面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました 作:濃厚とんこつ豚無双
統暦七十二年、九月下旬。
クラウスの帰任がようやく決まった。
旧税関庁舎の執務室は、半分ほど空になっている。
書類箱は廊下に積まれ、かつて掛けられていた作戦図の跡だけが、日に焼けず四角く白く残っていた。
残った机の上にあるのは、捕虜移送の控えや負傷兵後送名簿。
停戦線だの王位継承だの列国保障だのという大きすぎる紙は、もうここにはない。
めくれば終わりの見える紙ばかりだった。
帰任命令はその日の朝、定期便の文書束に混ざって届いた。
統帥府第三課への復帰。ライフェンベルク大尉は数日以内に引継ぎを終え、当地を発すべし。
それだけの短い紙だった。クラウスは立ったまま二度読み、椅子に座ってもう一度読んだ。
三度読んでも文面は変わらなかった。
よし、と小さく声に出してから、誰にも聞かれていないことを確かめた。
◆
昼を回った頃、ルサント宮内省の使者が訪れた。若い庶務官で、礼は折り目正しかった。
「ライフェンベルク大尉。エレオノーラ第一王女殿下より、短時間の御面会を望まれております」
「私に、ですか」
「はい。御帰任の前に、一度お言葉を交わしたいとの仰せです」
答えるまでに、少し間が空いた。
断る言葉を探したのではない。探しても無駄だと理解するのに、それだけ掛かったのだ。
「……謹んでお受けすると、お伝えください」
使者が退出し、扉が閉まる。最初に口を開いたのはメルテンス大佐だった。
「大尉殿。王女殿下との私信の交換を軍務の慣例になさらぬよう、宰相府から注意があったはずですが」
ハルトゥング少佐は、手元の名簿から顔を上げなかった。
「いえ、私信ではなく正式な御呼出しです。悪化していますね」
大佐が、声を立てずに笑った。
「見事に学習されましたな、少佐」
「教材が多いのでしょう」
クラウスは二人を順に見た。
この人たちは、本当に楽しそうに人の不幸を処理する。
「よろしければ、ご同席いただいても構いませんが」
「とんでもない。我々は呼ばれておりませんので」
「ええ、大尉殿への御招待です」
ヴィルマー中将が、呆れた声で結論を出した。
「さっさと行ってこい、大尉。断る方が面倒だ」
「……承知しました」
「ただし、今回は何か渡される前に用途を確認しろ――いや、そもそも受け取るな」
何か返す前に、中将は書類へ戻っていた。
それがこの人たちなりの見送りなのだろう。
そんなにありがたくもなかったけれど、戦の空気が薄くなったことだけは実感できた。
◆
王宮までは歩いた。
歩ける距離だったし、最後にこの街を見ておきたい気も少しだけあった。
サン・ルネは、まだ傷んでいた。
釘付けにされたままの店の鎧戸。半分だけ品の戻った市場。
硝子屋の荷車が割れた窓の前に停まり、職人が枠の寸法を測っていた。
古い布告の上には秋の市の告知が重ね貼りされ、紙の端で糊がまだ光っている。
荷運橋には、多くの人が行き交っていた。
あそこで小規模な戦闘があった日のことなど、誰もがもう忘れているようだった。
◆
案内されたのは、王宮北翼の小応接室だった。
奇しくも、あの紙片を預かった部屋であった。
これが意図なら、少し性格が悪い。
扉は開け放たれたままで、歩哨は廊下の側に立っていた。
部屋は質素だった。
卓と椅子、壁の燭台、隅にひとつ花瓶。卓の上には何もない。長い話をする部屋ではないらしかった。
もちろん、紅茶の用意がある方が嫌ではあるのだが。
マルトは入口に近い壁際に控えていた。
形だけは二人きりではないが、話の中身までは拾えない距離である。
王女殿下は窓辺に立っていた。喪服は替えられている。
演習で見た時のような姿に近かった。
相変わらず元気には見えなかったが、それでも顔色は本人確認の協議で見た時よりいくらか戻っていた。
「お招きに与り光栄です、殿下」
「こちらこそ、またお会いできてうれしく思います、大尉。急なお呼び立てで申し訳ございません。まもなくグランツェルへお戻りになると伺いましたので」
「はい。数日のうちには帰ります」
「その前に、一度お話ししておきたかったのです」
「恐れ入ります」
「お戻りは、汽車ですか?」
「はい。鉄路が開きましたので。国境で一度乗り換えて、おおよそ二日です」
「二日も」
「接続が良ければ一日と半日。悪ければ三日です。国境駅の連絡は、夜の便が一本飛びますので」
つい余計なところまで答えたが、殿下は咎めなかった。
「お詳しいのですね」
「時刻表は、答えが一つで済みますので」
殿下の口元がわずかに動いた。
それきり、雑談の種は尽きた。
短い沈黙が落ちる。
どうせ、もう会うことのない相手だった。
それなら、聞いておいてもいいのかもしれない。
ずっと喉の奥に残っていた問いを、クラウスは出すことにした。
「ひとつ、伺ってもよろしいでしょうか」
「なんなりと」
「なぜ、私にあの紙を」
殿下は、すぐには答えなかった。
「紙片を渡す相手は、私でなくても良かったはずです」
窓の外で、馬車の車輪が石畳を擦る音がした。
部屋の隅の花瓶では、白い花の縁がわずかに茶色く傷んでいた。
「あなたなら、適切に扱えると思いましたので」
「適切に、ですか」
「ええ」
殿下は、そこでクラウスを真っすぐに見た。
「読まずに捨てることも、読んだ上で利用なさることも、どちらもなさらない方だと思いましたから」
返す言葉を探したが、何と言うべきかわからなかった。
目を伏せる。磨かれた床板に、自分の靴先と、殿下の黒い裾だけが映っている。
「わたくしは――いいえ、ルサントは、クラウス・フォン・ライフェンベルクへの恩を忘れません」
ありがたい、とはすぐに思えなかった。
どちらかといえば、余計な物を背負わされた感覚に近かった。
「……ノルトマルクでも、ライフェンベルクでもなく、私に、ですか」
「ええ。家も国も、約束する相手としては長生きすぎますから」
「……恐縮――」
「いつものそれはなしです。大尉」
反射的に出かけた便利な語を、殿下は遮った。
「あなたの言葉で、お聞かせください」
今度はすぐに思い浮かばなかった。
廊下の向こうで、誰かが書類箱を床に置く音がした。
自分の言葉で、と言われると少し困る。
言い訳をしてきた。恐縮をしてきた。黙ってきた。
そのあいだ言わなかったことの中身は、いつも誰かが勝手に決めた。
なるほど、たまには本音を話してもいいのかもしれない。こんな時くらいは。
「では、率直に申し上げます」
「はい」
「それは面倒です。ええ、とても」
◆
後年、軍史家たちがクラウス・フォン・ライフェンベルクの名を語る時、公的な軍歴の端緒として挙げるのは、ノルトマルク連邦軍に残る一件の叙勲記録である。
統暦七十二年八月、コルヴィエール会戦における伝令任務および戦場勤務をもって、一人の大尉が勲章を受けた、とある。
その功績欄は簡素だった。
敵砲火下における命令伝達。第一師団司令部との連絡回復。戦線維持への寄与。
それ以上のことは書かれていない。
授与に際して本人が何を述べたか、あるいは何も述べなかったのか、それを伝える記録もない。
だが、ベルヴァーニュに残る記録では事情が違う。
後年『ルサント継承戦争』と呼ばれることになる一連の出来事を、それらの紙は最後まで『危機』としか呼んでいない。
戦争省に回付された複数の報告書。
使節団書記局の控え。
当時の首席使節アルジュー侯爵の私信。
ド・サン=クレール少佐の補足意見。
後に帝国議会の調査委員会で参照された、ルサント危機関連文書の一群。
作成された時期も、書き手の立場も、宛先もばらばらである。
その記述は細部で食い違い、評価に至っては正反対のものさえ並ぶ。
それでも、多くの紙に同じ姓が繰り返し現れる。
ライフェンベルク。
のちに「沈黙の天才参謀」と呼ばれる、最初の外形である。
【第一部 ルサント継承戦争編 了】
みなさま、いつも読んでいただきありがとうございます。
評価や感想、とてもありがたく受け取っております。
これからもお付き合いいただければ幸いです。