面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました 作:濃厚とんこつ豚無双
八月十四日、午前。
ヴォワ王国南東部、ルサント国境に近いリュシエンヌ駅。
ロガリア使節団首席であるペンブルック卿は、その臨時待合室でサン・ルネ行きの国際列車を待っていた。
港へ入ったのは、三日前のことだった。
汽船の甲板で眺める海峡よりも、大陸の鉄道の方がよほど政治に近かった。
リュシエンヌ駅の待合室は、古い石造りで、天井が少し高かった。
窓の外にはヴォワ王国の憲兵が二名、ホームの柱の近くに立っている。
卿は卓上に置かれた薄い茶を一口飲み、ヴォワ公使館で受け取った書簡束を開いた。
いちばん上にあったのは、ルサント現地情勢の更新要約だった。
"八月八日、コルヴィエール高地およびサン・ブリウ村落方面において、ベルヴァーニュ軍攻勢。ノルトマルク西部臨時軍団、これを阻止。ベルヴァーニュ軍は攻勢を停止し、戦線を再編中。王都サン・ルネへの即時脅威は低下。"
文章は短い。
報告は危機が深くなるほど修辞を足す余裕が消え、短くなる。
卿はその要約を一度だけ読んだ。
ベルヴァーニュは急いだ。そして失敗した。
本協議に入る前に、王都前面で決定的な既成事実を作る。
彼らの狙いは明白だった。
というより、本国も半ばその前提で予定を組んでいた節があった。
ゆえに今回の仲介はノルトマルクに大きな恩を売る形にできる、というのが当初のロガリアの見方だった。
しかしその見立てが狂ったことについて、ペンブルック本人は不思議とあまり意外に思っていなかった。
次の紙は、初回協議予定出席者名簿だった。
ロガリア側。
自分の名、随員、書記官、通訳官。
次にノルトマルク連邦側。
ヴァルテンベルク上級大将。ヴィルマー中将。外務省連絡官。法務顧問。
そして統帥付連絡将校随員二名の中に、ひとつの名があった。
クラウス・フォン・ライフェンベルク大尉。
卿の目が、そこで半拍だけ止まった。
ベルヴァーニュ側。
アルジュー侯爵。ド・サン=クレール少佐。公使団法律顧問。随員二名。
そこまで読んで、ルサント側の出席するべき人間がいないことに気付いた。
末尾に注記があった。
"エレオノーラ第一王女殿下、弔喪および御静養中につき、初回予備折衝への御臨席なし。殿下の安寧および保護に関する経緯については、ベルヴァーニュ首席弔問使節より説明予定。"
卿はその注記を二度読んだ。
御臨席なし。しかも代理はない。
だが王女の保護に関する経緯だけは、ベルヴァーニュの首席弔問使節が説明する。
「やれやれ、会議の始まる前から随分と露骨なことをする」
卿は窓の外を見た。
線路の向こうには、低い丘陵と葡萄畑が広がっている。
ヴォワとルサントの国境は、この先の丘を越えたあたりにある。
土の上では畑がそのまま続くだけの風景だが、地図の上では国境だ。
卿は名簿から目を離さぬまま、向かいの書記官へ声をかけた。
「王女殿下の御静養について、医師の所見は添付されているか」
書記官は手元の控えを繰った。
「ございません。少なくとも、ヴォワ公使館で受領した束には」
卿は頷いた。
「そうか」
それ以上は言わなかった。
書記官は何かを尋ねたそうにしたが、やめた。
卿は名簿を折り、書簡束の一番上には戻さず、膝の上に置いた。
「静養とは、便利な語だな」
それは誰に向けた言葉でもなかった。
ほどなく、駅員が待合室の扉を叩いた。
サン・ルネ行きの列車が入線する。
ペンブルック卿はゆっくり立ち上がり、鞄を持とうとした書記官を片手で制した。
「それは私が持つ」
革鞄は、見た目より少し重かった。
◆
その二日前。
王宮南翼の古い執務室で、ド・サン=クレール少佐は初回協議の出席者名簿を整えていた。
名前と肩書を並べ、席次を決め、ロガリア仲介使節を中央に置く。
作業としては単純だった。
書記官が、清書前の草案を覗き込んだ。
「少佐殿。エレオノーラ第一王女殿下の御名は、どちらへ」
ド・サン=クレールは、すぐには答えなかった。
机の上には、ロガリア、ノルトマルク、ベルヴァーニュ、それぞれの欄が作られている。
ルサント側の欄もある。保全評議、宮内庶務、聖堂参事会。
だが、そこに王女の名はない。
「どこにも」
少佐は言った。
書記官のペン先が止まった。
「どこにも、ですか」
「出席者名簿だからだ」
それだけでは説明になっていない。書記官もそう思ったのだろう。
だが、彼が問い返す前に扉が開いた。
アルジュー侯が入ってきた。
略装ではあったが、声にはいつもの磨きが残っている。
彼は机上の草案を一瞥し、すぐに余白へ目を留めた。
「王女殿下は欠席か?」
「いいえ」
ド・サン=クレールは答えた。
「欠席と書けば、殿下が本来その席へ出るはずだったと認める形になります。初回協議を代表者間の折衝とするなら、殿下は構成員ではありません」
侯は席に座りながら、紙を手に取った。
「つまり欠席者ではなく、最初から席の外にいる方だと」
「その方が安全です」
「代理は?」
少佐は頷いた。
「代理を置けば、代理人が殿下の意思を担うことになります。誰がそれを認めたのか、必ず問われます」
「宮内庶務官では不足か」
「不足というより、危険です。庶務官が何も答えられなければ、殿下の不在が目立つ。答えれば、殿下の意思を勝手に語ったことになる」
侯はしばらく名簿を見ていた。
王女の名がない紙。
それは王女の名が書かれた紙よりも、かえって王女の存在を思い出させる。
「ならば、経緯は私が語るしかないな」
「はい」
「具体を問われれば」
「追って書面でお返事いたします。本国の外務省より」
侯は小さく笑った。
「それはまた、随分と時間がかかりそうだな」
書記官は二人の会話を書き取っていなかった。
書き取る種類の話ではないと理解していたのだろう。
ド・サン=クレールは羽根ペンを取り、清書用紙へ名を写し始めた。
末尾の注記欄にだけ、短く記す。
"エレオノーラ第一王女殿下、弔喪および御静養中につき、初回予備折衝への御臨席なし。殿下の安寧および保護に関する経緯については、ベルヴァーニュ首席弔問使節より説明予定。"
字は整っていた。
「宮内庶務には私から伝える」
侯が言った。
「殿下御本人には庶務官を通す。こちらから長く話す必要はない」
「承知しました」
少佐は砂を撒いた。
黒い字の上に細かな砂が落ち、王女殿下の名がないまま名簿は乾いていった。
◆
同じ日の夕刻。
王宮北翼二階の部屋には、いつものように白い光があった。
エレオノーラ第一王女殿下は、窓辺に立っていた。
部屋には侍女が二人いた。
古くから仕えるマルトは、少し奥の衣装箪笥の近くに控えている。
新しく置かれたルシールは、扉に近い位置で祈祷書の頁を整えていた。
どちらも侍女である。だが部屋の空気の読み方は、まったく違っていた。
扉が叩かれ、宮内庶務官が入ってきた。
彼は王女に礼をし、あまり顔を上げなかった。
「殿下。明後日の初回協議につきまして、御連絡がございます」
「どうぞ」
王女の声は静かだった。
「ロガリア仲介使節と、各国代表者による予備折衝とのことでございます。殿下におかれましては、引き続き御静養を、とのことに」
王女はしばらく庶務官を見ていた。
庶務官の手には紙がない。読み上げる文書もない。
口頭の伝達は、後で形を変えやすい。
「では」
王女は言った。
「わたくしは招かれていないのですね」
庶務官は、すぐには答えられなかった。
「予備折衝とのことでございますので」
「まあ」
声には怒りも、諦めも、皮肉もはっきりとは乗っていなかった。
ただ、その語を口に入れて確かめたように響いた。
「わたくしの安寧について、わたくしのいない場所で話し合うのね」
庶務官はさらに顔を伏せた。
「恐れながら、殿下の御身体を案じてのことでございます」
「そう」
王女は窓の外へ目をやった。
北営舎の屋根はこの部屋からは見えなが、そこにあることは分かっている。
「下がってよろしいわ」
庶務官は礼をして退室した。
扉が閉まった後も、部屋はしばらく静かだった。
マルトが、一歩だけ近づいた。
「殿下」
「いいのよ」
王女は振り返らなかった。
「招かれていない者は、欠席もできないもの」
言ったあと、王女は一度だけ奥のマルトの方を見た。
マルトは目を伏せた。
ルシールは変わらず祈祷書の頁をめくっていた。
紙の擦れる音だけが、部屋の中に残った。
◆
八月十四日、朝。
クラウスは旧税関庁舎二階の小部屋で、野戦功績章と格闘していた。
これを自分がぶら下げていると、どうにも似合わないのである。
とはいえもう数日は着けている。慣れたと言えば慣れた。
一度だけ、略綬で済ませられないかと考えた日があった。
その時のハルトゥング少佐の顔を、クラウスはできれば思い出したくなかった。
「大尉殿」
少佐はいつものように平坦な声で言った。
「野戦功績章は」
「……着けなくてはならないでしょうか」
問い返した時点で、たぶん負けていた。
少佐はほんの一瞬だけ沈黙した。
「授けた側の顔を潰し、見ていた兵の記憶をなかったことにし、ついでに軍団司令官の判断も疑わせたいのであれば、外してもよろしいかと」
「着けます」
クラウスは即答した。
その後、なぜかその話がメルテンス大佐に伝わった。
大佐は声を立てずに笑い、ついには机に手をついて肩を震わせた。
クラウスは軍人があそこまで笑うところを初めて見た。
以来、忘れずに着けている。
恐怖と屈辱は軍隊の基本であることを、しばらくぶりに思い出した。
廊下へ出ると、すれ違った兵士の視線が胸元に一度落ちた。
それから顔へ戻る。
ほんの一往復である。
だがその一往復があるのとないのとでは、敬礼の重さが違った。
大部屋へ入ると、ヴィルマー中将が机の前で外務省連絡官と短く話していた。
「ライフェンベルク大尉」
「は」
「午後、ペンブルック卿がサン・ルネ中央駅に着く。外務省と一緒に迎えに出ろ」
「承知しました」
「正式軍装でよい。胸のそれも、そのまま」
「……はい」
◆
午後三時過ぎ。
サン・ルネ中央駅は、戦時にしては静かだった。
軍用列車の発着は南側の貨物駅に集められている。
旅客側のホームは、薄く平時の顔を残していた。
とはいえ、まだ完全に平時ではない。
ホーム端の柱の陰にはノルトマルク兵の小さな警備班が立ち、駅舎の掲示板には運休と遅延の紙がいくつも貼られている。
人は少なかった。
駅員が数名。外務省連絡官が一人。鉄道吏。それにクラウス。
汽笛が遠くで鳴った。
やがて、短い編成がホームへ滑り込んできた。
機関車一輌、客車三輌。うち一輌にはヴォワ外務省の通過標章が掲げられている。
車輪の音は、軍用列車の重さとは違って軽かった。
列車が止まり、扉が開く。
最初に降りたのは、護衛武官らしい若い男だった。
周囲を見てから、すぐ脇に退く。
次に書記官。
そして白い髭の老紳士が、少しだけ身を屈めて客車の段を降りた。
あれが件の仲介使節だろう。
クラウスは一歩前に出て、敬礼した。
「ノルトマルク連邦軍団より、仲介使節団への連絡将校を仰せつかりました。クラウス・フォン・ライフェンベルク大尉と申します」
卿は敬礼を受け、軽く頭を下げた。
その目は、外交官というにはあまりに柔和に見えた。
「サー・エドマンド・ペンブルックだ。ふむ、君が今のライフェンベルクかね」
クラウスは少しだけ間を置いた。意図を測りかねたからだ。
「……ええ、そうですが」
卿は気にせずににこりとした。
「いや、失敬。私の家では、ライフェンベルクという姓に少しばかり縁があってね」
訊き返すべきかと思った。
だが、それも少し怖かったのでやめた。
「光栄です」
卿はその返答を聞いて、また少し笑った。
なぜ笑うのかは、やはり分からなかった。
そのうち外務省連絡官が進み出て、宿舎と今後の予定について手短に説明した。
ロガリア側の書記官は、それを几帳面に書き留めている。
ペンブルック卿は頷きながらも、一度だけこちらへ目をやった。
「ご案内いたします」
クラウスはそう言って、使節団を駅舎の外へ導いた。
外に出ると、サン・ルネの夏の空気が石畳から返ってきた。
馬車は二台用意されていた。前にペンブルック卿とクラウス、外務省連絡官。
後ろに随員と荷物。
馬車が動き出して少しした頃、ペンブルック卿は膝の上の書簡束を軽く叩いた。
「ライフェンベルク大尉」
「はい」
「明日の初回協議だが、エレオノーラ王女殿下は御欠席という理解でよいのかね」
名簿の注記は読んでいる。
彼はこの手の資料だけは完璧に確認していた。
数少ない得意分野である。
「欠席、という扱いではないようです」
卿が目を上げた。
「ほう」
「そもそも初回協議の出席者名簿に、お名前がございません」
クラウスはそれを、ほとんど事務的な区別として言った。
欠席は、名簿にある者が来ない時の語だ。
名簿にない者は、欠席者ではない。
「なるほど」
卿はゆっくりと言った。
クラウスは少し不安になった。
何かまずいことを言っただろうか。
「失礼ながら、注記には御静養中とありました」
「そうだね」
卿は名簿を開かずに答えた。
「静養中の者を、誰が代表するのかも書かれていなかった」
「はい。代理は置かれないと」
「そして保護の経緯は、ベルヴァーニュの侯爵が説明する」
クラウスはそこでようやく、卿が何を見ているのか分かり始めた。
卿は窓の外へ目を向けた。
サン・ルネの通りには、まだ黒布の名残があった。
故王の喪が完全に解かれたわけではない。
だが喪布の下を、軍靴や荷車や外務省の馬車が通っていく。
「大尉」
「はい」
「ノルトマルク軍では、名簿にない兵の不在はどう扱うのかね」
妙な質問だった。
クラウスは少し迷った。
「……状況によりますが」
「うむ」
「少なくとも、点呼で欠席とは扱えません」
卿はただ一度だけ小さく頷き、目尻の皺を少し深くした。
「まさしく。実に明快だ」
馬車は旧税関庁舎へ向かって進んだ。
王都の石畳の上を車輪が跳ねるたびに、膝の上の書簡束がわずかに揺れた。