面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました 作:濃厚とんこつ豚無双
勝利の翌朝、コルヴィエール高地とサン=ブリウ村落には、まだ硝煙と油の匂いが残っていた。
村では教会塔が半ば崩れ、石橋の欄干は砲弾片で欠け、橋上の敷石には血と泥と黒色火薬の煤が混じっていた。
ノルトマルクの兵は、夜明けから村西口と橋東詰の整理にかかっていた。
負傷兵を後送し、死者を敵味方に分け、まだ息のある敵兵を捕虜として集め、弾薬の残数を調べる。
ヴァルテンベルク上級大将は、追撃を命じなかった。
騎兵は出された。
だが敵を食い荒らすためではなく、ベルヴァーニュ軍が再び足を止めて振り返らぬかを見るためだった。
◆
軍団前進司令部で、メルテンス大佐は朝から報告書を三つに分けていた。
戦闘経過。損害及び捕虜。有功者及び部隊表彰。
三つ目の紙束は、他の二つに比べると薄い。だが扱いは面倒だった。
誰を表彰するかは、誰が功績を持つかだけでは決まらない。
誰の功績をどの言葉で書くか。誰の名前を上に置くか。部隊功績と個人功績をどう分けるか。死者に与えるか、生者に与えるか。
ノルトマルク連邦野戦功績章は、そうした紙の中から生まれる章だった。
兵たちは、等級や正式名称をまとめて、ただ野戦勲章と呼んだ。
宮廷で授けられる鷲章や聖剣章とは違う。
宝石もない。煌めきもない。細かな装飾もない。
前線の工廠でも打ち出せるような簡素な金属章で、表には連邦鷲と交差する剣、裏には戦場名を後で刻むための余白がある。
軍団長はこれを戦場で仮授与できた。
後に統帥府人事局が追認する。
要するに戦闘終了後に遅滞なく渡せる類の勲章である。
だが、この章の本当の効き目は人事局宛ではない。
前線の下士官に野戦勲章を持つ士官が命令を出した時、彼らは一度だけ疑いを省く。
二度目からは本人の腕次第であるが、その一度の価値はかなり高かった。
メルテンス大佐は、そのことをよく知っていた。
ヴァルテンベルク上級大将もまた、長い軍歴の中でそれを知っていた。
「アーレンス工兵中佐は当然授与されるべきでしょう」
メルテンス大佐が言った。
「ヴァルモン方面の遅滞作業。橋梁破壊、鉄路切断、敵時程の破壊。軍団集結に直接寄与。部隊感状と個人功績、双方でよろしいかと」
「うむ」
ヴァルテンベルク上級大将は短く答えた。
「本人は嫌がるだろうがな」
「見た目だけなら嫌がるでしょうな。ですが、心の底では喜ぶ質です」
「ならばなおよかろう。少なくとも勲章を欲しがる者より」
「同感です」
メルテンスは次の紙へ目を移した。
「第二師団。石橋正面及び高地保持。部隊感状。ブレンナー少将の個人勲章は、上級指揮官推薦へ回すのが妥当です」
「部隊が踏みとどまったことを先に書け。石橋正面を支えた大隊には部隊名誉称号の上申も添えろ」
「はい。称号名までこちらで案を出しますか」
「中央に考えさせろ。どうせ戦報と照合して後からもっともらしい名を付ける。橋が落ちなかった事実を書けばいい」
「では、事実としては『サン=ブリウ石橋正面保持』を主に」
「それでよい。第一師団は?」
「第一師団騎兵大隊。南渡河点襲撃。部隊感状。クルーゲ少佐には野戦功績章銀章――というところでしょうか」
「よい」
上級大将は頷いた。
「ああいう仕事でも受勲できるというのは、たまには突撃を止める役にも立つ」
「そこまで賢く効けばよいのですが」
「無理か」
「無理でしょう」
メルテンスは、もう一枚の紙を手に取った。
そこには、クラウスの名があった。
ヴァルテンベルク上級大将は、紙を見る前にメルテンスの顔を見た。
「本人は理解せんだろうな」
「かもしれません」
メルテンスは即答した。
「命令を運んで帰ってきただけ。そういう顔をしていました」
「砲火の下で、最短距離を」
「ええ」
メルテンスは、功績調書の文面を読み上げた。
「通信途絶下、敵砲火を冒し、軍団命令を第一師団司令部へ直接伝達。命令意図を補足し、石橋正面支援及び南浅瀬方面主予備保持を確実ならしめた。これにより石橋正面の崩壊を防ぎ、軍団防御線の保持に寄与」
「少し盛ったな。ライフェンベルクの家名にでも屈したか」
「まあ、少し。あまりにも立派な騎兵ぶりでしたので」
「どの程度だ」
「調書としては適量です」
上級大将は短く笑った。
「ライフェンベルクには銀章だ」
「金章ではなく」
「流石にそれは忖度だ」
答えは速かった。
「だがあの時、命令が遅れれば石橋正面の支援は意味が変わり、南浅瀬の予備も乱れたかもしれん」
「それでも本人は分からないかもしれませんが」
「分からなくてもよい」
ヴァルテンベルク上級大将は、名簿へ目を落としたまま言った。
「勲章は本人にだけ与えるものではない。周囲に知らせるものでもある。この士官は少なくとも一度、火の下で戦ったと」
「要するに、閣下もライフェンベルクに屈したのですか」
「…貴重な才能だ。つい手元に置いておきたくなる」
「つまり便利で使いたくなる、と」
「……概ね、そうだ」
上級大将は紙の余白に短く署名した。
「ライフェンベルク大尉、銀章。式は午後でよい。簡素にやる」
「承知しました」
「長い訓示はいらん。兵は疲れている。死者もまだ片づいていない。長話は、生きている者にも死んだ者にも失礼だ」
「では、部隊感状と個人授章を合わせ、半刻以内で」
メルテンスは名簿を揃えた。
その頃、クラウス本人は隣室で捕虜名簿の綴りを確認していた。
ベルヴァーニュ人の姓はなぜこうも無駄に長いのか。
彼にとっては、それがその時点での最大の問題だった。
◆
式典はその日の午後に行われた。
勝った軍隊は、勝ったことを何らかの形で自分たちへ説明しなければならない。
地面はまだ泥で、風が吹くたびに焼けた村の匂いが届く。
負傷兵の後送列は少し離れた道を通り、捕虜はさらに後ろの柵付きの畑に集められていた。軍楽はない。旗はあるが、風が弱く、あまり勇ましくも見えない。
それでも並べる兵たちは並んだ。
ヴァルテンベルク上級大将は、軍団司令官として短い訓示をした。
「諸君は昨日、優勢なる敵の攻勢を阻止した」
「だが、我々の任務は終わっていない。ベルヴァーニュ軍は退いたが、消えたわけではない。ルサントはなお不安定であり、ロガリア仲介使節はまだ到着していない。諸君が昨日守ったものは、高地だけではない。王都がなお王都として交渉の席へ出るための時間である」
クラウスはそれをどこかぼんやり眺めていた。
次に、表彰が始まった。
工兵大隊。第二師団石橋守備隊。第一師団騎兵大隊。重砲隊。王都警備隊から派遣された補助中隊。
次に個人名が読み上げられた。
アーレンス工兵中佐。クルーゲ少佐。第二師団大隊長。負傷しながら観測線を再接続した砲兵伍長。南浅瀬襲撃で戦死した騎兵中尉。
クラウスは、軍団司令部列の少し後ろに立っていた。
これは表彰を受ける者たちを見ておくべき場なのだろうと思っていた。
自分の役目は授与後に写しを整理し、有功者名簿を王都前室へ送ることだ、と。
「クラウス・フォン・ライフェンベルク大尉」
だから名前を呼ばれた時、最初は別のライフェンベルクを探しかけた。
けれど、それはどう考えても間違いなく自分だった。
横にいた司令部付の西部将校が、小声で言った。
「大尉殿」
「あ、はい」
クラウスは慌てて一歩前へ出た。
軍人として歩くことはできた。これは訓練のおかげである。
内心はかなり崩れていたが、外側の歩幅は何とか規定の範囲に収まった。
ヴァルテンベルク上級大将の前で停止する。
メルテンス大佐が授与文を読み上げた。
「ライフェンベルク大尉。貴官は八月八日、ラーエ河畔戦闘において、通信途絶下、敵砲火を冒して第一師団司令部へ軍団命令を伝達し、命令意図を明確に補足せり。これにより石橋正面の防御崩壊を未然に防ぎ、南浅瀬方面予備の保持に寄与した。よって野戦功績章銀章を授与する」
その言葉が終わると、上級大将が章を彼の胸へ付けた。
小さな銀色の章だった。
黒と白の細い縞を織り込んだ略綬がつき、中央には連邦鷲と交差する剣がある。
作りは簡素で、宮廷の勲章のように光を受けて華やぐものではなかった。
むしろ金属片そのものは、思ったより軽い。
だがその軽さが妙に気になった。
「よくやった」
上級大将は短く言った。
「恐縮です」
クラウスは答えた。
それ以外に言うべき語を、今日も持っていなかった。
列へ戻る途中で、彼は一人の伍長と目が合った。
クラウスはその男を知らない。
だが伍長の視線はクラウスの顔に止まり、次に胸元の銀章へ落ち、それからもう一度顔へ戻った。
何かを思い出したような顔をしていた。
クラウスには、それが何かまでは分からなかった。
ただその視線が妙に真っ直ぐだったので、少し居心地が悪くなった。
また一つ、見られ方が変質したような気がしたからだ。
◆
式が終わると、兵たちはそれぞれの仕事へ戻った。
表彰されたからといって、負傷者の後送が終わるわけではない。橋の補修が済むわけでもない。捕虜の食糧が勝手に湧くわけでもない。
勝利の式典は必要だが、必要なだけで便利ではない。
クラウスは、倉庫の裏手でハルトゥング少佐を見つけた。
少佐は戦闘経過表に時刻を入れていた。
「少佐殿」
「はい」
「伺ってもよろしいでしょうか」
「手短に」
クラウスは、胸の章を指で軽く押さえた。
「…なぜ、私なのでしょうか」
少佐は、しばらく何も言わなかった。
それから、非常にゆっくりと顔を上げた。
「…授与文を聞いていなかったのですか?」
「聞いていました」
「では、なぜという問いの意味が分かりません」
「いえ、その……命令を出したのは閣下で、内容を整えたのはメルテンス大佐と少佐殿です。実際に兵を動かしたのはヴォルクマン少将です。私は命令を運んだだけです」
「……なるほど」
「説明されたことを、なるべく間違えないように言っただけです」
「では、それを功績というのでしょうな」
少佐の声は呆れているようではあったが、突き放すような色は無かった。
クラウスは、何も言わなかった。
自分の中では、言われたことを忘れないように必死で復唱し、いやな記憶を思い出しながら馬で走り、ヴォルクマン少将の前でなるべく失礼にならないように話しただけである。
功績という語はどうにも大きすぎる。その語を被せると、形が合わない気がした。
そこへメルテンス大佐がやって来た。
手には有功者名簿の写しを持っている。
「ライフェンベルク大尉。おめでとうございます」
声は丁寧すぎるほどで、どこか面白がっているようにも聞こえた。
「大佐殿。これは」
「ああ、儀礼は結構です。こんなところで中央の密談ですか?」
「いえ、なぜ私に授章されたのか、と」
メルテンス大佐は一瞬だけ目を閉じた。
「説明が足りませんでしたか?」
「いえ、そういうわけではないのですが…」
「君のそういうところは、いつか周囲をさらに誤解させるでしょうね」
「どういうことでしょう」
「自分の功を当然の職務と見ている。そう解釈されます」
「そういうわけでは。ただ、過分ではないかと」
「その違いを、他人が見分けられると思いますか」
クラウスが沈黙すると、少佐が紙から目を上げずに言った。
「それを理解していないところが、大尉殿です」
「少佐殿も苦労しますね」
「最近は慣れました」
メルテンス大佐は苦笑して、クラウスの胸元を指先で軽く示した。
「その勲章は宮廷用の飾りではありません。大金を積んでも、ライフェンベルクの家名でも手に入りません」
「…つまり、持っていると扱いに困るわけですか」
クラウスのその言葉に、大佐はとうとう吹き出した。
「ええ。その点については全くその通りでしょうな!」