面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました 作:濃厚とんこつ豚無双
宰相府の早朝勤務は、三週目に入っていた。
オットー・キーゼル少尉、二十一歳。
グランツェル駐留警備隊から、宰相府警備区隊への派遣である。
仕事は廊下に立つことと、立っている理由を深く考えないことだった。
夜明け前の宰相府は、すでに半分起きている。
秘書官が走らない速さで急ぎ、銀盆が運ばれ、どこかの扉の奥で日程が読み上げられる。
最初の一週間で、キーゼルは二つ覚えた。
ここでは誰も走らない。そして、誰も止まらない。
六時前、週番曹長が哨所を回ってきた。
五十がらみのこの曹長は、キーゼルが宰相府へ配属された初日から顔を知っている男だった。
背は高くなく、顎のあたりに古い傷のような皺がある。
階級章は曹長の三本線だが、革帯の擦れ方や歩き方の据わり具合は、三本線以上のものを教えていた。
「少尉殿。執務室から達しであります」
「は、はい」
「本日早朝、統帥府派遣の軍務官殿が登庁される。資料をお持ちだ。小読書室まで迷わせるな、と。宰相閣下のお言葉であります」
「……宰相閣下が、直々に」
「ただし、軍務官殿が本当に道に迷われるかどうかは、別の問題でありますな」
「ど、どういう意味でしょう」
「失礼ながら、少尉殿。宰相閣下の御命令には字面通りの意味と、周囲の人間に働けという意味がございます。今回は後者も少し混じっているかと」
「つまり、道案内をするというよりも、道案内をした事実を作るわけでしょうか」
「たいへん宰相府向きのご理解であります」
曹長は、そこで少しだけ声を落とした。
「そしてその軍務官ってのが、評判のライフェンベルク中佐殿であります」
キーゼルは思わず曹長の顔を見た。
「あの……はい、知って……存じております。コルヴィエールで、僕の……私の父が世話になったと聞いておりまして」
「ほう、当代の麒麟児様に。ご縁ですな。もっとも、兵の評判というものはだいたい酒と暇で膨らみますがね。近頃どこにでも名前が現れる方でして」
「麒麟児、ですか」
「ええ。たとえばですな」
曹長はそこで壁にもたれるように一歩だけ姿勢を崩した。
下卒の勤務中にはふさわしくない。
だが、話を始める時のその崩し方に、キーゼルは逆らえなかった。
「三年前、ブリュック自由市で疫病が出ましてな」
「ブリュック……港湾の?」
「そうです。まあ大した病じゃありませんでしたが、それでも街は相当ひっくり返りましてね。物が届かん、列車が詰まる、市庁舎は怒鳴り合い。何しろ自由市ってやつはあれでも独立した連邦の一員ですから。誰が何を命じていいか分からんまま三日ほど転がった。そっちでやれ、誰が責任を持つ、いいから荷を運べって大騒ぎで」
「はあ……」
「で、たまたまそこに駐屯しておられたのが、ライフェンベルク中佐殿であります。当時は少佐でしたかな。中佐殿が荷の仕分けと鉄道時程の組み直しを一日で整理されまして、市の参事会に通したと」
「一日で……」
「ま、古い知り合いから聞いた話ですから。一週間が一日になり、一日が半日になり、その辺は割り引いて聞いてくださいまし。ですが工兵上がりのそいつが言うには、あんな見事な段取りは中々できない、と。兵隊にとっちゃ、名将よりもそっちの方がありがたいと思うこともあるもんです」
キーゼルには、それがどれほどのことなのか、正直に言えば分からなかった。
ただ、曹長の声の調子が変わったのは分かった。
普段の報告とは違う。話したいから話している声だった。
「まあ、そんな話が方々にありましてな。早い話、連邦の有名人というわけです」
「……士官学校でも評判でした」
「ほう、それは興味を惹かれますな。お伺いしても?」
キーゼルは少し迷ってから話し始めた。
「はい。父が参加したコルヴィエール=サン・ブリウ会戦を扱った講義がありまして。教官が戦況図を黒板に描いたのですが……正直なところ、よく勝てたな、というのが最初に思いました」
「ルサントの戦ですな。新聞では余裕の勝利だとか書かれておりましたが」
「あの……ここで言っていいのか分かりませんけれど」
「小官は聞いたものを三歩で忘れる人間であります」
曹長は真面目な顔で言った。
それを見て、少しだけキーゼルも笑えた。
「あれはベルヴァーニュが本当に巧くやった戦だったそうです。教官が言うには……東方の古い言葉で……ええと。善く攻むる者は、敵、其の守る所を知らず、だったかな」
曹長は一拍置いてから言った。
「少尉殿。兵にそれを言う時は、少し柔らかくした方がよろしいかと。何分、こちらは教養より飯盒で育ったもので」
「……ええと、あの、要するに、こちらがどこを守ればよいのか分からなくされた、ということらしいです」
「なるほど、それなら分かります」
「こちらは河を防衛線にしました。その代わり、守る戦になった。ベルヴァーニュは複数の地点を同時に攻めて、どこを守ればいいか分からなくさせた。そして砲兵の観測は途切れ、電信線も切れた――と、習いました」
「それは、あの戦好きの連中の面目躍如と言ったところでありますな。まさか、そこでライフェンベルク中佐殿が英雄的な指揮で戦況を?」
「そうだったら絵物語だったんですけれど……」
キーゼルは少し苦笑のようなものを浮かべた。
「中佐殿は、命令を届けたそうです。電信線が切れたので、代わりにご自身で。砲火の中を、馬で」
「はあ、参謀閣下ご自身で伝令を」
「はい。父から聞いた話では、しばらく下卒たちの間で葦毛の馬の将校が語り草になったそうですが」
曹長はしばらく黙った。
その沈黙は、キーゼルの予想よりもずっと重かった。
「……それは、少尉殿」
曹長の声が少しだけ低くなった。
「砲の下を馬で行くってのは、中々綺麗な言い方で済む話ではありませんな。弾は人を選ばんのでありまして」
「ええ。教官が言うには、将校たる者、かくあるべし……ということらしいです」
「いやはや、流石は音に聞くライフェンベルクでありますな」
曹長は納得したように頷いた。
「家柄だけでも階段が二段違う家だ。ですが、あの御方は飛ばし方まで違う。三十一で中央の中佐ですよ」
それから廊下の奥へ目をやり、声を落とした。
「階段を二段飛ばす人間ってのは、だいたい足音がしないものであります」
「なら、今日はその足音を確かめましょうか」
その軽口に、曹長も楽しそうに笑った。
「ええ、ぜひ聞かせてください。本当にしなかったかどうか」
◆
七時少し前に、片手に厚い資料束を抱えてその人は現れた。
最初に思ったのは、柔らかい、だった。
顔に、軍人らしい硬さがない。
黒髪は短く整えられ、目元は険しいどころか、どこか眠たげですらある。
中佐の襟章がなければ、上等な文官だと言われても疑わなかったかもしれない。
ただ略綬の並びの中に、見間違えようのない一本があった。
野戦功績章。
本物の戦場で、功績を挙げた者にだけ与えられる証である。
キーゼルは壁際へ身を寄せ、それから自分が壁際へ寄ったことを後悔しながら、声を出した。
「ライフェンベルク中佐殿」
声が思わず上ずった。
中佐が足を止める。
「はい」
姿勢を正す。
正しすぎて、士官学校の査閲のような姿勢になった。
「グランツェル駐留警備隊、オットー・キーゼル少尉であります。しょ、小官が小読書室までご案内いたします」
「場所は分かります。お気遣いいただかなくても大丈夫です、キーゼル君」
軍人らしい階級の呼称ではなく、姓を呼んだ。
キーゼルは、それだけでなぜだか自分の姓が急に上等なものになったような気がした。
「は。で、ですが宰相閣下より、資料をお持ちの軍務官殿を迷わせるな、と」
「では、お願いします」
半歩後ろへつこうとして、案内なのだから前だと気づき、慌てて歩幅を直した。
中佐は何も言わなかった。
言わないでいてくれることが、ありがたかった。
「あの、失礼ながら」
「何でしょう」
「コルヴィエールで第一師団へ命令を届けられたのは、中佐殿でいらっしゃいますか」
中佐の返事は、少しだけ遅れた。
「ええ。まあ、届けただけですが」
父と教官の話の中では、それは線と旗が死んだ戦場を、葦毛の馬で砲の下を抜けた話である。
しかし当の本人は何でもないようにそう言った。
それは謙遜というより、本当に心からの言葉に聞こえた。
この差をどこへ置けばいいのか分からないまま、口が先に動いた。
「父が、第二師団におりました」
中佐は黙った。
横顔は、ほとんど動かなかった。
ただ、それまでより一拍だけ長い沈黙だった。
「ご無事でしたか」
訊かれて、一瞬詰まった。
中佐の側から、一兵卒の安否を訊かれるとは思っていなかった。
「はい。負傷はいたしましたが。今は郷里で杖をついております」
前を向いたまま、続けた。
「父が申しておりました。あの日第一師団の予備が間に合わなければ、村は持たなかっただろうと」
「それは軍団司令部と第一師団の判断です。私は命令を持って行っただけです」
迷いのない切り分けだった。
功績を、あるべき棚へ戻す手つきである。
教本は将校の謙抑をうるさく説くが、教本の通りに喋る人間を、キーゼルは初めて見た。
「はい」
そう答えはしたが、納得はしていなかった。
判断は司令部のものだとしても、砲の下を行ったのはこの人である。
そこを引き受けないのなら、あの葦毛には誰が乗っていたことになるのか。
小読書室の前には、詰所で親父殿と呼ばれている古参の衛兵が立っていた。
親父殿は、キーゼルが今まで見たことのない敬礼をした。
型は同じだ。
ただ、型だけの敬礼と、型に中身の入った敬礼は並べば誰にでも分かる。
中佐は短く答礼を返し、礼を言って扉の向こうへ消えた。
◆
夕刻、哨所交代のあとの詰所で、曹長が訊いてきた。
「それで、足音はしましたか、少尉殿」
「うん……していたはずなんですが、あまり覚えていません」
「それは相当静かだったのでありますな」
「こちらの心臓の音がうるさかったのかもしれません」
曹長は口元だけで笑った。
「それは軍靴とは別の音であります」
キーゼルは少し考えた。
「少なくとも、悪い方ではなさそうでした。軍人らしくはなかったですが」
「軍人らしくない中佐殿でありますか」
「はい。紙を持った文官に見えました」
「なるほど」
曹長は頷いた。
「しかしその紙を砲の下へ持って行けるなら、兵隊にとっては十分すぎるほど軍人であります」
キーゼルは返事をしなかった。ただ、そういうものか、とだけ思った。
廊下の向こうでは、また誰かが走らない速さで急いでいた。