面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました   作:濃厚とんこつ豚無双

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第三十三話 受け取った紙片

初回協議の翌朝、ベルヴァーニュ使節団書記局にロガリア仲介使節団からの照会文が届いた。

 

ド・サン=クレール少佐は、北営舎二階の自室でそれを読んだ。

文面は丁寧で、短く、ほとんど儀礼的だった。

 

"ロガリア国王陛下の名において、父王崩御に対する弔慰ならびに御静養中のエレオノーラ第一王女殿下への快癒の御言葉をお伝えしたい。殿下御本人への拝謁が叶わぬ場合は、殿下付きの近侍を通じて伝達いただければ幸甚に存ず。"

 

ここまでなら問題はない。

弔問と見舞いは外交儀礼として自然であり、断る理由がない。

問題は末尾だった。

 

"なお、宮内庶務日報および静養室出入り確認簿に照らし、殿下付き古参侍女マルトの仲介をお願いしたい。"

 

名指しだった。

少佐は紙を机に置いた。

 

この名がロガリアの書面に載っている根拠は明白だった。

 

王宮北翼警備確認別葉。

北翼への出入り者の時刻と名を記録した別葉。

 

宮内庶務日報の写し。

殿下付き侍女の勤務と日々の報告を記したもの。

 

静養室出入り確認簿。

静養の形を厚くするために、少佐自身が作成を命じた記録。

 

どの紙にも、マルトの名は載っている。

 

王女が適切に遇されていると示すために、古参侍女マルトが殿下のお側に仕えていると記録した。

ペンブルック卿は、その記録からマルトの名を引いた。

 

こちらの紙で、こちらの人間を指名されたのだ。

少佐は立ち上がり、侯の執務室へ向かった。

 

 

 

 

アルジュー侯は、照会文を読むのに時間がかかった。

文面そのものは短い。

だが侯は、読み終えた後もしばらく紙を手に持っていた。

 

「マルトか」

「はい。出さなければ、出さなかったことの方が記録に残ります」

「ルシールでは」

「差し替えれば、ロガリア側の控えにその事実が残る。古参侍女を出せない事情があると読まれます」

 

侯は紙を机に置いた。

 

「あの女が余計なことを言う可能性もある」

「場を管理します、いつでも止められるように」

「止めたことも記録に残るのではないか」

 

少佐は、少しだけ間を置いた。

 

「はい。残ります」

「では、何もできんではないか」

「何もしなくても残ります。閣下」

 

侯の指が、照会文の端を押さえた。

紙は動かなかった。

 

「……つまり、このままでは、我々が全ての絵図を描いたことになる」

「そう読まれます」

「王女殿下は請願していない。王都は完全には沈黙していない。ロガリアは仲介に入る。にもかかわらず、我々は保護の名で軍を動かした」

 

侯はそこで言葉を切った。

「きれいな失敗だな」

 

少佐は答えなかった。

 

「どうした、違うのか」

「…はい。我々は、請願なき保護を戦争理由にしたことになります」

 

その語を口にしてから、少佐は唇を閉じた。

できれば、自分の口で言いたくない語だった。

侯は椅子の背に身を預けた。

 

「本国は許さんだろうな」

「はい」

「戦争省は、現地使節団の確認不足と書く。外務省は、王女殿下の意思確認を怠ったと書く。北営舎の処理も、王宮北翼の警備も、出席者名簿も、すべて現地の判断になる。私と君の名でな」

「事実ですから」

「そうだ。誰もやれとは言っていない」

 

侯の声は大きくなかった。

 

「望まれてはいた。促されてもいた。だが命令はされていない。ルサントを昨日までの顔のまま、我らの側へ傾ける。そのために王女殿下の保護という形を使う。そう判断したのは、あくまで現地の我々だ」

 

少佐は、机上の紙を見た。

そこにはマルトの名がある。

 

「見立てが甘かったのです。申し訳ございません」

「よい。私も勝てると思っていた」

 

侯は即座に言った。慰めという声音ではなかった。

 

「勝っていればこれは処理になった。王女殿下の意思も、王都の沈黙も、後から形を整えればよかった。だが勝てなかった。すると、どうだ」

 

少佐は何も言わなかった。

侯は照会文をもう一度見た。

 

「どれほど立派な理屈が残ったところで、私と君が中央に残らなければ意味がない」

「……はい」

「楽な仕事だと思ったが」

 

侯はそこで、ようやく喉の奥で短く笑った。

乾いた音だった。

 

「吹けば飛ぶような国の王女一人に、ずいぶん高い授業料を払わされる」

「まだ終わっておりません」

「もちろんだ。終わらせれば、その時点で失敗になる」

 

侯は照会文を机へ置いた。

 

「会わせてやれ」

「よろしいので」

「よろしくなくても、会わせねばならん」

「…は。会見は小応接室で行います。ロガリア側はペンブルック卿と書記官。こちらはマルト、係官一名。それとロガリアよりノルトマルクの記録官を一名随伴させたいとのことです」

「ノルトマルクの?」

「はい。記録の公平性のため、昨日の予備折衝で議事録補助を務めたライフェンベルク大尉を、と」

 

侯の顔に、別の種類の不快が浮いた。

 

「またあの若いのか」

「拒めば、拒んだことが残ります」

「君は本当にそればかりだな」

「今はそう言う他にありませんので」

 

侯はしばらく黙った。

 

「少佐」

「は」

「これは失敗ではない」

 

少佐はすぐには答えなかった。

侯は、それを見て声を低くした。

 

「失敗なら、誰かが責任を取らねばならん」

 

少佐は一礼した。

 

「ええ。失敗にしないために、動いているのです」

 

 

 

 

王宮北翼二階。

 

宮内庶務官が扉を叩いたのは、その日の昼前だった。

 

エレオノーラ王女殿下は窓辺に立っていた。

祈祷書は机の上に閉じられたままである。

手袋だけ嵌めて、窓の外を見ていた。

 

マルトは衣装箪笥の近くに立っている。

ルシールは扉に近い位置で、いつものように祈祷書の頁を整えていた。

 

「殿下。ロガリア仲介使節団より、弔慰とお見舞いの御言葉をお伝えしたいとの御申し出がございました。殿下のお側の近侍を通じてお伝えいただきたいと」

「どなたを通じて」

 

庶務官は少し間を置いた。

 

「マルトをご指名です」

 

ルシールの手が、祈祷書の頁の上で止まった。

 

「では、行ってもらいましょう」

 

声は静かだった。

ルシールは何かを言いかけたように見えたが、言葉にはしなかった。

庶務官は礼をして退室した。

 

部屋が静まった。

壁の向こうで、歩哨の靴音が一度だけ響いた。

王女はマルトへ顔を向けた。

 

「ロガリアの方には、感謝を伝えてちょうだい。それだけで結構です」

 

マルトは頷いた。

王女は、少し間を置いてから付け加えた。

 

「それと、もしライフェンベルク大尉がその場にいらしたら、先日のお礼を伝えておいて」

 

何でもない言い方だった。

王女とあの大尉には面識がある。

挨拶を伝えるのは、不自然ではない。

 

ルシールは祈祷書の頁に目を戻していた。

マルトだけが、王女の目を見た。

王女はそれ以上、何も言わなかった。

 

マルトは一礼して、部屋を出た。

廊下の歩哨が一歩退いた。

階段を降りながら、左の袖口の内側にある紙の硬さを一度だけ指先で確かめた。

紙は三枚ある。

どれも小さく折り畳まれ、三枚を重ねて薄い一つの紙片のように見えるよう畳んであった。

 

 

 

 

王宮内の小応接室は、北翼と南翼の渡り廊下に面した小さな部屋だった。

窓は東向きで、午前の光はもう半分を過ぎている。

クラウスは壁際の小机にいた。

 

昨日の予備折衝と同じく、議事録と付属記録を扱う補助係である。

本人としては昨日の議事録を手伝ったので今日も呼ばれたのだろう、くらいの認識だった。

 

出席者はすでに揃っていた。

 

ペンブルック卿。

ロガリア書記官。

ベルヴァーニュ側の係官が一名。

 

王女殿下の侍女であるというマルトは最後に入室した。

年嵩の女で背は高くない。髪を低く結い、手袋は古いが清潔だった。

ペンブルック卿が口を開いた。

 

「本日は、静養中のエレオノーラ第一王女殿下に対し、ロガリア国王陛下の名において弔慰と御見舞いの御言葉をお伝えしたい」

 

卿は手元の紙を一枚開いた。

弔慰の文面は短く、格式に沿っていた。

 

故王への哀悼。

王女への快癒の祈り。

ルサント王国の安寧への祈念。

 

どれも外交上の定型で、危険な語は一つも入っていない。

マルトは黙って聞いていた。

聞き終わると、小さく一礼した。

 

「ありがたくお伝え申し上げます」

 

卿は頷き、穏やかに続けた。

 

「殿下の日々の御様子について、少しだけ伺ってもよろしいかな」

 

マルトは答えた。

 

「殿下はお疲れではございますが、お話もなさいます。お立ちになることもございます」

 

クラウスは議事録の付属記録に書き留めた。

王女殿下、会話可能。起立も可能との侍女証言。

ベルヴァーニュ係官はペンを持ったまま動かなかったが、何も言わなかった。

卿は続けた。

 

「もし殿下より、ロガリア王室あるいは仲介使節団へのお言葉があれば、口頭でも書面でも結構。確かにお受けいたします」

 

ここでマルトは、卿ではなくクラウスの方を見た。

 

「あなたが、ライフェンベルク大尉でしょうか」

 

声をかけられたことに、クラウスは少し驚いた。

 

「はい」

「殿下より、大尉へよろしくお伝えくださいとのことでございました」

「……それは、恐縮です」

 

面識は確かにある。

それにしても唐突で、不思議ではあった。

 

春の演習で、彼は王女を案内した。

葬儀の場でも、言葉を交わした。

だから、完全に不自然というわけではない。

マルトは続けた。

 

「また、殿下より大尉へ御挨拶をお預かりしております」

 

マルトは袖に手を入れた。

ベルヴァーニュ係官の体が動いた。

 

「お待ちください」

係官の声は低かった。

「殿下より連邦軍の士官へ書面とは、宮内庶務を通す手続きが」

 

マルトは手を止めなかった。

ただ、袖から紙を出す速度を少しだけ落とした。

 

「殿下は、先日の演習にて大尉殿より御案内を受けたことを覚えておいでです。これは、その御挨拶でございます」

 

係官は卓に手をついて身を乗り出しかけた。

公的文書なら宮内庶務を通す必要がある。

静養中の殿下から敵国軍人への書面は手続き上問題がある。

その方向で止めるつもりだったのだろう。

 

クラウスは紙片を見た。

それから係官を見た。

少し間があった。

紙片を受け取らずに渡す理由なら作れた。

 

殿下は静養中である。

書面である以上、宮内庶務を通すべきだ。

少なくとも、ベルヴァーニュ係官はそれを望んでいる。

そしてクラウスも、この私信がそう大それたものであるとは思っていない。

 

だが、自分宛だと言って差し出された紙を、目の前の係官へそのまま渡すのはどうにも気が進まなかった。

とはいえ、それだけでは議事録に書けない。

だから理由を探した。

 

「公的文書としては扱えませんが」

 

クラウスは続けた。

 

「私宛の私的な御挨拶として預かります。内容は未確認とし、この場での受領事実のみ議事録の付属記録に残します」

 

係官は口を開きかけた。

彼に向けて、もう一つだけ付け加えた。

 

「御異議があれば、その旨も付記いたしますが」

 

部屋が静まった。

止めれば記録に残る。

王女殿下付き侍女マルトより、ライフェンベルク大尉宛の私的挨拶状一通。

ベルヴァーニュ係官、受領に異議。

私信への異議は見え方が悪い。

王女の挨拶すらベルヴァーニュが止めている、と読まれる。

しかもロガリア使節の目の前である。

たぶんそこまではしないだろう、とクラウスは思っていた。

 

係官は椅子の背に体重をかけ直した。

不満を隠す様子もなかった。

ペンブルック卿は、ここではほとんど何も言わなかった。

ただクラウスの整理が終わった後に、短く頷いた。

 

「王女殿下とも知己がおありでしたか。結構、結構。まさか私信をこの場で検めるような真似はいたしませぬ」

 

マルトはクラウスへ紙片を差し出した。

薄い紙で、小さく折りたたまれている。

裁縫用の型紙の余りのように見えた。

クラウスはそれを受け取ったが、中身は見ずにただ議事録の付属記録に書いた。

 

時刻。午前十時四十二分。

差出人。エレオノーラ第一王女殿下付き古参侍女マルト。

宛先。クラウス・フォン・ライフェンベルク大尉。

件名。御挨拶状一通。

内容未確認。

受領事実のみ記録。

 

それを見て、ペンブルック卿は立ち上がった。

 

「どうも、お手間を取らせました。感謝いたします。王女殿下の御快復をお祈り申し上げます」

 

卿は一礼し、書記官とともに退室した。

マルトも退出し、係官が最後に立ち上がった時、クラウスと目が合った。

 

「大尉殿。その記録は、どこへ」

「議事録の付属記録ですので、仲介使節団と軍団司令部の双方に控えが回ります」

 

係官は何か言いかけて、やめた。

クラウスは小応接室に残った。

手元には、折りたたまれた紙片があった。

 

 

 

 

廊下の角を曲がったところに、小さな書き物台があった。

宮内庶務官が伝言を書く時に使う程度のもので、椅子は一脚、インク壷が一つ。

クラウスはそこで紙片を開いた。

演習や弔列の礼だろうと思っていた。

封璽の日に案を出したことへの短い謝辞かもしれない。

その程度の認識ではあった。

 

折り目を解くと、紙は三枚に分かれた。

どれも小さい。

同じ大きさではない。

 

一枚目は、他の二枚より少しだけ端が荒かった。

裁った紙ではなく、何かの余りを切ったもののように見えた。

 

そこには綺麗な筆跡で、こう書かれていた。

 

"わたくしは、ベルヴァーニュ軍に保護を請願していない。"

 

クラウスは、しばらくその一文を見ていた。

二枚目も同じ筆跡だった。

 

"ロガリア仲介の席において、自ら申し述べることを望む。"

 

読みながら、喉の奥が少し乾いた。

三枚目は、紙の右下に、わずかにインクの濃いところがあった。

一度ペンを止めた跡のようにも見えた。

 

"もしわたくしが出席できぬ時は、その理由を確認されたい。"

その下に署名があった。

"エレオノーラ・ド・ルサント。"

 

クラウスは紙を持ったまま、しばらく動かなかった。

廊下の先を宮内庶務の書記が通り過ぎた。

足音が遠ざかるまで待ってから、もう一度読んだ。

何度読み直しても、字は変わらなかった。

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