面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました   作:濃厚とんこつ豚無双

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エピローグ

統暦七十二年、九月下旬。

クラウスの帰任がようやく決まった。

 

旧税関庁舎の執務室は、半分ほど空になっている。

書類箱は廊下に積まれ、かつて掛けられていた作戦図の跡だけが、日に焼けず四角く白く残っていた。

残った机の上にあるのは、捕虜移送の控えや負傷兵後送名簿。

停戦線だの王位継承だの列国保障だのという大きすぎる紙は、もうここにはない。

めくれば終わりの見える紙ばかりだった。

 

帰任命令はその日の朝、定期便の文書束に混ざって届いた。

統帥府第三課への復帰。ライフェンベルク大尉は数日以内に引継ぎを終え、当地を発すべし。

それだけの短い紙だった。クラウスは立ったまま二度読み、椅子に座ってもう一度読んだ。

三度読んでも文面は変わらなかった。

よし、と小さく声に出してから、誰にも聞かれていないことを確かめた。

 

 

 

 

昼を回った頃、ルサント宮内省の使者が訪れた。若い庶務官で、礼は折り目正しかった。

「ライフェンベルク大尉。エレオノーラ第一王女殿下より、短時間の御面会を望まれております」

「私に、ですか」

「はい。御帰任の前に、一度お言葉を交わしたいとの仰せです」

 

答えるまでに、少し間が空いた。

断る言葉を探したのではない。探しても無駄だと理解するのに、それだけ掛かったのだ。

 

「……謹んでお受けすると、お伝えください」

 

使者が退出し、扉が閉まる。最初に口を開いたのはメルテンス大佐だった。

「大尉殿。王女殿下との私信の交換を軍務の慣例になさらぬよう、宰相府から注意があったはずですが」

 

ハルトゥング少佐は、手元の名簿から顔を上げなかった。

「いえ、私信ではなく正式な御呼出しです。悪化していますね」

 

大佐が、声を立てずに笑った。

「見事に学習されましたな、少佐」

「教材が多いのでしょう」

 

クラウスは二人を順に見た。

この人たちは、本当に楽しそうに人の不幸を処理する。

 

「よろしければ、ご同席いただいても構いませんが」

「とんでもない。我々は呼ばれておりませんので」

「ええ、大尉殿への御招待です」

 

ヴィルマー中将が、呆れた声で結論を出した。

「さっさと行ってこい、大尉。断る方が面倒だ」

「……承知しました」

「ただし、今回は何か渡される前に用途を確認しろ――いや、そもそも受け取るな」

 

何か返す前に、中将は書類へ戻っていた。

それがこの人たちなりの見送りなのだろう。

そんなにありがたくもなかったけれど、戦の空気が薄くなったことだけは実感できた。

 

 

 

 

王宮までは歩いた。

歩ける距離だったし、最後にこの街を見ておきたい気も少しだけあった。

サン・ルネは、まだ傷んでいた。

釘付けにされたままの店の鎧戸。半分だけ品の戻った市場。

硝子屋の荷車が割れた窓の前に停まり、職人が枠の寸法を測っていた。

古い布告の上には秋の市の告知が重ね貼りされ、紙の端で糊がまだ光っている。

 

荷運橋には、多くの人が行き交っていた。

あそこで小規模な戦闘があった日のことなど、誰もがもう忘れているようだった。

 

 

 

 

案内されたのは、王宮北翼の小応接室だった。

奇しくも、あの紙片を預かった部屋であった。

これが意図なら、少し性格が悪い。

 

扉は開け放たれたままで、歩哨は廊下の側に立っていた。

部屋は質素だった。

卓と椅子、壁の燭台、隅にひとつ花瓶。卓の上には何もない。長い話をする部屋ではないらしかった。

もちろん、紅茶の用意がある方が嫌ではあるのだが。

 

マルトは入口に近い壁際に控えていた。

形だけは二人きりではないが、話の中身までは拾えない距離である。

 

王女殿下は窓辺に立っていた。喪服は替えられている。

演習で見た時のような姿に近かった。

相変わらず元気には見えなかったが、それでも顔色は本人確認の協議で見た時よりいくらか戻っていた。

 

「お招きに与り光栄です、殿下」

「こちらこそ、またお会いできてうれしく思います、大尉。急なお呼び立てで申し訳ございません。まもなくグランツェルへお戻りになると伺いましたので」

「はい。数日のうちには帰ります」

「その前に、一度お話ししておきたかったのです」

「恐れ入ります」

「お戻りは、汽車ですか?」

「はい。鉄路が開きましたので。国境で一度乗り換えて、おおよそ二日です」

「二日も」

「接続が良ければ一日と半日。悪ければ三日です。国境駅の連絡は、夜の便が一本飛びますので」

 

つい余計なところまで答えたが、殿下は咎めなかった。

 

「お詳しいのですね」

「時刻表は、答えが一つで済みますので」

殿下の口元がわずかに動いた。

それきり、雑談の種は尽きた。

 

短い沈黙が落ちる。

どうせ、もう会うことのない相手だった。

それなら、聞いておいてもいいのかもしれない。

ずっと喉の奥に残っていた問いを、クラウスは出すことにした。

 

「ひとつ、伺ってもよろしいでしょうか」

「なんなりと」

「なぜ、私にあの紙を」

 

殿下は、すぐには答えなかった。

 

「紙片を渡す相手は、私でなくても良かったはずです」

 

窓の外で、馬車の車輪が石畳を擦る音がした。

部屋の隅の花瓶では、白い花の縁がわずかに茶色く傷んでいた。

 

「あなたなら、適切に扱えると思いましたので」

「適切に、ですか」

 

「ええ」

殿下は、そこでクラウスを真っすぐに見た。

「読まずに捨てることも、読んだ上で利用なさることも、どちらもなさらない方だと思いましたから」

 

返す言葉を探したが、何と言うべきかわからなかった。

目を伏せる。磨かれた床板に、自分の靴先と、殿下の黒い裾だけが映っている。

 

「わたくしは――いいえ、ルサントは、クラウス・フォン・ライフェンベルクへの恩を忘れません」

 

ありがたい、とはすぐに思えなかった。

どちらかといえば、余計な物を背負わされた感覚に近かった。

 

「……ノルトマルクでも、ライフェンベルクでもなく、私に、ですか」

「ええ。家も国も、約束する相手としては長生きすぎますから」

「……恐縮――」

 

「いつものそれはなしです。大尉」

反射的に出かけた便利な語を、殿下は遮った。

「あなたの言葉で、お聞かせください」

 

今度はすぐに思い浮かばなかった。

廊下の向こうで、誰かが書類箱を床に置く音がした。

 

自分の言葉で、と言われると少し困る。

言い訳をしてきた。恐縮をしてきた。黙ってきた。

そのあいだ言わなかったことの中身は、いつも誰かが勝手に決めた。

なるほど、たまには本音を話してもいいのかもしれない。こんな時くらいは。

 

「では、率直に申し上げます」

「はい」

「それは面倒です。ええ、とても」

 

 

 

 

後年、軍史家たちがクラウス・フォン・ライフェンベルクの名を語る時、公的な軍歴の端緒として挙げるのは、ノルトマルク連邦軍に残る一件の叙勲記録である。

統暦七十二年八月、コルヴィエール会戦における伝令任務および戦場勤務をもって、一人の大尉が勲章を受けた、とある。

 

その功績欄は簡素だった。

敵砲火下における命令伝達。第一師団司令部との連絡回復。戦線維持への寄与。

それ以上のことは書かれていない。

授与に際して本人が何を述べたか、あるいは何も述べなかったのか、それを伝える記録もない。

 

だが、ベルヴァーニュに残る記録では事情が違う。

後年『ルサント継承戦争』と呼ばれることになる一連の出来事を、それらの紙は最後まで『危機』としか呼んでいない。

戦争省に回付された複数の報告書。

使節団書記局の控え。

当時の首席使節アルジュー侯爵の私信。

ド・サン=クレール少佐の補足意見。

後に帝国議会の調査委員会で参照された、ルサント危機関連文書の一群。

 

作成された時期も、書き手の立場も、宛先もばらばらである。

その記述は細部で食い違い、評価に至っては正反対のものさえ並ぶ。

それでも、多くの紙に同じ姓が繰り返し現れる。

 

ライフェンベルク。

 

のちに「沈黙の天才参謀」と呼ばれる、最初の外形である。

 

 

                         【第一部 ルサント継承戦争編 了】




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