面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました 作:濃厚とんこつ豚無双
誰かの名と署名が載った瞬間、紙は急に人間より重くなる。
クラウスは旧税関庁舎へ戻る道すがら、そんなことを考えていた。
内ポケットには、非常に重い三枚の紙片がある。
エレオノーラ第一王女殿下は、ベルヴァーニュ軍に保護を請願していない。
ロガリア仲介の席で、自ら申し述べることを望む。
もし出席できぬ時は、その理由を確認されたい。
文章としては短い。説明もない。感情もほとんどない。
この紙には余計なものが少なすぎる。
だからこそ、強かった。
自分の手元に置いてよい紙ではない。
それだけは分かったが、何をすればよいかまでは分からない。
だが組織にはこういう時に便利な仕組みがある。
分からないものは上官へ報告する。
そして、自分は事実だけを順に並べる。
そういう、たいへん地味でありがたい手順である。
クラウスはヴィルマー中将の執務室の扉の前で一度だけ立ち止まった。
何をどう報告するべきか、頭の中で順を作っていた。
小応接室での出来事までは、事務報告で済む。
問題は、その先である。
クラウスは扉を叩いた。
「入れ」
ヴィルマー中将は、机の上の紙束を読みながら顔を上げた。
「ライフェンベルク大尉、小応接室の件か」
「はい」
「報告を」
クラウスは敬礼し、用意してきた順番通りに報告した。
なるべく余計な解釈を入れない。
なるべく感想も足さない。
ヴィルマー中将は途中で何度か短く頷いたが、口は挟まなかった。
「……以上です。受領事実は、議事録付属記録に残しております。控えはロガリア使節団書記官および軍団司令部へ回付される予定です」
「よろしい」
中将はそう言いかけた。
そこまでは、まだ普通の報告だった。
クラウスは少しだけ息を吸った。
「なお、私信として受領した書面の内容ですが」
ヴィルマー中将の顔が、露骨に嫌なものを見た時の顔になった。
「聞きたくない前置きだな」
「はい。私も、できれば言いたくありません」
「大尉」
「失礼しました」
クラウスは内ポケットから封筒を取り出した。
中身の三枚を机の上へ出す時、妙に指先が乾いた。
ヴィルマー中将は、何も言わずに一枚目を取った。
読み終える。
顔は変わらない。
二枚目を読む。
やはり顔は変わらない。
三枚目を読み、署名のところで目を止めた。
そこではじめて、中将の指がほんの少しだけ動いた。
「これは――まさか拾ったとはいうまいな、大尉」
「こちらを私信として、王女殿下より頂きました」
「素晴らしい交友関係だな。君には何度も驚かされるばかりだ」
クラウスは返答に困った。
流石にここで恐縮ですと言う勇気は無かった。
ヴィルマー中将は三枚をもう一度見た。
「王女殿下本人が、署名入りで保護請願を否定している」
「はい」
「そして受領経緯の記録がある」
「…はい」
中将はしばらく机に突っ伏しそうなほど下を向いて、一度低く唸った。
「受領記録は」
「議事録付属記録に残しております。差出人、宛先、時刻、内容未確認の旨」
「内容は君しか知らないのだな?」
「はい。中身は誰も確認しておりません」
「まあ、その場で開けていれば、君が呑気にここに来られる筈もない、か」
呑気に来たつもりはなかったが、反論はしなかった。
ヴィルマー中将は机上の呼鈴を鳴らした。
入ってきた書記官へ、短く命じる。
「上級大将閣下とメルテンス大佐を呼び戻せ。今日中に。至急だ。ただし理由は書くな。口頭で伝える」
「は」
「それからハルトゥング少佐も」
書記官が出ていくと、中将は新しい封筒を出させた。
三枚の紙片を丁寧に重ね、封筒へ入れて封をする。
最後に封蝋を落とし、自分の指輪で押した。
「大尉」
「はい」
「君はこれを自分の手元に留めておくつもりはなかったな」
「はい。そんな度胸はありません」
「結構。度胸がないことも、時には軍務に資する」
それが褒め言葉なのかどうかは、最後まで分からなかった。
◆
ヴァルテンベルク上級大将が旧税関庁舎へ戻ったのは、午後遅くになってからだった。
メルテンス大佐もほぼ同じ頃に到着した。
ハルトゥング少佐は、二人より少し早く来ていた。
議事録付属記録の控え、ロガリア書記官の受領控え、王宮北翼警備確認別葉、静養室出入り確認簿の写しまで、すでに机の上へ並べている。
窓の外は夕方に近く、サン・ルネの屋根は薄い赤に沈んでいる。
机の中央に封筒が置かれていた。
ヴィルマー中将が封緘を示し、保管記録を読み上げる。
それから封を切った。
ヴァルテンベルク上級大将は、一枚目を黙って読み、二枚目を読み、三枚目で署名を確認した。
何も言わずに、メルテンス大佐へ渡す。
メルテンス大佐も読んだ。
最初はいつもの皮肉めいた微笑だったが、読み終える頃には完全に事務の顔になっていた。
ハルトゥング少佐は最後に受け取り、読み、それから議事録付属記録の控えへ視線を落とした。
「大尉殿」
「はい」
「これを受け取る時、本当にただの私信だと思っていたのですか」
クラウスは答えに詰まった。
確かに本当にただの私信だと思っていたかと問われれば、そうではない。
何かあるとは思った。
だが、ここまでのものだとは思っていなかった。
せいぜい、ベルヴァーニュに隠れてロガリアへ伝えてほしい控えめな言葉程度だと思っていた。
「……いえ、その。何かあるとは思いましたが、ここまでのものとは」
ハルトゥング少佐は、わずかに息を吐いた。
「つまり何かあるとは思ったが、公的文書ではないと判断し、内容未確認のまま私信として受けた」
「……はい」
「その場で開かなかったことだけを褒めておきましょう」
少佐は続ける。
「紙片はライフェンベルク大尉宛の私信です。少なくとも、受領時点の扱いはそうなっている」
彼は付属記録を指で押さえた。
「一方で、受け渡しの事実は議事録付属記録に残っています。ロガリア使節団の書記官もその場にいた。後から、そんな紙は存在しない、と言うことも難しい」
クラウスは困った。
言われてみれば確かにそうなっている。
なっているが、そうしようとしてやったわけではない。
「つまりこの紙の存在は、消せないものになっています。仮に向こうが我々の偽造文であると主張しても、王女殿下に話を聞かないわけにはいかないでしょう」
メルテンス大佐が、ようやく少しだけ笑った。
「さすが大尉殿。まずは敵の逃げ道を塞いだのですね」
「そんな大それたことをした覚えはありません」
「覚えがないのにできているから厄介なのだ」
ヴィルマー中将が疲れた声で言った。
◆
結局のところ、問題は紙片が何であるかではなかった。
どう使うかである。
本協議の場でこの三枚を出せば、ベルヴァーニュの「保護」は崩れる。
王女殿下本人が保護請願を否定している。署名もある。受領経緯も記録されている。しかもロガリア使節団がその受け渡しの場にいた。
メルテンス大佐は、紙片を机の中央に戻しながら言った。
「使えば、保護の名目は崩れます。ベルヴァーニュは王女殿下の請願を掲げて軍を動かした。その請願がない。少なくとも、殿下本人はそう書いている。こちらがこれを出せば、彼らの説明は保ちません」
「いや」
ヴァルテンベルク上級大将が低く言った。
「もう説明を諦めるだろう。面子のために、もう一度撃つ」
誰もそれを大げさとは言わなかった。
コルヴィエール高地で、ノルトマルク軍は勝った。
だが、それはベルヴァーニュ第二帝政そのものに勝ったという意味ではない。
あの国が本気で兵と砲と威信を積み直してくれば、今度は西部諸邦が戦場になる。
しかも今度は王女保護や仲介前の既成事実作りではなく、傷つけられた帝国の面子を回復する戦争になる。
そうなれば、もはや局地戦では済まない。
「これが議会で相手を論破したいだけなら、この紙を振り回せばよい」
ヴィルマー中将が言った。
「たいへん気分はよろしいでしょうな」
メルテンス大佐が続けた。
「ああ。だがその気持ちよさと引き換えの継戦など、ご免被る。巻き込まれるのは西部諸邦だ」
ヴァルテンベルク上級大将の声は低かった。
この紙片は刃である。
刃を抜けば、相手も剣を抜く。
要するにそういうことだろうとクラウスは理解した。
「……仕方ない」
ヴァルテンベルク上級大将が言った。
「連邦評議会宰相府へ連絡する」
その名が出た瞬間、ヴィルマー中将の顔がわずかに歪んだ。
「彼にですか」
「ああ、奴だ」
ヴァルテンベルク上級大将は短く答えた。
クラウスは、その反応を見て理解した。
好かれていないのだな、と。
連邦評議会宰相。ブランデン王国首相。
オスヴァルト・フォン・バルク。
王と評議会のあいだで税と兵と条約を動かす男。
議会を押さえ、諸邦を脅し、時に軍部にも口を出す切れ者。
クラウスが知っているのは、その程度だった。
しかし、この部屋の年長者たちは違うらしい。
能力は認めている。判断も頼りにしている。
だが、好きではない。そういう種類の人間なのだろう。
クラウスは、軍にもそういう人間はたくさんいるな、と隣を見た。
そうの瞬間に少佐がこちらを見たので、急いで目を逸らした。
ただし少佐の場合は、好きになれないというより、好きになるまでに時間がかかるだけかもしれないが。
◆
返電は、日付が変わる前に届いた。
クラウスは小会議室の隅で、議事録付属記録の控えとロガリア側への説明用の草案を整理していた。
そこへ電信手が紙を持ってきた。
「宰相府より返電です」
ヴィルマー中将は、封を切る前に眉を寄せた。
「宰相府に回したのは、何時間前だ」
メルテンス大佐が懐中時計を見た。
「三時間半ほどです」
ヴァルテンベルク上級大将が息を吐いた。
「暇なのか、奴は」
「ええ。暇で暇で、誰がいつ見ても仕事をしておられるそうです」
「それは暇とは言わん」
「宰相閣下は、他人の仕事が遅いから御自分の仕事が増えるのだと考えておいでですので」
誰も笑わなかった。
ヴィルマー中将が封を切る。
中将は一度だけ黙り、それから読み上げた。
"王女私信は受領経緯を明記の上、原本をロガリア仲介使節へ提示せよ。
ベルヴァーニュを断罪せず、退路を示せ。他人の庭を荒らし続ける程、連邦も暇ではない。
なお、今後は王女殿下との私信交換を軍務の慣例とせぬよう注意せよ。 バルク"
「……最後の一文は必要だったのでしょうか」
クラウスが思わず言ってしまった言葉に、ヴァルテンベルク上級大将が鼻を鳴らした。
「バルクが不要な嫌味を削るなら、あいつの仕事量は半分になる」
ハルトゥング少佐が静かに言った。
「判断としては、言葉通りに受け取るしかありません」
「そうだな」
ヴァルテンベルク上級大将が頷く。
「こちらが突きつければ、ベルヴァーニュは面子を失う。ロガリアが扱えば、本人意思確認の問題になる。紙の持ち主が変わるだけで刃の向きも変わる」
メルテンス大佐が整理するように言った。
「ノルトマルクがベルヴァーニュを刺したのではなく、ロガリアが王女殿下の意思を確認する。そういう形です」
「受領経緯を明記の上、というのが重要です」
ハルトゥング少佐が補足した。
「大尉殿が私信として受けたという形は維持した上で、ということでしょう。最初からノルトマルクが公的に受けた文書ではない。だが存在は消せない。ロガリアにとっては扱いやすい」
「ベルヴァーニュも王女殿下の請願そのものを捏造したのではない。ただ、混乱下の安寧確保について現地判断が過ぎた。そういう方向へ逃げられる」
ヴィルマー中将が言った。
「つまり、彼らの顔を完全には潰さない」
クラウスは机上の三枚を見た。
紙片は、ロガリアの机へ置かれるだけ刃ではなくなる。
同じ紙なのに、置かれる机で意味が変わる。
それは自分がいつもやっている欄分けとどこか似ていた。
「そういうことだ、大尉」
ヴァルテンベルク上級大将が言った。
「君が説明しろ」
「私がですか」
「紙の宛先も、受領記録も、小応接室の同席者も、全部君だ。他の誰がやるというのだ」
「……それは、そうですが」
「ペンブルック卿へ、受領経緯を説明する。いつ、誰から、どのような形で渡されたか。なぜその場で開かなかったか。どう記録したか。内容確認後、どのように原本を保全したか。君が言え」
「は」
返事はした。
したが、気は重かった。
「原本はどうしますか」
ハルトゥング少佐が問う。
ヴィルマー中将が答えた。
「私が一時保管した原本を、上級大将閣下の立ち会いで封緘解除する。その上で、受領経緯書を添えてロガリア使節団へ提示する。正本はペンブルック卿へ。写しはノルトマルク側控え。ロガリア側が副本を作るなら、その照合に立ち会う」
「ベルヴァーニュ側への通知は」
「しない」
ヴァルテンベルク上級大将が言った。
「ロガリアが必要と判断した時にする。我々は渡すだけだ。こちらから振り回すな」
「承知しました」
メルテンス大佐が紙を取った。
「では、受領経緯書の草案を作ります。大尉殿、記憶が新しいうちに細部を確認します」
「君がどういうつもりだったかは、正直どうでもよい」
ヴィルマー中将はあまりにも率直に言った。
「必要なのはどう処理したかだ。私信として受け、内容未確認として記録し、内容確認後すぐに上官へ報告した。そこだけ言え」
ハルトゥング少佐がその言葉を受け取って続けた。
「まあ、大尉殿の場合、事実だけで十分に不可解ですが」
クラウスは、少なくとも誰も自分を褒めていないという事だけは理解した。
自分としては本当にただ私信を受け取っただけなのだが、それを誰もが忘れているような気がした。