面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました 作:濃厚とんこつ豚無双
朝、クラウスは王都庁舎二階の小協議室へ呼ばれた。
名目は、王女殿下の紙片を最初に受領した者として、経路確認に立ち会うためである。
小協議室はやや狭い部屋だった。
長卓が一つ、窓は高いところにある。
午前の光は天井に近い壁を白く照らしていたが、卓の上までは届いていなかった。
壁際にロガリア書記官の小机があり、正本用の紙と照合印、席次表が置かれている。
クラウスの席は主卓ではなかった。
壁際に追加された補助机で、議事録の控えを扱える位置にあった。
主たる発言者ではなく、呼ばれた時だけ答える者の場所である。
その方がありがたかった。
クラウスは渡された席次表を見た。
ロガリア。ノルトマルク。ベルヴァーニュ。
その下に、小さな字でエレオノーラ第一王女殿下の名が置かれている。
ようやく表に出られたというのに、そこでも扱いはあからさまだった。
ベルヴァーニュ側は先に着席していた。
首席使節であるアルジュー侯は、主卓の左手に座っている。
礼装は整っていた。
黒の上衣、白い襟、胸元の小綬、磨かれた靴。
どこか一つだけを見れば、いつもの姿だった。
だが、よく見ると違った。
襟元の留め具がわずかに緩い。
手袋の甲に浅い皺が寄っている。
目の下に薄い影があり、口髭の端が整いきっていなかった。
ルサントに来てからずっと忙しいのだろう。
あの人も大変そうだな、とクラウスは思った。
その瞬間、侯の目だけがこちらを見た。
ねめつけるような目だった。
慌てて軽く会釈したが、侯は返さなかった。
紙片を運んだ件で恨まれているのだろうか。
とはいえ自分を恨まれても困る、というのが本音である。
ド・サン=クレール少佐は侯の隣に座っていた。
こちらの姿はいつも通りだった。
ただし、机上の紙の端を親指で少し強く押さえていた。
それが少しだけ印象に残った。
ノルトマルク側には、ヴァルテンベルク上級大将、ヴィルマー中将らが座っていた。
勝ち誇る空気はない。
むしろ皆、いい加減この騒ぎを終わらせたいという顔をしている。
ロガリア側のペンブルック卿は、主卓の中央にいた。
今日も穏やかに見える。
老いた手元は少しだけ震えているが、紙を置く位置に迷いはなかった。
横に立つロガリア書記官は、すでに一枚目の正本用紙を開いている。
王女殿下を除いた、全員が揃っていた。
◆
扉が開いた。
エレオノーラ第一王女殿下が、あの時のマルトと呼ばれた侍女を伴って入室した。
相変わらず黒い喪服姿のままで、顔色はよくなかった。
だが、姿勢は崩れていなかった。
王女殿下は、椅子の背に一度だけ指を置いてから座った。
その動作は優雅というよりも、どこか疲れているように見えた。
彼女が着席するのを見てから、ペンブルック卿が口を開いた。
「本日は、エレオノーラ第一王女殿下御本人の御言葉を、今後の協議に先立ち確認いたします」
ペンブルック卿は、最初にクラウスの方を見た。
「ライフェンベルク大尉。王女殿下よりの紙片について、受領時の経緯に相違はありませんな」
立ち上がる。
椅子の脚が床を小さく擦った。
「はい。王女殿下付き古参侍女マルトより、私宛の私的な御挨拶として受領しました。その場では内容を確認しておりません。受領時刻、差出人、宛先、内容未確認の旨は、議事録付属記録に残しております」
自分がどう思ったかは不要である。
驚いたことも、困ったことも、あの紙がやたら重かったことも、この場には要らない。
そちらの方が楽だった。
覚えたことをそのまま言うのは得意だからだ。
ペンブルック卿は頷き、次にマルトを見た。
「マルト。紙片は、殿下の御意思により、貴女からライフェンベルク大尉へ渡されたものですな」
マルトは一礼した。
「はい。殿下より、私が預かりました」
声は高くない。震えてもいない。
少なくとも、自分よりはよほど落ち着いて見えた。
最後に、ペンブルック卿は王女を見た。
「殿下。この紙片は、御本人の御意思によるものでございますか」
王女は、まっすぐ卿を見ていた。
「はい。わたくしの意思です」
これで紙片はやっと王女殿下のものになった。
ただそれだけのために、これだけの人間と紙と手順が要る。
クラウスは補助机の上で、控え用紙の端を指で押さえた。
何となく、紙がずれそうな気がしたからだ。
ペンブルック卿は続けた。
「では殿下。ベルヴァーニュ軍、またはベルヴァーニュ使節団に対し、御自身の意思として保護を請願された事実はございますか」
部屋が静まった。
全員が答えを知っている。
少なくとも、全員が答えを知っているつもりでいる。
だがそれを本人の口から聞くために、この小さな部屋が用意されたのだ。
王女殿下はすぐには答えなかった。
黒い手袋の指先が、机の縁に置かれている。
一度、ほんのわずかに力が入った。
「いいえ」
声は大きくなかった。
「わたくしは、ベルヴァーニュ軍へ保護を請願しておりません」
アルジュー侯の指が動いた。
ド・サン=クレール少佐のペン先が止まった。
ペンブルック卿が、次の問いを出した。
「では、ベルヴァーニュ側が殿下の安寧を案じた、との説明については、いかがでしょうか」
この問いは先程より危ういとクラウスにも分かった。
請願は、あったか、なかったかで済む。
少なくとも、紙の上ではそう扱える。
だが安寧を案じたかどうかは、相手の心の中の話になる。
心の中の話ほど、紙にしにくいものはない。
王女殿下は少しだけ目を伏せて、すぐに上げた。
「王都は乱れておりました。わたくしが不安でなかったとは申しません」
間があった。
「ですから、ベルヴァーニュの方々が、わたくしの安寧を案じたことまでを虚偽とは申しません」
アルジュー侯が、わずかに息を吐いた。
それは安堵というよりも、不快の仕草のように見えた。
王女は続けた。
「それに、わたくしがそう取られてもおかしくない態度を取ったのかもしれません。父を亡くし、王都も乱れ、わたくしは確かに不安でしたから」
請願はない。
だが、ベルヴァーニュが安寧を案じたことまでは虚偽としない。
つまり王女殿下は、ベルヴァーニュの言葉を全部潰したのではなかった。
ルサントがこの場でベルヴァーニュを糾弾すれば、たぶん別の面倒が起きる。
王女殿下は、それを分かっているのだろう。
ロガリア書記官が、確認された点を読み上げようとした。
「では、エレオノーラ第一王女殿下より、ベルヴァーニュ軍への正式保護請願の事実は確認されず――」
「確認されず、ではありません」
声は大きくなかった。
だが、部屋は止まった。
ロガリア書記官のペンが止まる。
ペンブルック卿の目が、初めて少しだけ王女へ深く向いた。
アルジュー侯の顔は動かず、ド・サン=クレール少佐だけが、ほんのわずかに顎を引いた。
「わたくしは、請願しておりません」
そこで一度、机の縁に置かれていた黒い指先が離れた。
「そこは、お間違いないように」
確認されず、ではどこかに余白が残る。
探せなかったのかもしれない。まだ出ていないだけかもしれない。別の紙にはあるかもしれない。
請願しておりません、なら王女殿下自身の言葉になる。
この人は、この場で自分の言葉を喋ろうとしているのだ。
ペンブルック卿はすぐには言葉を返さなかった。
感心も、称賛も、慰めもない。
ただ少しだけ間を置き、書記官へ言った。
「失礼いたしました。君、文言を改めなさい」
「はい」
書記官が紙を差し替え、修正用の線を引く。
ペン先が紙を擦る音が、小協議室の中でやけにはっきり聞こえた。
王女殿下はもう何も言わなかった。
訂正すべきところは訂正した、という姿勢だった。
少し遅れて、アルジュー侯が口を開いた。
「……ベルヴァーニュは、殿下の御安全を案じたにすぎません」
声は疲れていて、いつもの磨かれた滑らかさは失われていた。
ド・サン=クレール少佐が、低い声で補った。
「使節団としては、殿下の御静養の措置は、王都混乱下における安寧確保を目的としたものであった、との理解です」
ペンブルック卿は同意も否定しなかった。
「その旨、記録いたします」
ロガリア書記官が、修正後の確認文を淡々と読み上げた。
エレオノーラ第一王女殿下は、ベルヴァーニュ軍への保護請願を明確に否定されたこと。
王女殿下は、王都混乱下における自身の不安を認められたこと。
ベルヴァーニュ側は、王女殿下の安寧確保を意図した暫定措置であったと述べたこと。
言葉が、少しずつ席に収まっていく。
クラウスはその文章を聞きながら、さきほど王女が残した道へ、ベルヴァーニュ側が自分から入っていくのを見ていた。
「この記録で、差し支えございませんかな」
ペンブルック卿が尋ねた言葉に、アルジュー侯はすぐに答えなかった。
ド・サン=クレール少佐が何か言いたげに見たが、それでも侯は返事をしなかった。
ややあって、少佐が短く言った。
「ベルヴァーニュ側として、異議はありません」
侯はそれを否定しなかった。
ペンブルック卿は、次の紙へ目を移した。
「殿下」
王女殿下が顔を上げる。
「今後のルサント王国の安寧、継承、ならびに列国保障に関する協議に、御本人として臨席なさる御意思はございますか」
ここで、王女殿下はすぐに答えなかった。
さきほどよりも、間が長い。
クラウスは、これは先ほどより辛い返事なのだろうと思った。
ルサント王国の安寧と継承、そして列国の保障。
どれも立派な言葉だ。
だが要するに、それは大国の机の上でルサントの形が決められるということでもある。
おそらく王女殿下の意思などお構いなしに。
そこに座るのか、と問われている。
黒い手袋の指が、机の縁から少し浮いた。
王女の喉が、一度だけ小さく動いた。
声を出す前に、息の方が先に止まったように見えた。
「……あります」
それから、少し置いた。
「我が国の名が、その席で扱われるのでしたら。せめて、ルサントの者が一人は座っているべきでしょう」
ペンブルック卿は頷いた。
「では、殿下の御臨席を、次回以降の協議席次に加えます」
ヴァルテンベルク上級大将が、ここで初めて口を開いた。
「ノルトマルク連邦は、ロガリア仲介の下における王女殿下御本人の意思確認、ならびに王都警備権限の整理を支持いたします」
それだけだった。
ただ、王女本人の意思確認と、警備権限の整理を支持する。
連邦側としても、ここから先はそういう形で進めるという確認だった。
クラウスは、自分が運んだ紙が随分大事になったな、と思った。
とはいえ、運ばなかったら何も起きなかったのかと言われると、それも違う気がした。
王女殿下なら別の道を探しただろうし、ペンブルック卿なら別の案を拾ったかもしれない。
結局、自分はその通り道にいただけなのだろう。
そう思うことにして、クラウスは議事録へと視線を戻した。
ペンブルック卿が、最後に全体を見渡した。
「本日の確認は以上です。詳細文言は、ロガリア書記官より各代表へ副本を回付いたします。御異議は副本受領後、速やかに申し出られたい」
誰も異議を述べなかった。
それが、この場の結論だった。
◆
しばらくして、協議は散会となった。
王女殿下が立ち上がる。
その瞬間、ほんの少しだけ体が揺れた。
大きくよろめいたわけではないが、今まで真っ直ぐだった線が、一瞬だけ崩れたような姿だった。
マルトがすぐに傍へ寄った。
支えるというほど大げさではなく、ただ近くに立つ。
王女はそれを拒まなかった。
ペンブルック卿が言った。
「殿下、お疲れでしょう」
王女は少しだけ卿を見た。
「ええ」
その返事だけは、とても素直だった。
王女はマルトを伴って退室した。
アルジュー侯は、退出の前に誰にともなく一礼した。
礼そのものはきちんとしていた。
けれどそのきちんとした礼の方が、かえって疲れて見えた。
ド・サン=クレール少佐は、覚書の副本を受け取るために一歩遅れて立った。
表情は動かなかったが、紙の端だけがわずかに揃っていなかった。
クラウスはまだ立ち上がらず、壁際の小机で議事録の控えを揃えていた。
自分の仕事は、まだ少し残っている。
散会の後が、書類にとっては始まりである。
ロガリア書記官が席次表に手を入れていた。
ロガリア。
ノルトマルク。
ベルヴァーニュ。
その三つの代表者一覧の下、臨席者の欄に小さく線を引いて、新しい名を書き入れていく。
エレオノーラ・ド・ルサント第一王女殿下。
クラウスは何となく、それを見ていた。