面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました 作:濃厚とんこつ豚無双
ベルヴァーニュ軍の攻撃は、午後に入ってなお止まっていなかった。
石橋正面では第三師団の歩兵が橋上へ圧力をかけ続け、村西口の屋根と石垣は砲撃で少しずつ削られていた。
橋の欄干は破片で欠け、橋上の敷石には血と泥と黒色火薬の煤が混じり、倒れた兵を引きずる者の背中を後続の小隊が押して前へ出る。
それでも攻撃は続いていた。
南では、すでに第一波の多くが東岸へ出ていた。
果樹園の縁に入った猟兵は石垣に身を寄せ、そこから村南東の畑地へ圧をかけようとしていた。
浅瀬は渡河路と呼ぶにはあまりに頼りない場所だったが、工兵は杭を打ち、縄を張り、水流の弱い箇所へ白布の標識を立てた。
高地正面には砲撃が続き、北浅瀬にも軽歩兵の影があった。
どれもひとつだけなら決定的ではない。
だが、同時であれば話は別である。
ノルトマルク軍は、石橋正面を見捨てられなかった。
そこが破れれば、第二師団の防御線は内側から裂ける。
南浅瀬も見捨てられなかった。
果樹園を抜けた敵が村南東へ出れば、高地背面の交通が脅かされる。
北浅瀬も放置できず、高地正面も砲兵の視界と火力を要求し続ける。
攻撃側は敵の判断を一箇所に集中させてはならない。
敵に「どこが本命か」と考えさせ、その答えが出る前に複数の地点で応接を強いる。
優勢な兵力を持つ軍が単に正面へ肉厚に押すだけでなく、敵の注意力そのものを分割しにかかるのは、戦術として自然であり、また妥当でもあった。
ベルヴァーニュ軍の用兵は、その点でまったく正しかった。
ただし、それは成功しなければ重い費用を要求する。
南浅瀬を渡った猟兵は、東岸に出た時点で勝ったわけではなかった。
彼らは弾薬を必要とし、後続を必要とした。
石橋正面の歩兵も橋を渡れば終わりではない。
村の火点を潰し、橋東詰を確保し、工兵と弾薬車が通れるだけの幅を作らねばならなかった。
北浅瀬へ出した軽歩兵も、高地正面へ振った砲兵も、見せるだけで任務を終えるほど都合よくはなかった。
見せた部隊には補給が要り、連絡が要り、時には救援も要る。
午前のベルヴァーニュ軍は、戦線を広げることでノルトマルク軍を悩ませた。
午後のベルヴァーニュ軍は、その広げた戦線を自分で支えなければならなくなっていた。
参謀の地図の上では一本の赤線で済むものが、現場では兵の足、濡れた弾薬箱、折れた車輪、担架を担ぐ二人分の肩、そうしたものに分解されていく。
攻勢とは、進んだ兵をなお戦える状態で支え続ける能力で成り立つ。
ベルヴァーニュ軍は、まだ崩れてはいなかった。
兵は前へ出た。将校は隊をまとめた。工兵は作業を続けた。砲兵はよく撃った。
しかし、広げた戦線のすべてを同じ密度で支えることは難しくなっていた。
それは、最初は誰の目にも敗北とは見えない。
だがその状況が続けば、攻勢は見かけの勢いを保ったまま内側から速度を失いはじめる。
◆
クラウスが馬から降りた瞬間、脚がひどく震えた。
それでも、倒れそうになる体を必死に支えて大天幕へ入った。
司令部天幕内の空気は出発前よりも重く、しかし乱れてはいなかった。
地図の上には、出発前には無かった新しい駒が置かれていた。
人間が撃たれ、馬が倒れ、屋根が燃えていても、地図の上では駒と線が増えるだけで済む。
便利で、不誠実で、それでもこれがなければ誰も何が起きているのか分からない。
「ライフェンベルク大尉、第一師団司令部より帰還しました、復命します」
クラウスは命令書の受領控えを差し出した。
「第一師団ヴォルクマン少将、命令受領。第三大隊および軽砲二門、石橋正面へ出発。南浅瀬方面主予備は保持とのことです」
メルテンス大佐は紙を受け取り、目を走らせた。
「ご苦労様です。助かりました。誰か水を」
クラウスは兵士に差し出された水筒を受け取って飲み干した。
水は美味しかったが、あの往復の報酬としてはだいぶ見合っていない気がした。
ヴァルテンベルク上級大将が南浅瀬を指した。
「南はどうだ」
ハルトゥング少佐が、泥のついた報告板を引き寄せた。
「敵第一波は果樹園縁にあります。第二波は浅瀬西岸で待機中。砲および弾薬車の渡河は、まだ確認されておりません。浅瀬途中で二度の滞留。高地南肩の観測班によれば、水際に弾薬箱らしき荷が溜まり、負傷者後送の列も見えたとのことです」
「確認の確度は」
「煙で断続的です。ですが、複数報告が同じ傾向を示しています」
クラウスは部屋の端に立ち、地図と報告紙を見ていた。
石橋正面、支援要請。
南浅瀬、敵東岸進出。
浅瀬、西岸混雑。
果樹園、敵猟兵渡河。
北浅瀬、敵軽歩兵。
高地正面、砲撃継続。
同じ言葉が、少しずつ違う場所で繰り返されている。進出。支援。混雑。継続。
文字だけなら平板で、戦争というより倉庫の在庫表にも見える。
だがその一つずつの向こうに、泥の中で撃たれ、石垣の陰で顔を伏せている人間がいる。
この部屋でそれを思い出しすぎると仕事にならない。
とはいえ忘れすぎても、おそらく別の意味で仕事にならない。
メルテンス大佐が言った。
「石橋正面は、少なくとも崩壊は避けられるでしょう」
ハルトゥング少佐は即答しなかった。彼は地図上の南浅瀬と石橋を交互に見ていた。
「しかし敵は、前進そのものには成功しています」
「成功しているな」
ヴァルテンベルク上級大将が短く言った。
「だが、前進した部隊を支える部分が追いついていない。石橋では兵力を橋上に詰めている。南浅瀬では歩兵が東岸へ出たものの、砲と弾薬が渡れていない。北と高地にも手を伸ばしている。すべてに同時に厚みを足す余力はおそらくない」
メルテンス大佐が南浅瀬の報告紙を指で押さえた。
「ならば、ひとまず防衛には成功したということですか」
「楽観的に言えば、その通りでしょう」
ハルトゥング少佐は慎重に答えた。
「ただし、敵が弱ったという意味ではありません。局地ではまだ前進します。むしろここで一箇所を抜かれれば、こちらの方が先に崩れる。現状は敵が無力になったことではなく、これ以上同じ速度で広げられなくなったというだけのことです」
少佐らしい、飾り気のない言葉だった。
天幕内はしばらく黙っていた。
そのうち、ヴァルテンベルク上級大将が言った。
「ならば南を叩くか。渡河した猟兵を追い返す」
少佐は首を横に振った。
「果樹園の中へ押し込めば、歩兵同士の消耗になります。今叩くべきは東岸に出た猟兵そのものではなく、そこへ人と弾薬を送り続ける手順です」
メルテンス大佐が続けた。
「ええ。渡河整理所、工兵、標識、弾薬列。そこが乱れれば、果樹園内の敵は足場を持ったまま孤立する。橋頭を撃破するより、橋頭を橋頭であり続けさせる部分を壊すべきです」
ヴァルテンベルク上級大将は、南浅瀬東岸の小さな印を見ていた。
「なるほど、騎兵だな。ルーデンの面目躍如といこう」
「承知しました。起草します。……第一師団に伝達、軽砲で果樹園出口を拘束。歩兵で石垣線へ圧をかける。騎兵は南の窪地から浅瀬東岸の渡河整理部隊へ襲撃を。目的は敵主力ではなく――」
メルテンス大佐が書記官へ言った。
「…渡河継続能力の妨害。渡河整理部隊および補給集積の攪乱とする。なお、追撃は禁ずる」
クラウスは、その命令文を横から見ていた。
短い。
だが、短すぎるとは思わなかった。
目的と禁止だけが残されている。
どこを通り、どの隊をどの角度で動かすかは第一師団長の仕事である。
たぶん自分が第一師団長であれば困るだろうと思った。
ヴァルテンベルク上級大将は頷いた。
「よし、送れ」
クラウスはまさか自分がまた走るのかと思わず身構えた。
だが、ハルトゥング少佐はそれを見て肩をすくめた。
「ご安心ください、大尉殿。電信は復旧しておりませんが、こちらの命令であれば大尉殿が出向く必要はありません」
◆
ヴォルクマンは、軍団司令部からの命令を読んだ時、口髭を一度だけ撫でた。
よい命令だった。
騎兵に勝てとは書いていない。
騎兵で壊せと書いてある。
この違いは小さく見えて、実際には大きい。
勝てと書かれた騎兵は勝利の形を探しに行く。
敵を追い、旗を取り、名誉ある場面を欲しがる。
そしてルーデン邦の騎兵はひどくそれを好む。
ヴォルクマンは丘の上から南浅瀬を見た。
果樹園は煙の中にあった。
木々の間にはベルヴァーニュ猟兵の動きがあり、石垣には銃列が見える。
その後ろの浅瀬や渡河点の様子はここからは見えないが、だいたいの想像はできた。
渡河というものは、川を越える瞬間だけが危ないのではない。むしろ越えた直後の方が危ない。
兵は濡れ、隊列は乱れ、士官は怒鳴り、工兵は全員に違うことを命じられる。
「第二騎兵大隊へ通達」
ヴォルクマンは命じた。
「クルーゲ少佐に先頭を任せる。南の窪地を使え。果樹園南端で二つに割り、浅瀬東岸の整理所へ入る。目標は工兵、標識旗、弾薬箱、荷馬。狙えそうなものだけを狙え」
副官が書き取る。
「軽砲は畑道へ出せ。果樹園出口を撃つ。歩兵一個中隊は石垣線へ進み、敵の目を正面へ寄せる。騎兵突入後、八分以内に退避。敵が崩れても追うな。川を越える者があれば引きずってでも止めろ」
「引きずってでも、ですか」
副官が訊いた。
ヴォルクマンは答えた。
「勝ったと思った騎兵は、死ぬまで走るからな」
それは侮辱ではなく、経験だった。
馬上で敵が下がり、旗が前へ流れる時、前進は判断ではなく快楽になる。
騎兵将校が最初に覚えるべきことは突撃の出し方ではなく、止め方である。
◆
夕刻前、軽砲が畑道へ引き出された。
車輪が土を噛み、砲兵が短い号令で砲尾を据える。
歩兵中隊は石垣線へ進み、わざと目立つ形で銃列を作った。
ベルヴァーニュから見れば、こちらが果樹園正面で反撃を始めようとしているように。
その間に、騎兵大隊は南の窪地へ沈んだ。
古い排水路に沿った低い道である。
農民の荷車なら通れる。砲車には向かない。騎兵なら縦列で抜けられる。
ただし横隊は作れない。露見すれば一列のまま撃たれる。
成功すれば、敵がまだこちらを見ていない場所へ出られる。
最初の砲声が鳴った。
軽砲が果樹園出口を叩く。石垣の裏で猟兵が伏せる。歩兵中隊が射撃を始める。
しばらく小競り合いが続き、果樹園の敵の注意が正面を向いていた。
その瞬間、南から騎兵が出た。
それは英雄譚のような美しい突撃ではなかった。
窪地を抜けた馬列が果樹園南端で乱れながら二つへ割れ、浅瀬東岸の整理所へ斜めに入っただけである。
工兵の一人が、標識旗を持ったまま振り返った。
先頭の騎兵が横にした軍刀でその男を弾き、二番手が弾薬箱の列へ入った。
荷馬が暴れ、箱が倒れ、浅瀬の水際で小隊を整えていた士官が何かを叫んだ。
その声は馬蹄に踏みつぶされた。
それに気付いた猟兵が戻ろうとする。
だが軽砲と歩兵射撃は続いている。背を向ければ後ろから撃たれる。
浅瀬途中の第二波は前へ進めず、西岸の砲兵は突入した騎兵を撃ちたがっているが、味方の工兵と弾薬列が多すぎて撃てない。
ヴォルクマンは懐中時計を開いた。
突入から五分。
騎兵はまだ動いていた。
弾薬箱が一つ水へ落ちる。標識旗が倒れる。別の工兵がそれを拾おうとして馬を避ける。
荷馬が逃げ、浅瀬途中の兵をさらに詰まらせる。
七分。
それを計ってヴォルクマンは命じた。
「退け!」
喇叭が鳴った。
騎兵は果樹園南端をかすめ、来た窪地へ戻り始める。
そこでやっとベルヴァーニュ猟兵の一斉射が遅れて届いた。
二頭の馬が倒れ、一人が鞍から落ちた。もう一人が馬首を立て直そうとして地面へ投げられた。
だが、騎兵の列は止まらなかった。
ヴォルクマンは副官へ言った。
「軍団司令部へ報告。南渡河点襲撃、成功。敵渡河整理部隊を混乱させ、第二波前進を阻止。騎兵は予備位置へ復帰中。損害、後報」
副官が復唱する。
ヴォルクマンは丘の上から、もう一度浅瀬を見た。
南浅瀬の猟兵はまだそこにいた。しかし、後続を送る術はしばらく失われた。
ベルヴァーニュ軍の攻撃は、もはや速度を失っていた。
◆
コルヴィエール高地とサン=ブリウ村落をめぐる戦闘は、翌日の夜明けを待たずに大勢が決した。
ベルヴァーニュ軍は、なお局地的な圧力を保っていた。
だがそれらはもはや一つの作戦ではなく、それぞれの部隊が自分の前面で戦い続けているにすぎなかった。
夕刻、ベルヴァーニュ前進司令部は南浅瀬の再整理を命じた。
工兵は浅瀬を再び通せるようにし、第二波を送り込もうとした。
だが弾薬列は乱れ、負傷者後送と補給前進が同じ水際へ戻っていた。
果樹園内の猟兵は撤退も容易ではなく、前進するには支援が足りなかった。
石橋正面では、ノルトマルク第二師団が日没まで踏みとどまった。
第一師団から回された一個大隊と軽砲二門は、大きな戦果を挙げたわけではない。
ただ、崩壊を防いだ。
翌朝までにベルヴァーニュ軍は、攻勢の継続を断念した。
彼らが敗れた理由を、後年の軍史家たちの多くが「戦線の拡張過多」と記した。
ただし、それは結果を見た後の正しさである。
石橋正面が一刻早く破れていれば、この多方面攻撃は防御側の予備を引き裂いた巧妙な用兵として記録されたであろう。
南浅瀬の猟兵が果樹園を抜け村南東の畑道へ出ていれば、主攻を隠した優れた側面攻撃として賞賛されたであろう。
北浅瀬の軽歩兵がノルトマルクの予備をもう少し長く拘束していれば、虚実を組み合わせた第二帝政軍らしい精妙な攻勢と呼ばれたかもしれない。
歴史書は成功した危険を妙手と呼び、失敗した妙手を無謀と呼ぶ。
ベルヴァーニュ軍の攻撃は、悪い作戦ではなかった。
むしろ、その場での取り得る最善に近い作戦であった。
問題はどれ一つとして決定的な時刻に決定的な場所へ届かなかったことにある。
石橋は崩れず、南浅瀬は続かず、北は拘束に足りず、高地正面は重砲を黙らせきれなかった。
だがもし広げた手の一本が敵の喉を掴んでいれば、手を広げたから勝ったと書かれただろう。
ノルトマルク連邦軍の軍史は、この戦闘を「コルヴィエール=サン・ブリウ会戦」と名づけた。
ルサント王都を守るため、少勢の連邦軍が優勢なベルヴァーニュ軍を高地と河川線において阻止した会戦としてである。
一方、ベルヴァーニュ第二帝政の公刊戦史は、これを会戦とは呼ばなかった。
彼らの記録では、それは「ルサント国境紛争における一時的後退」であり、ロガリア仲介使節の到着に備えた戦線整理であり、不要な損耗を避けるための政治的配慮であった。
コルヴィエールもサン=ブリウも、そこでは地名としては記されるが、会戦名として大きく扱われることはない。
こうして、この一日はいくつもの名前を持つことになった。