面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました   作:濃厚とんこつ豚無双

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第三十二話 初回協議

予備協議室は、王都庁舎の二階にあった。

 

元は何に使われていたのか、クラウスには分からない。

壁には古い地図の跡があり、石の床の表面だけは磨かれている。

窓は南向きで、午前の光が長い卓の半分まで届いていた。

 

卓の上には、ロガリア使節団が前夜のうちに用意させたらしい議事次第の紙が置かれていた。

各席の前に一部ずつ。

どの紙も同じ体裁で、同じ文字で、同じことが書かれている。

だが座る側によって、同じ文字の意味は違うのだろう。

 

クラウスは卓の末席にいた。

厳密には席というより、壁際に追加された小机である。

議事録と筆記具を手元に置き、書類の受け渡しが発生すれば別途記録する。

マルク語、ベルヴァーニュ語、ロガリア語の全てを理解している人間が不足していたので急遽駆り出された。

要するに、それだけの仕事だった。

 

 

 

 

出席者は、概ね名簿の通りだった。

 

ロガリア側。ペンブルック卿、書記官、通訳官。

ノルトマルク連邦側。ヴァルテンベルク上級大将の代理としてヴィルマー中将。外務省連絡官。法務顧問。

ベルヴァーニュ側。アルジュー侯爵、ド・サン=クレール少佐、公使団法律顧問。

 

ルサント側は代表が一名だけ出ていた。ヴァロワ伯である。

しかし、老伯の顔にもはや覇気はなかった。

席は卓の隅にあり、発言権があるのかないのか曖昧な位置に置かれている。

代表というより、ルサントの椅子がまだ空ではないと示すための配置に見えた。

 

クラウスは出席者の着席を見ながら、議事録の表紙に日付と場所を書いた。

 

八月十五日。

場所。王都庁舎二階予備協議室。

議事次第一部、ロガリア書記官より配布。

 

そこでペンブルック卿が口を開いた。

 

「本日は初回の予備折衝でございます。協議の本題に入る前に、手続き上の確認をいくつか行いたい」

 

声は穏やかだった。

昨日の馬車の中と同じ声である。ただし、ほんの少し速度が遅い。

 

卿は手元の紙を見ず、出席者の顔を一巡させてから続けた。

 

「まず、停戦線の仮確認について」

 

話はそこから始まった。

 

停戦線の位置。

現時点で両軍がどこにいるか。どこまでが互いの管轄か。

これはほぼ事実としては確定しているが、それでも行わないわけにはいかない交渉である。

ルサント領内の整理については早かったが、王都内については少し揉めた。

ノルトマルク側は、王都外縁と主要交通路の安全確保を主張した。

ベルヴァーニュ側は、王女殿下の保護と自国使節団の安全を理由に、王宮周辺および北営舎関連区域の特別扱いを求めた。

ペンブルック卿はどちらにも頷き、どちらにも同意しなかった。

 

次に、負傷者後送の安全通行。

これは両側とも異論がなかった。

怪我人を運ぶことを拒む軍隊は、少なくとも公式にはない。

ただし通行路の指定については、鉄道の使用権と重なるため、書記官が三度ほど確認を入れた。

 

捕虜交換名簿の照合。

名簿は両軍が別々に作っている。

一致しない名前がある。死亡した者、移送中の者、名前の綴りが違う者。

これも手間はかかるが、争いにはなりにくい。

名前を間違えていた側が恥をかくだけである。

クラウスは自分の担当した部分が間違っていないことを願いつつも、珍しく妙な自信もあった。

そういう細かい事務作業は間違ってはいないだろう、という軍人としてはあまり上等ではない類のものである。

 

各軍代表者の署名権限。

ヴィルマー中将が、ノルトマルク連邦評議会および西部臨時軍団司令官の委任に基づく権限を述べた。

アルジュー侯は、皇帝陛下より賜りしベルヴァーニュ首席弔問使節としての権限を改めて述べた。

この辺りになると、言葉の選び方に力が入る。

 

議事録正本の言語。

これはすぐ決まるかと思ったが、思ったよりも揉めた。

ノルトマルク側はマルク語の併記を求め、ベルヴァーニュ側は慣例としてルサントでも公用語であるベルヴァーニュ語を主文とすることを主張した。

ペンブルック卿はしばらく双方の言い分を聞いた後、

「では、ロガリア語を第三の参照言語として正副本を作成するのは」と提案した。

誰も特に嬉しそうな顔はしなかったが、反対もしなかった。

クラウスとしては、ベルヴァーニュ語の筆記をしないでいいのは少しだけありがたかった。

 

副本の作成手順。正本は一通、副本は各代表に一部ずつ。

署名は正本のみ。副本は書記官の照合印を以て認証とする。

 

協議期間中の王都警備権限。

ここで少し空気が変わった。

ベルヴァーニュ側が、王宮北翼および自国使節団関連区域の警備については、なお自国使節団の管轄下にある旨を述べた。

ノルトマルク側の外務省連絡官が、王都北部および東部は連邦軍の管轄にある旨を述べた。

ヴァロワ伯は一度だけ唇を動かしたが、声は出さなかった。

ペンブルック卿は双方の発言を記録させたが、どちらにも応じなかった。

ただ「本件は協議の進展に応じて整理する」と言った。

 

軍使往来の安全保証。

これは双方とも即座に同意した。

軍使を撃つ軍隊は、次の軍使を送れなくなる。

実利が礼儀と一致する時だけ、合意は速い。

 

ここまでで、おおよそ一時間が過ぎた。

クラウスの議事録には、議事次第の確認済み項目が八つ並んでいた。

どれも争点ではあったが、決裂するほどのものはない。

 

ペンブルック卿は水を一口飲んだ。

それから、紙を一枚めくった。

 

「では、もう一点」

 

卿の声は変わらなかった。

速度も、音量も、言葉の選び方も。

だが、クラウスの手が止まった。

なぜ止まったのか、自分でもすぐには分からなかった。

 

「エレオノーラ第一王女殿下の御静養について、若干の確認をさせていただきたい」

 

部屋の温度が変わったわけではない。

窓からの光も同じだった。

しかしベルヴァーニュ側の法律顧問のペンが止まり、ド・サン=クレール少佐の背がごく僅かに硬くなったのを、クラウスは見た。

 

ペンブルック卿は誰かを見つめるでもなく、卓上の紙に目を落としたまま言った。

 

「王女殿下は、本協議に出席可能でしょうか」

 

アルジュー侯がすぐに答えた。

「殿下は父王崩御の悲嘆と長期にわたる御疲労のため、静養中でございます。医師の勧めにより、当面の公務出席は控えておいでです」

 

声はひどく整っていて、滑らかだった。

ペンブルック卿は頷いた。

 

「御事情は察します。では、出席が不能であるとの理解でよろしいか」

「不能ということではなく、医師の判断により控えておられるということです。御快復なされば、すぐにでも御臨席の準備はあります」

「承知いたしました」

 

卿はそこで一度、書記官の方を見た。書記官はペンを走らせている。

「では、その医師の所見は書面でいただけますか」

 

侯の目が、ほんの一瞬だけ卿を測った。

 

「追って提出いたします」

「結構です」

 

卿は先を急がなかった。

 

「もう一点。殿下の御状態の確認は行われておりますか」

「殿下の身辺には侍女が控えております。日々の御様子は、宮内庶務を通じて報告されております」

 

ド・サン=クレール少佐が、ここで初めて口を開いた。

 

「宮内庶務の日報は、使節団書記局にも写しが回覧されております。仲介使節団にも整理の上で提出できます」

 

少佐の声は平らだった。

 

「よろしい」

卿は言った。

「最後に一点だけ。ルサントの扱いを決めるこの協議において、王女殿下御本人の意思確認はどのような形式で行われるのでしょうか」

 

部屋がまた静まった。

しばらくして、再び努めて滑らかな声でアルジュー侯が答えた。

 

「殿下の御意思については、御快復の後に然るべき形でお尋ね申し上げることになりましょう」

「なるほど」

「もちろん、協議の終了に間に合わぬ場合は、何か別の方式を――例えば書面であるとか。ええ、ご用意する必要はあるでしょう」

 

卿は一度だけ頷いた。

 

「では、詳細は追って、ということでしょうか」

「はい」

「結構です」

 

それだけだった。

卿はそれ以上追及しなかった。

声を荒げることもなく、疑念を匂わせる語も使わなかった。

 

だが卿は手元の控え紙に、何かを三点ほど書き留めた。

クラウスの位置からは、字そのものは読めなかった。

ただ、ペンが三度止まり、三度動いたのは見えた。

 

停戦線の確認に二十分を使い、捕虜名簿に十五分を使い、議事録の言語に十分を使った卿が、王女殿下の静養についてはおよそ五分で切り上げた。

時間だけで言えば、最も短い議題だった。

 

だが五分のあいだに、ペンブルック卿は五つの問いを出した。

出席可能か。

出席不能の理由は何か。

医師の所見はあるか。

近侍による確認はあるか。

本人の意思確認はどの形式か。

 

五つとも、ベルヴァーニュ側はよどみなく答えた。

ただし全て、追って、または然るべき形で、という留保が付いていた。

要するに、答えにはなっていなかった。

 

クラウスは議事録の余白に確認事項を書き留めた。

だがペンを動かしながら、妙なことに気づいていた。

停戦線も、捕虜名簿も、警備権限も、どれも重要な議題だった。

だが、そのどれについてもペンブルック卿は控え紙に書き留めなかった。

 

卿が自分の手で書き留めたのは、王女の静養に関する議題だけだった。

 

 

 

 

協議は正午前に終了した。

 

すぐに出席者が立ち上がり始めた。

ノルトマルク側の法務顧問が、副本の部数について外務省連絡官と短く言葉を交わしている。

 

クラウスは議事録を閉じ、卓上の配布資料を回収した。

ベルヴァーニュ側は、アルジュー侯を先頭に退出した。

ヴァロワ伯は立ち上がるのに少し時間がかかった。

老伯は誰とも目を合わせず、ルサント側の書記官に支えられるようにして部屋を出た。

 

ペンブルック卿は最後に立ち上がった。

書記官が控え紙を受け取ろうとしたが、卿はそれを自分の内ポケットへしまった。

 

クラウスが卿の脇を通りかかった時、ふいに声を掛けられた。

 

「ライフェンベルク大尉」

卿の声は、協議中と変わらなかった。

 

「はい」

「王都では、病人の見舞いにも手続きが要るのですかな」

 

唐突な問いだった。

クラウスは少し考えた。

考えた末に、最も無難な答えを選んだ。

 

「ええ、まあ。警備上の都合かと存じます」

 

卿は小さく頷いた。

 

「警備上の都合」

その語を繰り返した。

繰り返しただけで、否定も肯定もしなかった。

 

それから卿は廊下へ出た。

書記官が半歩遅れて続いた。

 

クラウスは協議室に残った。

卓の上には、水差しと使われなかった予備の紙が残っている。

窓からの光は、午前よりわずかに角度を変えていた。

 

クラウスも、あの王女殿下が本当に静養しているとは思わなかった。

静養という語にしては、人の手が多すぎるからだ。

そこまでは想像できる。

だがそう思ったところで、自分には名簿にない人間を載せる権限も、協議の議題を変える立場もない。

 

議事録を脇に抱え、協議室を出た。

廊下の石壁は、夏の湿気を薄く含んでいて不快だった。

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