面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました   作:濃厚とんこつ豚無双

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第四十話 二杯目の紅茶

翌日の午後、クラウスはロガリア使節団が使っている王都庁舎内の臨時執務室へ向かっていた。

 

廊下には、まだ協議の匂いが残っている。

まだ終わってはいない。ただ、大きなところだけは紙に収まりつつある。

そういう弛緩した空気だった。

 

クラウスは歩きながら、前日のペンブルック卿の招待を思い返していた。

 

サー・エドマンド・ペンブルック個人として。

これが困る。

上官に呼ばれるなら、まだ処理しやすい。

命令、叱責、確認、新しい雑務のいずれかである。

その後に自分の気分が沈むことはあるかもしれないが、言ってしまえばそれだけで済む。

 

だが他国の老外交官から個人的に紅茶へ呼ばれるなど、どう扱えばよいのか分からない。

もちろん断りたかったが、断った場合にどんな紙が後から増えるのかを思うと、それを言う勇気はなかった。

 

 

 

 

ペンブルック卿の臨時執務室は、大げさな部屋ではなかった。

卓には白い陶器のポット、二つのカップ、小さな皿に焼き菓子が少しだけ置かれていた。

 

クラウスを見て、ペンブルック卿は立ち上がった。

「お越しいただきありがとうございます、大尉」

 

クラウスは礼をした。

「お招きいただき、光栄に存じます」

 

卿は少しだけ笑った。

「光栄と言われるほどの席ではありません。今日は、私が君と話したかっただけです」

 

クラウスはそれに返事を探したが、見つからなかったので曖昧に頷いた。

卿はそれを気にした様子もなく、自分でポットを傾けてクラウスの前に紅茶を置いた。

 

「どうぞ。大陸の方には、少々濃く感じられるかもしれませんが」

「いただきます」

 

口をつけると、味は好みだった。

ただ、それをゆっくり味わう余裕はあまりなかった。

 

「私はサン・ルネへ来る前から、君と一度話すつもりでした」

「私と、ですか」

「ええ。もっと正確に言えば、ライフェンベルクの名を持つ若い大尉と、です」

 

よく意味が分からなかった。

卿はゆっくりとカップを持ち上げた。

 

「以前申し上げましたな。ライフェンベルクは、我が家と少し縁があるのです」

「ええ、お伺いしましたが……どのような縁が?」

「ペンブルック家では、君の家名は少しばかり古い泥を連れてくるのです」

 

卿は紅茶を一口飲み、カップを戻した。

 

「私はその話を何度も聞かされました」

「……はあ」

「もっとも、美談としてではありません。祖父は、ライフェンベルクを褒めていたわけではない。むしろ、いつも文句を言っていたそうです」

 

少しだけ姿勢を正した。

まさか先祖への文句を聞かされるために呼ばれたのかと思ったからだ。

卿は微笑みを浮かべたまま、どこか古い声をなぞるように言った。

 

「『礼儀を知らん若造だった。こちらが礼を言う前に、もう馬を進めておった。名乗りもせん。水だけ寄越して去った』」

少し間を置いた。

「…後に名だけは分かったそうです。フリードリヒ・フォン・ライフェンベルク。祖父は、その名をどうにも腹立たしそうに書き残しておりました」

 

その名には覚えがあった。

クラウスは、アウエンホーフの屋敷に掛けられていた肖像画を思い出した。

痩せた顔。硬い口元。確かに愛想のよい顔ではなかった。

 

「……私の曾祖父のことでしょうか」

「ええ」

 

卿は頷いた。

 

「祖父は泥の中で左脚を負傷し、敵兵が近づいていた。そこへノルトマルク騎兵が通りかかった。若い指揮官が馬を止め、短く部下へ命じて祖父を引き上げさせた。水筒を渡し『飲め、ロガリア人』とだけ言って去った。祖父の従軍誌には、そう残っています」

 

紅茶のカップを少しだけ持ち上げかけて、また置いた。

何をどう返せばいいのか、まるで分からなかった。

 

「……それは、失礼を」

 

「いえ。君が謝ることではありません。祖父も、助けられたこと自体に文句を言えたわけではないでしょう、けれど書き残さずにはいられなかった」

卿は少しだけ目元を緩めた。

「『助けられた。だから腹が立つのだ。死にかけている男へあれほど偉そうに水筒を寄越す奴があるか』――と」

 

それは、恩義なのか苦情なのか分からない話だった。

だがそれを文句の形で何度も語ったという時点で、ペンブルック家にとってはただの昔話ではなかったのだろうとも思う。

卿は、卓の端に置いてあった薄い冊子へ一度だけ視線を落とした。

革の表紙は古く、角が擦れて白くなっている。

 

「レオポルト伯にもお会いしたことはありますが」

卿は、そこで話を変えた。

 

「彼も無口なお方でしたな」

「……まあ、祖父は確かにあまりしゃべる方ではありませんね」

「私が祖父の昔話を申し上げても、最後までほとんど表情を変えませんでした」

「それは……そうでしょうね」

 

祖父なら確かにそうだろう。

面白がるでも、恐縮するでも、否定するでもなく、ただ聞いている。

たぶんそういう顔をしたはずだ。

 

「どうにも、ライフェンベルク家は多くを語らぬことが家訓のようですな」

「……それは、そういうわけでは」

 

否定はしたが、思い当たる節しかなかった。

曾祖父フリードリヒは、泥の中で死にかけたロガリア人へ水筒だけを寄越して去ったらしい。

祖父レオポルトが大きく表情を変えたところも、声を荒げるところも見たことがない。

父エルンストもそうだった。怒鳴りはしない。弁解もしない。

ただ必要なことだけを言い、それ以上を言わない人だった。

 

なぜライフェンベルクの家系は黙りたがるのか、クラウスには分からない。

自分とてあまり喋る方ではないが、少なくとも自分の場合は祖父や父とは理由が違う。

彼らの沈黙は性格や矜持から来るものだったのかもしれない。

けれど自分の沈黙は、たいてい言うことがないか、余計なことを言って面倒を増やしたくないからである。

ただ外から見れば、それが同じように見えるのかもしれない。

そこは否定しきれなかった。

 

卿は深追いしなかった。

「ええ、そう仰ると思いました」

 

話の行き先が見えず、少し迷ってから訊いた。

 

「なぜ、私にその話を?」

「老人は昔話が好きなものです。それも若者相手ともなれば、なおさら」

 

その答えは答えになっているようで、なっていない気もした。

卿は続けた。

 

「私はルサントを見に来ました。ベルヴァーニュを止め、ノルトマルクを勝ちすぎさせず、ロガリアの望む均衡へ事態を押し戻すために来た」

クラウスは黙って聞いた。

「そしてそのついでに、ライフェンベルクという名を持つ若い大尉に紅茶を一杯出そうと思っていた。昔話と共に。ここまでは老人の悪い癖です」

 

卿は、空になりかけた自分の手元のカップへ目を落とした。

それからポットを手に取り、二杯目が注がれた。

一杯目より、少し濃く見えた。

 

「けれどここからは、サン・ルネへ来る前には話すつもりのなかったことです」

卿はカップを置きながら言った。

「君は、私の予想よりも少しばかり厄介でした。意図していたか、していなかったかは別として」

「私はただ、自分の仕事を面倒のない形で処理しようとしただけです」

「外交では、しばしばそれを正しい判断と呼ぶことがあるのです」

 

そこで少しだけ黙った。

褒められているとは思えなかった。

少なくとも、素直に礼を言う種類の言葉ではない。

 

「……もし王女殿下からの私信のことをおっしゃっているのであれば、あれは私宛だと言われた紙を公的文書として扱えなかっただけです。ですから受領した事実と、内容未確認であることだけを記録に残しました。その後については、上官たちの判断に従ったに過ぎません」

 

言いながら、自分でも弁解じみていると思った。

だが弁解ではなく事実だった。少なくとも、そうとしか言いようがない。

 

卿は紅茶のカップへ視線を落とした。

白い陶器の縁に、薄い茶色の線が残っている。

 

「ええ。真実がそうなのだとしても」

「真実というよりも、それが事実なのです。なぜか誰も分かってくれないだけで」

 

思ったより早く口が出た。

言ってから、少しまずかったかと思った。

だが卿は怒らなかった。

 

「失礼。では、そうなのだとしても」

むしろ、ほんの少しだけ目元を緩めた。

「記録には君が考えていたことは残りません。残るのは、君の行為の結果です」

 

訂正されたのに、何も軽くなっていなかった。

 

「……しかし」

「後から読む者は、その空白を自分の都合で埋めるのです」

 

クラウスはそれに、昨日の廊下でサン=クレール少佐が言った言葉を思い出した。

 

「……ありのまま、ですか」

小さくそう言うと、ペンブルック卿は紅茶を置いた。

 

「ええ。ありのままほど、厄介なものはありません」

 

そこで少し間があった。

廊下の向こうを、誰かが通った。靴音はすぐに遠ざかった。

 

「君がいなくても、別の道はあったでしょう。ロガリアはロガリアの道を探したはずです。ですが君がいたために、あの紙はあの形で席へ出てきた。その事実だけは消せません」

「それは私以外でも――」

「君が本当に何もしなかったという"もし"は、もう誰にも見ることができないのです」

 

卿は、二杯目の紅茶にはまだ手をつけていなかった。

 

「ロガリアは、小国の涙だけで汽船を出す国ではありません」

声は穏やかだった。

「ルサントをベルヴァーニュに食わせるわけにも、ノルトマルクに抱え込ませるわけにもいかない。王女殿下を席に戻すことは、ルサントのためでもあり、大陸秩序のためでもありました」

 

それは、まったく正しい言い方なのだろう。

そして、あまり優しくない。

この老人は親切なだけではない。

いや、親切ではあるのだろうが、その親切はロガリアの都合ときれいに重なっている。

 

「君が望むかどうかとは別に、君は今後も似た場所へ立たされるでしょう」

「……似た場所、ですか」

「ええ。誰かの言葉と、誰かの記録と、誰かの都合が、同じ卓に載る場所です」

 

クラウスは、ますます困った。

なぜだか本当にそうなる未来が見えたからだ。

 

「では、私はどうすれば」

 

「後から読まれるものがあると知っておくことです」

卿は少しだけ考えてから、付け加えた。

「自覚しないことは時に、君の言う面倒をさらに増やすかもしれません」

 

声は穏やかだったが、内容は冷たかった。

だが、不思議と嫌味には聞こえなかった。

 

卿は、卓の上の古い冊子を開いた。

薄い紙の端が、乾いた音を立てた。

 

「祖父が文句を言いながら何度も語った理由が、少し分かる気がします」

「何がでしょうか」

「従軍誌には、水筒の革紐が切れかけていたとまで書いてあります」

卿は頁を指先で押さえた。

「命を救われたことより、案外そちらの方が紙には残るのです」

「……そういうものですか」

「ええ、そういうものです。君は想像とは少し違いました。けれど、やはりライフェンベルクでしたな」

「それは……」

「まあ、祖父なら怒るかもしれません。あの家の若者のくせに覇気がない、と」

 

卿はそこで少しだけ笑って、カップへ手を伸ばした。

飲む前に、もう一度だけクラウスを見た。

 

「どうか、ロガリアの敵として君の名を読む日が来ないことを願います」

 

返事は出てこなかった。

曖昧に頷くこともできなかった。

 

卿は古い冊子を閉じ、薄い紙が中で小さく鳴った。

クラウスの前の二杯目は、まだ半分以上残っている。

話に答えることを考えているうちに、手をつけそびれていた。

湯気はもうほとんど立っていない。

 

せめて何かを返すべきだと思ったが、やはり言葉は見つからなかった。

 

卿はそれを急かさず、古い冊子の留め紐をゆっくり結んだ。

クラウスは、冷めた紅茶に今さら口をつける。

渋かったが、礼を失さないようになるべく急いで飲み干した。

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