面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました 作:濃厚とんこつ豚無双
統暦七十二年、十一月。
クラウスは、少佐になってアウエンホーフへ戻った。
本人の感覚としては少佐になったというより、少佐にされたという方が近い。
辞令書は統帥府の名で届き、文面は短く、抗弁の余地もなかった。
あわせて、短い賜暇が許された。
昇進と休暇が同じ便で届くあたり、軍は妙なところで律儀である。
街道から続く並木は、もう半ば葉を落としていた。
屋敷の馬車寄せでは、雨上がりの砂利がまだ黒く濡れていた。
馬車の車輪が止まるより早く、玄関扉が開く。
出てきたのは家令ではなく、叔母のイザベルだった。
「クラウス! 帰ったのね!」
「ただいま戻りました。イザベル叔母様」
「あら、落ち着いていること。戦場へ行ったと聞いた時はどうなるかと思ったのに」
「お蔭様で無事です。とはいえ、あまり実感もありません」
「まあ! あなたもいつの間にかライフェンベルクの男みたいなことを言うようになったのね!」
「謙遜や余裕ではなく、本当に実感がないのです、叔母様」
叔母は、そこで少しだけ口元の形を変えた。
笑いかけて、やめたような顔だった。
「……そう。たしかに昔から、あなたはそういうところがあったかしらね」
クラウスは外套を家令に預けた。
屋敷の中には、磨かれた床板と古い家具の匂いがあった。
久しぶりのはずなのに、ほとんど変わっていない。
それはありがたくもあり、少し居心地が悪くもあった。
「お祖父様はどちらに?」
「庭よ。庭を弄っていらっしゃるわ。クラウスが来るのを、部屋でじっと待てないのね」
「では、僕も庭に」
「だめよ! せっかく帰ってきたのに、そんな土の上で再会だなんて! 母のお部屋へいらっしゃい。今お茶を用意させるわ」
「ありがとうございます」
「その前に、顔をよく見せてちょうだい」
叔母はそう言って、クラウスの両肩に手を置いた。
軍服の上からなので、手の温度はほとんど分からない。
彼女は胸元の野戦功績章を一度だけ見て、それから何も言わずに手を離した。
「痩せたわね」
「そうでしょうか」
「そうよ。男の人は鏡を見るくせに、自分の顔を見ていないのね」
返す言葉に困った。
実際、鏡を見る時に確認しているのは襟と釦と勲章の位置くらいで、自分の顔ではない。
「さ、お茶にしましょう。父様も、泥を落とせば来るわ」
「そんなに本格的に庭仕事をなさっていたのですか」
「ええ。あの土いじりを庭仕事と呼ぶならだけれど!」
◆
亡き祖母が使っていた小さな居間は、南向きだった。
家具は古く、布地も少し褪せている。
卓の上には白い花が挿してあったが、縁がすでにわずかに茶色くなっていた。
茶器が運ばれてしばらくすると、扉が開き、祖父が入ってきた。
庭にいたという割に、きちんと着替えてくるのが早い。
ただ右手の爪の端に、土の色が少し残っていた。
「久しいな、クラウス」
「お元気そうで何よりです、お祖父様」
「何、お前の評判の方がよほど元気だ。手紙にも書いたが、どいつもこいつもやかましいのだ」
「どうにかしてほしいのですがね」
「一度広まった以上どうにもならん。それが評判というものだ」
祖父は椅子に腰を下ろした。
家令が椅子を引こうとしたが、片手で退ける。
そういうところは昔から変わらなかった。
「とはいえ、事実も多かろう」
「僕はそうは思いませんが、なぜか事実とされています」
「お前の嫌う面倒というやつは、この国にそれだけ転がっておるのだろうよ。それを片づける才は貴重だ。そこは自覚しなさい」
「……はい」
「返事が悪いな」
「納得しかねていますので」
「納得してから返事をする者は、軍人にはあまり向かん」
「ではやはり、僕は軍人に向いていませんね」
叔母が小さく笑った。
祖父は卓の上の茶へ視線を落とし、角砂糖を取らずにカップを持ち上げる。
「そういえば、少佐になったそうだな」
「過分にも」
「過分、か。儂が少佐になったのは三十の時だ。エルンストも二十九だった」
「そうだったのですか」
「お前は軍人に向いていないと、儂も思っていた」
「はい。正しいと思います」
「野戦功績章をぶら下げてもか」
反射的に胸元へ視線を落とした。
勲章は今日もそこにあった。
「これは、ただ命令を運んだだけです」
「それについては、本当に謙遜するな。少なくとも儂は野戦功績章を持っとらん。軍の中には、あれをどの勲章より重く見る将校や下士官もいる」
「だからこそ、過分に思えます」
「……エルンストは金章を戴いた」
すぐには意味が取れなかった。
父がそのような勲章を持っていたという話を、初めて聞いた。
「……父様が?」
「ああ。飾ってはおらなんだが」
祖父は、カップへ手を伸ばした。
飲むためではなかったらしい。
指先が取っ手に触れただけで、また離れた。
叔母は、茶を注ぎ足す手を止めたまま、ずっと黙っていた。
「あの子は勇猛で、寡黙だった。まさにライフェンベルクだと誰もが言った。騎兵将校としては、ほとんど文句の付けようがなかった」
「…………」
「それでも、スカリング相手のたいして損害も出なんだ戦争で、一発の流れ弾で死んだ。金章などその詫びのようなものだ。残ったのは墓標に飾る栄誉だけだった」
「……そう、でしたか」
声が、思ったより小さく出た。
父の顔は、もう細部が曖昧になっている。
廊下に掛かった肖像の父は若く、礼装で、記憶のどの父ともうまく重ならない。
「だが、お前は生き残った。そして栄誉も得た」
祖父は、今度はクラウスを見た。
「ならば謙遜するな、クラウス」
叱責ではなかった。
慰めでもなかった。
机の上に、重さのあるものを一つ置かれたような言い方だった。
クラウスは、しばらく返事を探した。
便利な言葉のどれも、ここでは使えなかった。
「……申し訳ございませんでした。肝に銘じます」
「うん。それでよい」
祖父はそれきり何も言わず、冷めかけた茶へ角砂糖を一つ落とした。
砂糖はすぐには崩れなかった。
底へ沈み、少し遅れて、小さな泡がひとつ上がった。
しばらく、誰も話さなかった。
窓の外では、庭師の鋏が枝を切る音がした。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
クラウスはカップの縁に指を触れた。
「……ただ」
「何だ」
「騎兵訓練が、まさか人生の役に立つとは思いませんでした」
それは本音だった。
少年時代に馬場で叩き込まれたものなど、家名に付属する古い飾りのようなものだと思っていた。
だが、サン=ブリウで命令を運んだ時、役に立ったのは高等軍学院の知識ではなかった。
馬が横へ流れた時に、鐙を踏んで腰を残すこと。
怯えた馬より先に、人間の手が強張らないこと。
そういう、子供の頃に嫌というほど叩き込まれたものだった。
「ライフェンベルクだからな、お前も」
「いえ、それとこれとは少し違う気がします」
「違わんさ」
祖父は短く言った。
「家の者が馬から落ちずに済む程度には、訓練は受けさせる。お前が嫌がろうが、泣こうが、吐こうがな」
「そこまで酷くはなかったと思いますが……」
叔母が横から口を挟んだ。
「あなた、馬場から戻ると毎回、もう二度と乗らないと言っていたわよ」
「……覚えていません」
「都合のよい記憶力ね。あんなに筆記試験のことは覚えているのに」
クラウスは返事をしなかった。
確かに、馬場の砂を噛んだ記憶や、尻の痛みや、ブーツの中に入った細かな砂の感触は残っている。
ただ「もう二度と乗らない」と言ったかどうかは、都合よく曖昧だった。必死に忘れようとした努力の成果かもしれない。
祖父は、そこで少しだけ口元を歪めた。
「そういえば、お前の命を救った男が会いたがっているぞ」
「……命を?」
「騎兵教官のフェルディナントだ」
クラウスは、一瞬だけ息を止めた。
「……ブレドウ教官が!?」
声が、思ったより大きくなった。
叔母が目を丸くし、それから楽しげに笑った。
「そんなに嫌そうな顔をするな」
祖父は、茶を一口飲んだ。
冷めていたらしく、少し眉を動かした。
「奴も、可愛い教え子に会いたがっているのだ」
「可愛い、ですか。ブレドウ教官が、僕を」
「少なくとも奴はそう言っていた」
「僕の記憶では、あの方は一度もそのような種類の感情を見せたことがありません」
「教官というものは、だいたいそういうものだ」
「僕は何度も落馬させられました」
「落馬して死なずに済むうちに落とすのが、よい教官だ」
「鞍の上で寝るなと鞭で叩かれたこともあります」
「寝ていたのか」
「寝てはいません。少し考え事をしていただけです」
「馬上で考え事をするな」
「ええ、同じことを言われました」
「ならばフェルディナントが正しい」
祖父はあっさりそう言った。
クラウスは黙った。
ブレドウ教官の顔は、かなりはっきり思い出せる。
大柄で、顎が硬く、声がやたら通る。
馬場の反対端にいても、こちらの踵の位置を怒鳴って直してくる男だった。
「まあ、本当に可愛いのだろうよ。お前の活躍を方々で吹聴しているくらいだからな」
「……やめていただきたいのですが」
「儂に言うな。本人に言え」
「僕から言ったところで、聞いてくださると思えません」
クラウスは叔母の方を見た。
助けを求めたつもりだったが、叔母は楽しそうに茶を注いでいた。
「よかったじゃない、クラウス。昔の先生が誇ってくださるなんて」
「叔母様。あの方は先生というより、騎兵隊に所属する自然災害のような方です」
「あら、あなたがそんなことを言うなんて!」
「これでも控え目です。馬より先に人間の方を調教する、という信念をお持ちでした」
「それは正しかろう」
祖父が言った。
「馬は人間より賢いからな」
「お祖父様まで」
「奴は、今はアウエンホーフの町外れにいる。脚をやって退役してから、若馬の調教を見ているそうだ」
「まだ馬に関わっているのですか」
「他に何ができる」
「それは……そうかもしれませんが」
「明日にでも来るだろう。お前が帰ったことくらい、とうに耳へ入っておる」
「明日、ですか」
「嫌なら今日呼んでもよい」
「明日でお願いします」
返事が早すぎた。
祖父はそれを見て、今度こそ少し笑った。
「そう怯えるな。今の奴はもう教官ではない」
「それは制度上の話でしょう」
「まあ、性根は変わらん」
「でしょうね」
叔母が、クラウスの前に焼き菓子の皿を置いた。
小麦とバターの匂いがした。
「それで、クラウスのことを何とおっしゃってたの?」
「何だったかな」
祖父は少し考えた。
「たしか、あのぼんやりした坊主が、ついに馬上で仕事をした、と」
「……あの方らしいお言葉ですね」
「騎兵教官の褒め言葉など、だいたいそんなものだ」
クラウスは焼き菓子を一つ取った。
指先に細かな砂糖がつく。
口に入れると、思いのほか甘かった。
「お前が命令を届けた話を、奴はたいそう気に入っている」
「なぜでしょうか」
「自分の教えたことが、少しは戦場で役に立ったからだろう」
祖父はそう言って、窓の外へ目をやった。
「だから、会って一言でいいから礼くらい言ってやれ、クラウス」
それきり、祖父はブレドウ教官の話を続けなかった。
しばらくは、茶を含む音だけがあった。
やがて祖父は卓へ視線を戻し、思い出したように言った。
「ところで、結婚はせんのか」
クラウスは、カップを口元へ運びかけた手を止めた。
「……唐突ですね」
「儂の歳になると、話はだいたい唐突になる。順を追う時間が惜しい」
「予定はありません」
「予定を聞いとるのではない。つもりを聞いとる」
クラウスは少し考えた。
考えて、正直に答えることにした。この家では、結局それが一番早い。
「……想像がつかないのです。家族というものが」
家族と言われて頭に浮かぶのは、この屋敷と、目の前の二人くらいのものだ。
母は、父より先に死んでいる。
北方戦役の二年前に胸を病んで、ひと冬保たなかった。
覚えているのは薄暗くした寝室の匂いと、扉越しに聞いた咳の音くらいで、顔となると父よりさらに曖昧である。
自分の卓に妻が座り、子供が座る。
その絵を描こうとすると、線が途中で止まる。
「申し訳ありません」
「謝ることではない」
祖父は、こともなげに言った。
「出征のたびに家の者の顔がちらついて、手元の狂う将校を儂は何人も見た。悪いことばかりではないさ」
「父様。孫への慰め方ではありませんよ、それは」
「慰めてはおらん。事実を言うただけだ」
叔母は呆れた顔のまま、クラウスの茶を注ぎ替えた。
「縁談なら、いくつも来ているのよ、クラウス」
「……お断りしても?」
「あなたならそう言うと思ったわ」
「断る方は儂がやっておる」
と祖父が言った。
「安心せい。断り状の文面を練るのは、儂の数少ない趣味だ」
それはそれで、別の心配があった。
「家族の像なら、描ける日まで待ってくれる相手もきっといるでしょうけれどね」
叔母が、茶器を置きながら続けた。
「――そういえば、テオから手紙が来たのよ」
「テオ……テオドール君?」
従弟の顔を思い出すのに、少しかかった。
最後に会ったのは四、五年前で、まだ声変わりもしていなかったはずだ。
「幼年士官学校に通っていると聞きましたが」
「ええ、休暇で帰るたび、あなたの話ばかり聞きたがるの。受勲のこともどこで聞いたのか、式の次第から章の意匠まで手紙で訊いてきて。学校でずいぶん自慢して回っているらしいわ。クラウス従兄様が、クラウス従兄様が、って」
「……それは」
「あの子、息子が生まれたら、クラウスという名前にしたいとまで言っていたのよ」
クラウスは、しばらく黙った。
「……ライフェンベルク家にクラウスが二人になると、軍の書類が混乱します」
「なんだ、その歳まで軍にいる気か。案外居心地がいいんだな」
祖父が鼻から短く息を吐いた。笑ったらしい。
「あれは馬が好きでな。筋も悪くないと聞く。誰に似たのだか」
「少なくともクラウスではないわね」
「教官に殴られた回数も、儂の頃より少ないそうだ。時代がぬるくなった」
「父様より優秀なのよ、テオは」
従弟が自分の何に憧れているのか、クラウスには見当がつかなかった。
快活で、自分とは似ても似つかぬ子だったというのに。
「そういえば、アウグスト叔父上はお元気ですか?」
「東部よ。国境の旅団で参謀長ですって。手紙は半分が愚痴だわ」
「お変わりないようで何よりです」
「あの人はそうそう変わらないわ、良くも悪くもね」
叔母の夫であるアウグストは、古い部門の三男で、ライフェンベルクに入り婿に来た。
父がまだ生きていた頃の縁組で、家名がどちらへ転んでも絶えぬように、という祖父の手配だったらしい。
祖父はあまり叔父の話をしない。
ただ、東部から届く婿の贈った葉巻にだけは文句を言わなかった。
部屋の中には、茶の匂いと、古い布張りの椅子の匂いがある。
廊下の向こうで、家令が誰かへ低い声で指示を出していた。
庭師の鋏の音はもう止んでいる。
クラウスは焼き菓子をもう一つ取った。
指先に、また細かな砂糖がついた。