面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました   作:濃厚とんこつ豚無双

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第三十一話 到着と不在

八月十四日、午前。

 

ヴォワ王国南東部、ルサント国境に近いリュシエンヌ駅。

ロガリア使節団首席であるペンブルック卿は、その臨時待合室でサン・ルネ行きの国際列車を待っていた。

 

港へ入ったのは、三日前のことだった。

汽船の甲板で眺める海峡よりも、大陸の鉄道の方がよほど政治に近かった。

 

リュシエンヌ駅の待合室は、古い石造りで、天井が少し高かった。

窓の外にはヴォワ王国の憲兵が二名、ホームの柱の近くに立っている。

 

卿は卓上に置かれた薄い茶を一口飲み、ヴォワ公使館で受け取った書簡束を開いた。

いちばん上にあったのは、ルサント現地情勢の更新要約だった。

 

"八月八日、コルヴィエール高地およびサン・ブリウ村落方面において、ベルヴァーニュ軍攻勢。ノルトマルク西部臨時軍団、これを阻止。ベルヴァーニュ軍は攻勢を停止し、戦線を再編中。王都サン・ルネへの即時脅威は低下。"

 

文章は短い。

報告は危機が深くなるほど修辞を足す余裕が消え、短くなる。

 

卿はその要約を一度だけ読んだ。

ベルヴァーニュは急いだ。そして失敗した。

本協議に入る前に、王都前面で決定的な既成事実を作る。

彼らの狙いは明白だった。

 

というより、本国も半ばその前提で予定を組んでいた節があった。

ゆえに今回の仲介はノルトマルクに大きな恩を売る形にできる、というのが当初のロガリアの見方だった。

しかしその見立てが狂ったことについて、ペンブルック本人は不思議とあまり意外に思っていなかった。

 

次の紙は、初回協議予定出席者名簿だった。

ロガリア側。

自分の名、随員、書記官、通訳官。

次にノルトマルク連邦側。

ヴァルテンベルク上級大将。ヴィルマー中将。外務省連絡官。法務顧問。

そして統帥付連絡将校随員二名の中に、ひとつの名があった。

 

クラウス・フォン・ライフェンベルク大尉。

卿の目が、そこで半拍だけ止まった。

 

ベルヴァーニュ側。

アルジュー侯爵。ド・サン=クレール少佐。公使団法律顧問。随員二名。

 

そこまで読んで、ルサント側の出席するべき人間がいないことに気付いた。

末尾に注記があった。

 

"エレオノーラ第一王女殿下、弔喪および御静養中につき、初回予備折衝への御臨席なし。殿下の安寧および保護に関する経緯については、ベルヴァーニュ首席弔問使節より説明予定。"

 

卿はその注記を二度読んだ。

御臨席なし。しかも代理はない。

だが王女の保護に関する経緯だけは、ベルヴァーニュの首席弔問使節が説明する。

 

「やれやれ、会議の始まる前から随分と露骨なことをする」

 

卿は窓の外を見た。

線路の向こうには、低い丘陵と葡萄畑が広がっている。

ヴォワとルサントの国境は、この先の丘を越えたあたりにある。

土の上では畑がそのまま続くだけの風景だが、地図の上では国境だ。

 

卿は名簿から目を離さぬまま、向かいの書記官へ声をかけた。

 

「王女殿下の御静養について、医師の所見は添付されているか」

書記官は手元の控えを繰った。

「ございません。少なくとも、ヴォワ公使館で受領した束には」

 

卿は頷いた。

「そうか」

 

それ以上は言わなかった。

書記官は何かを尋ねたそうにしたが、やめた。

卿は名簿を折り、書簡束の一番上には戻さず、膝の上に置いた。

 

「静養とは、便利な語だな」

 

それは誰に向けた言葉でもなかった。

ほどなく、駅員が待合室の扉を叩いた。

サン・ルネ行きの列車が入線する。

ペンブルック卿はゆっくり立ち上がり、鞄を持とうとした書記官を片手で制した。

 

「それは私が持つ」

革鞄は、見た目より少し重かった。

 

 

 

 

その二日前。

 

王宮南翼の古い執務室で、ド・サン=クレール少佐は初回協議の出席者名簿を整えていた。

 

名前と肩書を並べ、席次を決め、ロガリア仲介使節を中央に置く。

作業としては単純だった。

 

書記官が、清書前の草案を覗き込んだ。

「少佐殿。エレオノーラ第一王女殿下の御名は、どちらへ」

 

ド・サン=クレールは、すぐには答えなかった。

机の上には、ロガリア、ノルトマルク、ベルヴァーニュ、それぞれの欄が作られている。

ルサント側の欄もある。保全評議、宮内庶務、聖堂参事会。

だが、そこに王女の名はない。

 

「どこにも」

少佐は言った。

書記官のペン先が止まった。

 

「どこにも、ですか」

「出席者名簿だからだ」

 

それだけでは説明になっていない。書記官もそう思ったのだろう。

だが、彼が問い返す前に扉が開いた。

 

アルジュー侯が入ってきた。

略装ではあったが、声にはいつもの磨きが残っている。

彼は机上の草案を一瞥し、すぐに余白へ目を留めた。

 

「王女殿下は欠席か?」

 

「いいえ」

ド・サン=クレールは答えた。

「欠席と書けば、殿下が本来その席へ出るはずだったと認める形になります。初回協議を代表者間の折衝とするなら、殿下は構成員ではありません」

 

侯は席に座りながら、紙を手に取った。

 

「つまり欠席者ではなく、最初から席の外にいる方だと」

「その方が安全です」

「代理は?」

 

少佐は頷いた。

「代理を置けば、代理人が殿下の意思を担うことになります。誰がそれを認めたのか、必ず問われます」

「宮内庶務官では不足か」

「不足というより、危険です。庶務官が何も答えられなければ、殿下の不在が目立つ。答えれば、殿下の意思を勝手に語ったことになる」

 

侯はしばらく名簿を見ていた。

王女の名がない紙。

それは王女の名が書かれた紙よりも、かえって王女の存在を思い出させる。

 

「ならば、経緯は私が語るしかないな」

「はい」

「具体を問われれば」

「追って書面でお返事いたします。本国の外務省より」

 

侯は小さく笑った。

「それはまた、随分と時間がかかりそうだな」

 

書記官は二人の会話を書き取っていなかった。

書き取る種類の話ではないと理解していたのだろう。

 

ド・サン=クレールは羽根ペンを取り、清書用紙へ名を写し始めた。

 

末尾の注記欄にだけ、短く記す。

 

"エレオノーラ第一王女殿下、弔喪および御静養中につき、初回予備折衝への御臨席なし。殿下の安寧および保護に関する経緯については、ベルヴァーニュ首席弔問使節より説明予定。"

 

字は整っていた。

 

「宮内庶務には私から伝える」

侯が言った。

「殿下御本人には庶務官を通す。こちらから長く話す必要はない」

 

「承知しました」

少佐は砂を撒いた。

黒い字の上に細かな砂が落ち、王女殿下の名がないまま名簿は乾いていった。

 

 

 

 

同じ日の夕刻。

王宮北翼二階の部屋には、いつものように白い光があった。

 

エレオノーラ第一王女殿下は、窓辺に立っていた。

 

部屋には侍女が二人いた。

 

古くから仕えるマルトは、少し奥の衣装箪笥の近くに控えている。

新しく置かれたルシールは、扉に近い位置で祈祷書の頁を整えていた。

どちらも侍女である。だが部屋の空気の読み方は、まったく違っていた。

 

扉が叩かれ、宮内庶務官が入ってきた。

彼は王女に礼をし、あまり顔を上げなかった。

 

「殿下。明後日の初回協議につきまして、御連絡がございます」

「どうぞ」

 

王女の声は静かだった。

 

「ロガリア仲介使節と、各国代表者による予備折衝とのことでございます。殿下におかれましては、引き続き御静養を、とのことに」

 

王女はしばらく庶務官を見ていた。

庶務官の手には紙がない。読み上げる文書もない。

口頭の伝達は、後で形を変えやすい。

 

「では」

王女は言った。

「わたくしは招かれていないのですね」

 

庶務官は、すぐには答えられなかった。

 

「予備折衝とのことでございますので」

「まあ」

 

声には怒りも、諦めも、皮肉もはっきりとは乗っていなかった。

ただ、その語を口に入れて確かめたように響いた。

 

「わたくしの安寧について、わたくしのいない場所で話し合うのね」

庶務官はさらに顔を伏せた。

「恐れながら、殿下の御身体を案じてのことでございます」

「そう」

 

王女は窓の外へ目をやった。

北営舎の屋根はこの部屋からは見えなが、そこにあることは分かっている。

 

「下がってよろしいわ」

 

庶務官は礼をして退室した。

扉が閉まった後も、部屋はしばらく静かだった。

 

マルトが、一歩だけ近づいた。

 

「殿下」

「いいのよ」

 

王女は振り返らなかった。

「招かれていない者は、欠席もできないもの」

 

言ったあと、王女は一度だけ奥のマルトの方を見た。

マルトは目を伏せた。

 

ルシールは変わらず祈祷書の頁をめくっていた。

紙の擦れる音だけが、部屋の中に残った。

 

 

 

 

八月十四日、朝。

 

クラウスは旧税関庁舎二階の小部屋で、野戦功績章と格闘していた。

これを自分がぶら下げていると、どうにも似合わないのである。

 

とはいえもう数日は着けている。慣れたと言えば慣れた。

一度だけ、略綬で済ませられないかと考えた日があった。

その時のハルトゥング少佐の顔を、クラウスはできれば思い出したくなかった。

 

「大尉殿」

少佐はいつものように平坦な声で言った。

 

「野戦功績章は」

「……着けなくてはならないでしょうか」

 

問い返した時点で、たぶん負けていた。

少佐はほんの一瞬だけ沈黙した。

 

「授けた側の顔を潰し、見ていた兵の記憶をなかったことにし、ついでに軍団司令官の判断も疑わせたいのであれば、外してもよろしいかと」

「着けます」

 

クラウスは即答した。

その後、なぜかその話がメルテンス大佐に伝わった。

 

大佐は声を立てずに笑い、ついには机に手をついて肩を震わせた。

クラウスは軍人があそこまで笑うところを初めて見た。

 

以来、忘れずに着けている。

恐怖と屈辱は軍隊の基本であることを、しばらくぶりに思い出した。

 

廊下へ出ると、すれ違った兵士の視線が胸元に一度落ちた。

それから顔へ戻る。

ほんの一往復である。

だがその一往復があるのとないのとでは、敬礼の重さが違った。

 

大部屋へ入ると、ヴィルマー中将が机の前で外務省連絡官と短く話していた。

 

「ライフェンベルク大尉」

「は」

「午後、ペンブルック卿がサン・ルネ中央駅に着く。外務省と一緒に迎えに出ろ」

「承知しました」

「正式軍装でよい。胸のそれも、そのまま」

「……はい」

 

 

 

 

午後三時過ぎ。

サン・ルネ中央駅は、戦時にしては静かだった。

 

軍用列車の発着は南側の貨物駅に集められている。

旅客側のホームは、薄く平時の顔を残していた。

とはいえ、まだ完全に平時ではない。

ホーム端の柱の陰にはノルトマルク兵の小さな警備班が立ち、駅舎の掲示板には運休と遅延の紙がいくつも貼られている。

 

人は少なかった。

駅員が数名。外務省連絡官が一人。鉄道吏。それにクラウス。

 

汽笛が遠くで鳴った。

やがて、短い編成がホームへ滑り込んできた。

 

機関車一輌、客車三輌。うち一輌にはヴォワ外務省の通過標章が掲げられている。

車輪の音は、軍用列車の重さとは違って軽かった。

 

列車が止まり、扉が開く。

最初に降りたのは、護衛武官らしい若い男だった。

周囲を見てから、すぐ脇に退く。

 

次に書記官。

そして白い髭の老紳士が、少しだけ身を屈めて客車の段を降りた。

 

あれが件の仲介使節だろう。

クラウスは一歩前に出て、敬礼した。

 

「ノルトマルク連邦軍団より、仲介使節団への連絡将校を仰せつかりました。クラウス・フォン・ライフェンベルク大尉と申します」

 

卿は敬礼を受け、軽く頭を下げた。

その目は、外交官というにはあまりに柔和に見えた。

「サー・エドマンド・ペンブルックだ。ふむ、君が今のライフェンベルクかね」

 

クラウスは少しだけ間を置いた。意図を測りかねたからだ。

「……ええ、そうですが」

 

卿は気にせずににこりとした。

「いや、失敬。私の家では、ライフェンベルクという姓に少しばかり縁があってね」

 

訊き返すべきかと思った。

だが、それも少し怖かったのでやめた。

 

「光栄です」

卿はその返答を聞いて、また少し笑った。

なぜ笑うのかは、やはり分からなかった。

 

そのうち外務省連絡官が進み出て、宿舎と今後の予定について手短に説明した。

ロガリア側の書記官は、それを几帳面に書き留めている。

ペンブルック卿は頷きながらも、一度だけこちらへ目をやった。

 

「ご案内いたします」

 

クラウスはそう言って、使節団を駅舎の外へ導いた。

外に出ると、サン・ルネの夏の空気が石畳から返ってきた。

 

馬車は二台用意されていた。前にペンブルック卿とクラウス、外務省連絡官。

後ろに随員と荷物。

馬車が動き出して少しした頃、ペンブルック卿は膝の上の書簡束を軽く叩いた。

 

「ライフェンベルク大尉」

「はい」

「明日の初回協議だが、エレオノーラ王女殿下は御欠席という理解でよいのかね」

 

名簿の注記は読んでいる。

彼はこの手の資料だけは完璧に確認していた。

数少ない得意分野である。

 

「欠席、という扱いではないようです」

 

卿が目を上げた。

 

「ほう」

「そもそも初回協議の出席者名簿に、お名前がございません」

クラウスはそれを、ほとんど事務的な区別として言った。

欠席は、名簿にある者が来ない時の語だ。

名簿にない者は、欠席者ではない。

 

「なるほど」

卿はゆっくりと言った。

クラウスは少し不安になった。

何かまずいことを言っただろうか。

 

「失礼ながら、注記には御静養中とありました」

「そうだね」

 

卿は名簿を開かずに答えた。

 

「静養中の者を、誰が代表するのかも書かれていなかった」

「はい。代理は置かれないと」

「そして保護の経緯は、ベルヴァーニュの侯爵が説明する」

 

クラウスはそこでようやく、卿が何を見ているのか分かり始めた。

卿は窓の外へ目を向けた。

 

サン・ルネの通りには、まだ黒布の名残があった。

故王の喪が完全に解かれたわけではない。

だが喪布の下を、軍靴や荷車や外務省の馬車が通っていく。

 

「大尉」

「はい」

「ノルトマルク軍では、名簿にない兵の不在はどう扱うのかね」

 

妙な質問だった。

クラウスは少し迷った。

 

「……状況によりますが」

「うむ」

「少なくとも、点呼で欠席とは扱えません」

 

卿はただ一度だけ小さく頷き、目尻の皺を少し深くした。

「まさしく。実に明快だ」

 

馬車は旧税関庁舎へ向かって進んだ。

王都の石畳の上を車輪が跳ねるたびに、膝の上の書簡束がわずかに揺れた。

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