到着した。
駅構内にあるものは増えた。
兵がいて、砲があり、馬がいて、弾薬がある。
しかし、それだけなら倉庫とあまり変わらない。
それらが同じ時刻に同じ命令へ従い同じ方向へ進み始めて、初めて軍になる。
後続の第二師団についても報告だけは先に来ていた。
先頭連隊は国境を越えた。
砲兵は後続。
工兵はさらに後ろ。
弾薬列車はヴァルモン手前で待避中。
軍団主力という言葉だけが先に到着し、実体はまだ街道と駅と貨車のあいだに散らばっている。
八月五日。
ヴァルモンの駅構内がようやく軍隊の顔をし始めた。
歩兵が揃い、砲兵が噛み、工兵が橋材を持って後ろに立つ。
弾薬車は番号札どおりの線路へ入り、野戦炊事車からは湯気が上がる。
部品の集積が軍になれば、さすがにこの帝国は強かった。
その強さを知るモンフォールにとって、これほどの軍が橋と鉄路と時刻の上で数日を削られたことは余計に腹立たしかった。
八月六日。
戦争省から、また「急げ」が来た。
モンフォールはその語を見るたびに少しずつ腹が立たなくなっていくのを感じていた。
それでも、集まったものから前へ出した。
完全な師団を待てばもっと遅れる。
不完全な師団で進めばもっと危うい。
どちらがよりましかを選ぶのが、この数日の彼の仕事だった。
そしてこの種の選択には正解がない。
後から死者の数と到着時刻を並べて、どちらがましだったかを誰かが論じるだけである。
後続の第二師団も、この頃ようやく砲兵列と弾薬車が繋がり始めていた。
明朝までには合流の形が整う目算だけは立つ。
八月七日、夕刻。
ようやく鉄路が復旧し、ヴァルモン方面は軍団輸送に耐えるだけの戦時容量を取り戻した。
両師団はヴァルモンを抜け、王都を窺える位置まで出た。
ラーエ河を挟んだ向こうにあるサン・ブリウ村落。
その西に持ち上がるコルヴィエール高地。
ノルトマルク軍はそこに布陣していた。
高地は、夕方の光の中でも陰気だった。
陰気な地形ほど、防ぐ側に都合がよい。
斜面はゆるく見える。
だが砲を置くには十分で、歩兵を上げるには厄介な角度だった。
麓には畑と低い石垣があり、村落の屋根は小さな障害物の列になっている。
ラーエ河は渡れぬほど太くはない。
だからこそ渡河を強いるには都合がよい。
守る側にとって、これほど上品な地形はない。
モンフォールはしばらく黙ってその斜面を見ていた。
動員の遅れは、報告書の上では「数日」と書かれる。
そして現場では、主導の喪失という形で表れる。
どこで戦うかを自分の側が先に選ぶ権利は失われていた。
それでも、明朝には攻撃を命じるほかなかった。