面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました 作:濃厚とんこつ豚無双
プロローグ 宰相府の春
統暦七十七年、一月。
クラウスは三十一歳で中佐に任ぜられた。
ライフェンベルク家の名を勘定に入れてなお、三十一歳で参謀中佐に届くのは早すぎた。
階級が並んでしまったハルトゥング中佐などは、むしろ諧謔すら覚えた風な顔で、
「おめでとうございます、中佐殿。ところで、いつ私の上官になられますかな」と笑っていた。
嫌味なのか心の底からの言葉なのかは判断しにくかった。
もちろん、クラウスは昇進などしたくなかった。
したくはなかったが、軍人とは、上から降ってきた命令には唯々諾々と従うほかない職業である。
そして、昇進と同時に下った配属辞令が悪かった。
連邦評議会宰相府付軍務官。
職場を移って気付いたことがある。
統帥府第三課の面倒にはまだ救いがあった。
どの仕事も面倒ではあるが、少なくとも昨日と今日で予定を勝手に変えたりはしない。
宰相府に移って数か月で、クラウスはその程度のことをほとんど懐旧の念をもって思い出すようになっていた。
◆
その朝、クラウスは宰相府の廊下を早足で進んでいた。
走ってはいない。
中佐の軍人が宰相府の廊下を走るのは、見た目にも職制上にもよろしくない。
ただ、歩いていると言い張るには少し速度がありすぎるだけである。
昨日の帰り際、秘書官からは「明朝九時に登府」と聞かされていた。
ところが今朝まだ空の色が明るくもないうちに、宰相府の連絡官がクラウスの下宿へ来た。
「その、事情が変わりまして」
連絡官は帽子を手で押さえたまま、実に申し訳なさそうにそう言った。
もう見慣れた顔だった。
「九時ではなかったのですか」
「はい。昨日の段階では九時でございました」
「今日は」
「できるだけ早く、とのことで」
宰相府では、それは具体的な時刻ではなく、相手の生活を無視してよいという意味で使われる。
クラウスは連絡官に怒る気にはなれなかった。
この男も命じられて来ただけだ。
早朝に軍人へ予定変更を告げる仕事など、好んでやるものではない。
しかし命令を出した相手に怒ることは、もっとできなかった。
相手は連邦評議会宰相である。
つまりこのやり場のない何かは、ここ最近の定例として胸へ沈んでいくよりなかった。
◆
宰相府の廊下は朝からすでに働いていた。
秘書官が走らずに急ぎ、書記官が紙束を抱えてすれ違い、扉の奥では誰かが低い声で日程を読み上げている。
誰もかれもが、昨日の残りを片づけているのか今日の仕事を始めているのか分からない。
クラウスは恐ろしいことに、この風景を日常として見慣れつつあった。
執務室の前には、秘書官が二人立っていた。
一人は封書の束を持ち、もう一人は皿を載せた銀盆を持っている。
皿の上には茶色いソースの跡と、綺麗に肉のそぎ落とされた骨があった。
こんな時間に食べるにはあまりに向いていないものだった。
秘書官がクラウスを見るとほんの一瞬だけ気の毒そうな顔をしたが、すぐに官僚の顔へ戻って執務室へ声を入れた。
「ライフェンベルク軍務官、到着いたしました」
間髪入れずに扉の向こうから声がした。
「遅い」
クラウスは反射的に懐中時計を見た。
まだ七時前だった。
扉が開く。
宰相執務室には、朝だというのに濃いソースと肉の匂いがこもっていた。
最初の頃は、なぜ朝からこんな匂いがするのかと不思議に思った。
今では、単に部屋の主が朝食と夜食と昼食を同じ机で取り、しかも仕事を止めないからだと理解している。
大机の上には各邦代表からの抗議書や軍務省の予算案など、雑多な書類が積まれている。
その隙間に皿が三枚あった。
一枚には肉。
一枚には黒パン。
一枚には、砂糖をまぶした菓子が二つ。
菓子の粉糖が、南マルク諸邦同盟からの意見書の端に白く落ちていた。
その奥に、オスヴァルト・フォン・バルク宰相は座っていた。
大柄で、太っている。
だが怠けて太った男の顔ではない。
食べ、怒り、働き、眠らず、また食べるという循環を、身体が無理に受け止めているような男だった。
顔色は悪く、目つきはもっと悪い。
袖口にはソースの小さな染みがあったが、気にする風もなかった。
「ライフェンベルク軍務官」
体躯に似合わず、高い声であった。
初めて聞いた時は、机の陰に別の誰かがいるのかと思った。
「は」
「昨日渡した鉄道局の控えは読んだかね」
挨拶はなかった。
クラウスは、もうそれに驚かなくなっていた。
まさか軍隊よりも無礼な場所があるとは思わなかった。
「いえ、まだ全部は」
「遅い」
「昨夜届きましたので」
「届いた時点で全て読め」
「しかし、退府時間でしたので」
「君は随分と時刻に正確だな」
クラウスは黙った。
これも数か月で学んだことだが、宰相の機嫌が悪い時に、理屈で身を守ろうとしてはいけない。
反論すると詰められるからだ。およそ考え得る限り最悪の職場である。
宰相は机上の紙を一枚取った。
その下にあった皿が少し動き、ソースが紙の端につきかける。
秘書官が反射的に手を出したが、宰相はそれを見ることもなく皿を押し返した。
「ハイゼンベルク公使館は、国境軍備の増強を単なる夏季演習だと言っている」
「はい」
「軍務省は、こちらも演習を増やせと言う」
「はい」
「統帥府は、演習と動員準備は別だと言う」
「その通りかと」
「外務省は、演習と見える範囲に留めろと言う」
「それも、まあ」
「南マルク諸邦は、ノルトマルクが勝手に緊張を作っていると喚く」
「……はい」
「鬱陶しいことこの上ない」
返答はしなかった。
鬱陶しい、で国家機構の複雑な対立をまとめてよいのかは疑問だった。
しかし、実感としてはおそらく正しい。
この部屋に通ううち、だいたいの政治問題が最終的に「鬱陶しい」へ分類されることは分かってきた。
「本日午後、軍務省、統帥府、鉄道局、外務省、それから南マルク側の連絡代表を入れて予備協議をする」
「本日午後ですか。昨日の予定表には明日の午前と」
「昨日の予定表は昨日の紙だ。予定は変わることがあるものだ、知らなかったかね」
もう何度か聞かされた理屈だった。
宰相は古くなった紙に対して、ほとんど情がない。
「君は統帥府派遣の軍務官としてそこにいろ。ただし喋るな」
「……それでいいのですか」
「求められたら喋れ。求められる前には喋るな」
要するに、そこにただ突っ立っていろということだろうか。
ただでさえ業務は降ってくる一方なのだ。同席などしたくない。
だが口に出した瞬間、この宰相はあらゆる語彙で責めてくる気がした。
「では求められたら、何を申し上げれば」
「統帥府の手続き、動員準備と演習の区別。その辺りだ。政治判断はするな」
宰相は即座に言った。
「政治をしたがる軍人は邪魔だ。その点で君は使いやすい」
クラウスは、どう返すべきか分からなかった。
評価されているのか、侮辱されているのか、材料扱いされているのか。
おそらく全部だった。
「それと」
宰相は机の端にあった別の紙束を指で弾いた。
「これを読め」
秘書官がすぐに紙束を持ってきた。
かなり厚い。
厚さを見ただけで、朝食を抜いた胃がさらに重くなった。
「午後までにですか」
「今から昼までに読め。午後に使う」
「現在七時前ですが」
「なら時間はあるだろう」
それは時間があるとは言わない。
だが口に出しても意味はない。
クラウスは紙束を受け取った。
腕に重みが来る。
『ハイゼンベルク情勢に係る諸邦所見』
とても退屈そうな題名である。
絶対に読みたくないが、読まないと午後に死ぬ。
目の前の男は読んだ前提で突然会議中に質問を投げかけてくるような人間だ。
ちなみに鉄道局の控えは、まだ半分残っている。
あちらはいつ読めばよいのか。
訊けば藪蛇になる気がして、やめておいた。
宰相は皿の上の黒パンを指した。
「朝食をとってなければ、あれを持っていけ」
クラウスは半分ほど残っている机上の黒パンを見た。
流石に噛み跡はないが、肉の皿の隣で、すでにソースの匂いを吸っている。
「……いえ」
「遠慮はいらん、食え」
「いえ、職務中ですので」
「食いながら読め。私もそうしている」
あなたがそうするのが一番の問題だ、とクラウスは思った。
もちろん言わなかった。
秘書官が、見かねたように小さく言った。
「よろしければ、何か食べやすいものをご用意させます」
宰相がそちらを見た。
「時間の無駄だ」
クラウスはその人に同情した。
そして自分にも少し同情してほしかった。
「不満そうだな」
「いえ」
「よろしい。多少不満がある人間の方がよく働くものだ」
宰相はそう言って、秘書官を促した。
「小読書室を使わせる。朝食は何か適当に出してやれ」
「は」
「というわけだ、励め」
クラウスは敬礼した。
「拝命いたします」
宰相は返礼しなかった。
もう次の書類を読んでいた。
宰相府付軍務官という仕事を辞めたい。
クラウスは小読書室へ向かいながら、ここ最近の常としてかなり真剣にそう思っていた。
もっとも、辞める方法は知らなかった。
軍人である以上は知らないままの方が、おそらく軍務上は正しいのだろう。
◆
廊下の角を曲がると、若い少尉が慌てて壁際へ身を寄せた。
警備隊の少尉だった。
まだ二十歳を少し過ぎたくらいに見える。
襟の星は新しく、革帯も固そうだった。
彼はクラウスの顔を見て、それから胸元の略綬へ視線を落とし、最後に腕の中の紙束へ目を移した。
「ライフェンベルク中佐殿」
声が少し上ずっていた。
クラウスは足を止めた。
「はい」
少尉は姿勢を正した。
学校の教官に向けるような姿勢だった。
「グランツェル駐留警備隊、オットー・キーゼル少尉であります。しょ、小官が小読書室までご案内いたします」
「場所は分かります。お気遣いいただかなくても大丈夫です、キーゼル君」
「は。で、ですが宰相閣下より、資料をお持ちの軍務官殿を迷わせるな、と」
宰相は人を呼び出す時刻は平然と変えるくせに、廊下で迷う数分だけは惜しむらしい。
合理的なのか非合理なのか、もう判断する気も起きなかった。
「では、お願いします」
しかし歩き出してからも、どうにも背中が固い。
クラウスが何か言うべきか迷っていると、少尉の方が先に口を開いた。
「あの、失礼ながら」
「何でしょう」
「コルヴィエールで第一師団へ命令を届けられたのは、中佐殿でいらっしゃいますか」
クラウスは少しだけ遅れて答えた。
「ええ。まあ、届けただけですが」
キーゼル少尉の横顔が、はっきり緊張した。
「父が、第二師団におりました」
その一言で、クラウスは黙った。
すでに五年前のことなのに、その地名だけで喉の奥に乾いたものが残った。
「ご無事でしたか」
「はい。負傷はいたしましたが。今は郷里で杖をついております」
前を向いたまま言った。
「父が申しておりました。あの日第一師団の予備が間に合わなければ、村は持たなかっただろうと」
クラウスは返す言葉に困った。
そういう話は、いまだに苦手だった。
「それは軍団司令部と第一師団の判断です。私は命令を持って行っただけです」
「はい」
キーゼル少尉はそう答えた。
だが、その返事には納得していない響きがあった。
クラウスはますます居心地が悪くなった。
宰相府にいると、彼は毎日のように遅い、読め、黙れ、立っていろと言われる。
その一方では、まるで彼がもっと別の立派な何かであるような目を向けてくる人間もいる。
たぶんどちらも少しずつ間違っているのだが、否定することの無意味さは身に染みていた。
小読書室の前には、年配の衛兵が一人立っていた。
灰色の口髭を短く整えた、古参兵らしい男だった。
彼はキーゼル少尉よりもずっと自然な動作で敬礼した。
その姿勢は、もっと居心地を悪くさせた。