面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました   作:濃厚とんこつ豚無双

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第三十九話 アヴァロン条約

本人確認の協議が終わってから、一週間あまりが経った。

 

クラウスの手元には紙が積まれている。

ただし、今度の紙は知っている種類の紙だった。

 

負傷兵の後送名簿。捕虜移送の確認票。補給路復旧にかかるルサント鉄路局への照会文。

それから、どの部署の負担で処理するのか最後まで誰も書きたがらない、臨時の追加糧食請求書。

 

最後の請求書は、宛先欄だけが空白だった。

食べた人間がいる以上どこかが払うしかないのだが、どこの予算に入れるかでここまでの抵抗を見せる。

せめて食べる前に決めてくれ、と思いながら、黙って統帥府付の予算としておいた。

だいたいこれが誰も揉めない方法であった。

 

本協議は王都庁舎の別の部屋で続いている。

だがクラウスの椅子は、もうその部屋にはなかった。

それは純粋にありがたかった。

 

誰の意思か分からない紙片よりも、負傷兵名簿の方がずっと優しい。

クラウスは捕虜名簿の綴りを一つ直し、鉄路局への照会文に日付を入れた。

 

 

 

 

その日の午前遅く、ロガリア書記官が厚い紙束を持ってきた。

 

「ライフェンベルク大尉、こちらをノルトマルク側控えへ」

 

いつもの書記官だった。

照合印の押された正規の副本で、宛先はノルトマルク連邦側代表。

クラウスの仕事はこれを受領し、控えの番号を振り、連邦側の法務顧問と外務省連絡官へ回すことだ。

 

受領印を押した。

表紙に目が行った。

 

『ルサント王国中立及び列国保障に関する予備合意草案』

 

本協議で完成した草案のようだった。

付記事項を見ると、正式な署名はロガリア連合王国の首都アヴァロンで後日行われるらしい。

なぜロガリア人は、いつも大陸で揉めた紙を最後には自分たちの首都へ持ち帰って署名させたがるのだろうか。

 

もちろん、そういうことを口にする相手も資格もない。

黙って控え番号を振ればいい。それを整えるために、最初の数条へ目を通した。

 

第一条。ベルヴァーニュ帝国、ノルトマルク連邦、ロガリア連合王国は、ルサント王国の独立及び中立を相互に保障する。

 

第二条。ルサント王国は、いずれの外国軍にも恒常的駐留権、要塞使用権、独占的軍事通行権を認めない。

 

第三条。ただしルサント政府は、自国の安全、鉄道保全、国際交通維持のため、期間・路線・兵数を明記した一時的軍事通行、鉄路使用、補給通過を許可することができる。

 

第四条。ルサント王国は王位継承法を再制定し、直系継承における性別の制限を撤廃する。三国は、現王家直系第一王女エレオノーラ・ド・ルサントの王位継承を承認する。

 

条文はまだ続いたが、控えの番号を振るだけなら冒頭で十分だった。

 

どうやらルサントは、昨日までのルサントではなくなったらしい。

少なくとも紙の上では、三国の保障を受ける中立国になり、王女殿下が正式に王位を継ぐことになる。

 

この一枚で、ルサントが急に自分の運命を自由に選べる国になるわけでもない。

ただ、昨日までより、どこかの国が手を出すのは少し難しくなったのだろう。

クラウスは副本の末尾に控え番号を書き、法務顧問の名前を宛先欄に記入した。

それだけの仕事だった。

 

条約が決まったことは、彼が関与した何かではない。

彼の頭の上を通り過ぎていく出来事であり、通り過ぎた後に副本が降りてきて番号を振る。

それが自分の仕事だった。

 

 

 

 

数日後、本協議が一段落した空気が庁舎に流れた。

その廊下を通ったのは、昼食を終えた帰りに机へ戻ろうとしていた時だった。

 

廊下に人が動いている。

ロガリア書記官が紙束を抱えて角を曲がり、ノルトマルク側の法務顧問が外務省連絡官と立ち話をしていた。

声の端に細かい文言の話が聞こえた。

第四条の「再制定」は「改定」ではないか、いや王位継承法の性質上は再制定でなければならない、というような話である。

 

ベルヴァーニュ側随員の声は、以前よりも少しだけ小さかった。

彼らが声を落としているのか、それとも人数が減ったのかは分からなかった。

 

 

「ライフェンベルク大尉」

 

振り向くと、ド・サン=クレール少佐が廊下の壁際にいた。

いつものようにまっすぐ立っている。

礼装は崩れていない。

ただ、どこかいつもの場面とは違った。

手に紙を持っていなかった。

この敵国少佐が手ぶらで廊下に立っているのを見たことは、あまりない。

 

「……サン=クレール少佐殿、どういたしましたか」

 

少佐はほんの少し間を置いた。

 

「いえ。明日、本国へ召還されることが決まりまして」

声はいつものように平らだったが、少しだけ感情がこもっているように聞こえた。

「しばらくお目にかかる機会もないでしょうから、ご挨拶です」

 

しかし、どう見てもその顔は気軽に挨拶をしに来た人間の顔ではなかった。

怒っているのでもなく、笑っているのでもない。

少なくとも、別れを惜しむなどという気持ちはなさそうだった。

 

「それは……どうも」

気の利いた返事ではなかったが、この少佐に対して気の利いた返事を思いつく自信はなかった。

というより、なんと返せばいいか本当に分からなかった。

 

「こちらこそ」

少佐は短く頷いた。

「本国には、あなたのことをありのままに報告させていただきます」

 

さらに困惑した。

その発言について何と言うべきか、全く分からなかったからだ。

 

「ありのまま、ですか」

「ええ。あったことを、あった順に」

 

自分が何か報告されるようなことをしただろうか。

紙を運んだ。会議に座った。記録をとった。

どれも自分の仕事の範囲であり、報告に値するような話ではないはずだった。

しいて言うならば王女殿下の私信の件くらいだろうが、それもやったのは王女殿下自身であり、自分は巻き込まれただけである。

 

「……ええと、なぜそれを私に」

 

少佐は、ほんのわずかに顎を引いた。

「私も結局、あなたを読み切れていなかったからです」

「読み切る、とは」

 

「どこまでが偶然で、どこまでがあなたの意図かわからないのですから、事実を並べる他にありません」

一瞬だけ間があった。

「…そしてその報告を本国がどう読むかまでは、私の責任ではありません」

 

その言葉を聞いて、何か嫌な約束をされたような気がした。

だが何を約束されたのか、まだ分からなかった。

 

「申し訳ありません、ちょっと……」

クラウスは正直に困ったことを隠さなかった。

ここで「ああそうですね」などと適当に済ませると、後々もっと面倒になりそうな気がした。

「仰っていることの意味が、よく」

 

目が、ほんの一瞬だけ動いた。

その一瞬だけ渋い表情を浮かべたように見えたが、すぐに戻った。

 

「その態度すらも、疑ってしまうのですが」

少佐は、そこでほんの少しだけ息を吐いた。

「……まあ、ご健勝をお祈りいたします、大尉殿」

 

そう言って、一礼した。

礼はきちんとしていた。

敵国の将校に対する、ベルヴァーニュ軍士官として過不足のない礼だった。

 

それから背を向けて歩き始めた。

靴音が廊下の石に響き、角を曲がるまで同じ速度だった。

 

クラウスは少しの間、廊下に残った。

 

ありのままに報告されて困ることは、たぶんないはずだった。

自分は自分の仕事をしただけだからだ。

だが少佐の声には、ただの挨拶にはない硬さがあった。

 

そして、あったことをあった順に並べる。

その言い方だけが、どうにも平穏ではなかった。

 

 

 

 

机に戻ろうとして、十歩も歩かないうちにまた声がかかった。

 

「ライフェンベルク大尉」

 

今度はペンブルック卿だった。

書記官ではなく、卿本人が廊下に立っていた。

 

白い髭といつもの穏やかな顔。

どう見ても、外交官ではなく田舎の老紳士にしか見えない。

 

「はい」

「明日の午後、少しお時間をいただけますかな」

 

クラウスは、協議関連の呼び出しかと思った。

もう控えの照合は終わっているが、何か追加の確認事項があるのかもしれない。

 

「協議でしょうか」

「いいえ」

 

卿はほんの少し首を傾けた。

 

「お茶をご一緒にどうかと」

一瞬、意味が取れなかった。

 

「どなたがご同席を」

「私だけです」

 

クラウスは、まだ少し分かっていなかった。

 

「卿お一人で、私とですか」

「ええ。サー・エドマンド・ペンブルック個人として、ライフェンベルク大尉と」

 

命令ではなかった。

だが、ロガリア仲介使節団首席からの個人的招待を、一介の大尉が断れる道理はない。

 

「……光栄に存じます」

 

卿は満足そうに頷いた。

「では、明日の午後に」

 

それだけ言って、卿は廊下の先へ歩いていった。

クラウスはしばらく立っていた。

 

草案は決まった。

本調印はアヴァロンで後日。

本協議も、おそらくもう長くはない。

自分の仕事もじきに終わり、グランツェル統帥府の本来の机へ戻れるはずだった。

 

なぜそんな時に、あの人は自分を紅茶に誘うのだろうか。

 

考えても分からなかったので、クラウスは机に戻った。

机上の糧食請求書の数字が一行ずれていた。

世界もこのくらい分かりやすければ親切なのにな、と思った。

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