面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました 作:濃厚とんこつ豚無双
小読書室には、窓が一つしかない。
高い位置にあって、光は天井ばかりを照らし机の上までは届かなかった。
宰相府で静かな部屋というのは、おそらくここくらいのものである。
机の上には『ハイゼンベルク情勢に係る諸邦所見』。
南マルク諸邦同盟からの意見書である。
昼までに要点。午後には協議。
クラウスは覚悟を決めて表紙をめくった。
ハイゼンベルク。南東の古い大国。
南マルクの諸邦にとっては、隣人である前に、百年来の上座である。
そしてノルトマルクの多くの構成国にとっても、それはかつて上座であった国である。
その上座がいま国境へ兵を集め、これは恒例の夏季演習準備であると言っている。
それに呼応するようにノルトマルクも国境の演習準備をした。
そしてお互いが「あれは挑発だ、侵攻準備だ」と文句を言い合う形になった。
クラウスは別紙を読み始めた。
最初の邦の所見は、立派なものだった。
曰く、当邦は大陸の平和を切に願う。
曰く、いずれの隣邦とも歴史的な友誼を有する。
曰く、事態の推移を重大な関心をもって注視する。
三枚読んで、何も書いていないことが分かった。
ただしたまに急に具体的な数字が並ぶ。
通過貨物に係る関税収入、鉄道使用料、塩の中継取引。
平和への切なる願いの内訳は、つまりそういうことらしい。
次の邦は、もう少し古風だった。
ハイゼンベルクとの旧き盟誼に触れ、その二行後で連邦との通商の重みに触れる。
両方へ頭を下げたまま、どちらへも歩き出さない文章である。
その次の邦は、緊張の責任を双方に求め、解決のため諸邦会議の開催を提案していた。
会議を提案するのは、何も決めたくない時のいちばん上品なやり方である。増えるのはだいたい無駄な仕事と不満だ。
扉が叩かれ、盆が運ばれてきた。
厚切りの肉が一枚挟まれた黒パン、それに砂糖をまぶした菓子がひとつ。
どうにもこの府の厨房は、宰相の食卓を基準に設えられているらしい。
統帥府の食堂は評判が悪いが、少なくとも朝食はまだ朝食と呼べるものであった。
実のところ、宰相府勤務になってからのクラウスにとって、下宿で自分の用意する毎朝の食事は密かな楽しみであった。
今朝食べるはずだった朝食は、黒パンを二枚、寝る前に作っておいた茹で卵を一つ、塩気の強いハムを少し。
それに昨夜のうちに下宿の女中に頼んで用意させておいたバターと、好みの少し酸っぱい白チーズ、そこに自分で淹れたコーヒーだった。
というのも、下宿の女中に頼むとどういうわけか毎回少し薄いし、薄いと告げれば次は粉を増やしすぎて泥のようになるからだ。
とはいえ、現実はパンと同じ厚さの肉と砂糖だらけの甘味、そして薄いコーヒーである。
クラウスは皿を、紙からいちばん遠い机の端へ置いて資料を開いた。
食いながら読め、と言われた通りになっているのが少し癪だったが、朝食を抜いた身体の方が正直だった。
サンドイッチというにはあまりに重いそれを齧りながら読み進めるほどに、感心してきた。
どの所見も、何も約束しないために全力で書かれている。
中身が全くない癖に、非常に立派で厚い文章だ。
その技巧にはもはや職業的な敬意すら覚えた。
◆
昼前に、なんとか要点をまとめた。
紙は一枚。結論は一行目。
これは趣味ではなく、学習の結果である。
着任した頃、統帥府意見について三枚にわたる丁寧な要約を出したことがあった。
陸大の答案ならばほぼ満点を取ることができると自負する統帥府向けの完璧な要約だったが、バルク宰相は酷く険しい顔をした。
「それで結局、君は何を伝えたいのかね。まさかこれを最後まで丁寧に読めとは言うまいな。ならば最初から私が全て読んだ方が早いと思わんかな」
以来、結論を先に書くようにしている。
しかしそれで言葉が足りないとまた責められるのである。
本当に辞めたい。
そして目下の問題は、今日の結論だった。
正直に書けば身も蓋もない一行になる。
柔らかく書けば「それで?」が戻ってくる。
クラウスはしばらくペンを止め、結局、身も蓋もない方を取った。
"諸邦所見の要点。いずれの邦も、勝つ側が決まってから態度を決めたい、と読める"
以下に、諸邦を鉄道の通り方で並べ替え、関税と輸送料の数字を添えた。
立場で並べるより、線路で並べた方が読みやすかったからである。
そもそも、どの邦も立場など似たり寄ったりで並べようがない。
正午の鐘と同時に、秘書官が紙を取りに来た。
一分の猶予もなかった。
この建物の時刻は、呼び出しにだけ適当で、回収にだけ正確である。
◆
昼食を急いで済ませてから会議室に向かった。
宰相はまだ来ていなかった。
しかし席にいないというだけで、部屋にはもう彼の気配があった。
卓の中央には秘書官が置いた赤い革綴じの紙束があり、その上にクラウスが昼前に出した要点紙がよりによって一番上に置かれていた。
やがて扉が開いた。
宰相は席に着くなり、挨拶もなく言った。
「始めろ」
それだけで会議は始まった。
最初に口を開いたのは、軍務省の次官だった。
「ハイゼンベルク軍の北西軍管区における兵員移動は、例年の夏季演習規模を明らかに超えております。特に第三軍団および第五軍団の補給段列が、演習区域外の倉庫まで使用している点は看過できません」
次官はそう言って、地図の南東部を指した。
「軍務省としては、少なくとも南東方面の予備兵召集準備、および主要鉄道線における軍用枠確保を始めるべきと考えます」
すぐに財務省の高官が口を開いた。
「予備兵召集準備、とのことですが、これは動員ですか」
「動員ではありません」
軍務省次官が即座に答えた。
「動員を行うための準備です」
「では、動員ではないのですね」
「ですから、準備です」
「予算上、動員でないものに動員費を充てる根拠はございません」
部屋の空気が、最初から少し悪くなった。
クラウスは、高官の言っていることも分からないではなかった。
財務の紙では、名前がない支出は存在できないからだ。
だが軍の紙では、名前がつく頃には遅いことがある。
動員というものは、命令書を出した瞬間に兵が勝手に駅へ湧いてくる儀式ではない。
召集通知を用意し、倉庫を開け、制服を数え、馬を押さえ、機関車を回し、石炭を積み、駅員に時刻を渡し、地方行政に人を出させる。
そのすべてを、まだ動員ではありませんという顔で先に触っておかなければ、動員と名づけた瞬間に何も動かない。
とはいえ、ノルトマルクはその準備をやりすぎた結果、諸邦の財政に大きな損害を与えてもいる。
外務省の連絡官が、今度は別の角度から口を挟んだ。
「外務省としては、ハイゼンベルク側にこちらの準備が動員と見えることを懸念しております。向こうが演習と言っている以上、こちらも演習または演習補助の範囲で扱うのが望ましい」
「演習補助で予備兵召集準備はできません」
軍務省次官が言った。
鉄道局の局長が、低い声で言った。
「見せ方の話をなさるのは結構ですが、列車は見せ方では走りません。どちらにせよ規模は決めていただきたい」
その一言は、かなり好きだった。
ただし本人は少しも面白そうではなかったが。
「軍用枠を確保するなら、民間貨物をどこかで削る必要がある。特に南東線は塩、鉄材、穀物が詰まっています。三日分の枠を動かすだけでも、諸邦商務局から抗議が来るでしょう」
南マルク連絡代表がすぐに反応した。
「その点こそ、我々の懸念です。南マルク諸邦は、国境緊張に巻き込まれることを望んでおりません。中央が軍用列車を増やせば、ハイゼンベルクはそれを挑発と受け取るでしょう。今、ハイゼンベルクとノルトマルクが無用の諍いを起こすことは誰の得にもなりません」
「ではそれを先にハイゼンベルクへ伝えていただきたい。あちらが国境へ兵を集めていることは挑発ではないのですか」
軍務省次官が言う。
「彼らは演習と説明しています」
「では、こちらも演習と説明すればよろしい」
「それでは緊張が高まります」
そこからの議論も、まったく新しいものではなかった。
宰相は、何も言わずにその一向に進まない議論を聞いていた。
というより、全員の喋る時間を測っているように見えた。
やがて彼は、机上の一枚を取り上げた。
クラウスが昼前に出した要点紙だった。
嫌な予感がした。
「ライフェンベルク軍務官」
「はい」
「君の要約を読んだ」
「恐れ入ります」
「この一行目はよい」
宰相は紙を指で叩いた。
こういう時にだけ褒められても少しも嬉しくない。
「読み上げろ」
「……ここで、ですか」
「ここでだ。私が読んでもよいが、君が書いたのだから君が読め」
逃げ道はなかった。
クラウスは立ち上がり、自分の紙の一行目を見た。
なぜもう少し柔らかく書かなかったのか。
午前の自分を少し恨んだ。
「南部諸邦所見の要点ですが。いずれの邦も、勝つ側が決まってから態度を決めたい、と読めます」
部屋が静まった。
南マルク連絡代表の顔が、明らかに硬くなった。
宰相は満足そうではなかった。
ただ、不満そうでもなかった。
「諸邦代表殿」
宰相は南マルク連絡代表を見た。
「どうかね」
「その表現は、あまりに乱暴です」
「反論になっていないな」
宰相は即座に言った。
「乱暴かどうかではなく、間違っているかを聞いている」
南マルク連絡代表は口を閉じた。
気の毒に、と思った。
宰相の前で表現の礼儀を盾にするのは、紙で砲弾を受け止めるようなものだった。
「では、軍務官。なぜ鉄道順に並べた」
ここでこちらに振るのはやめてほしいが、並べた理由を言う他ない。
「はい。各邦の政治的立場で分類しようとしましたが、どの邦も明確な立場を示しておりませんでしたので」
「なるほど、それで?」
「一方で、具体的な利害は鉄道と通商に出ています。関税収入、通過貨物、石炭供給、塩の中継、鉄材輸送。それらは曖昧な外交文より正直でした」
言ってから、少し言葉が過ぎたかと思った。
だが止めても遅いし、回りくどい言い方を好まない人間が議長で司会者だ。
「つまり、口では平和を謳い、紙の端では収入を守っているということかな」
クラウスは一瞬迷った。
その通りですと言うと角が立つし、違いますと言うと嘘になる。
「……少なくとも、所見の中で最も具体的な部分はそこでした」
「よろしい」
もっと本音を言うのであれば、そこ以外に具体的なことは書いていなかった、になるのだが。
宰相は紙を机へ戻した。
「では、南マルク諸邦の態度はこうだ。戦えば困る。負けても困る。勝つ側を見誤るのも困る。鉄道が止まるのは困る。つまり、全部困る。難しい立場だ」
誰も否定しなかった。否定しようがないからだ。
諸邦代表は、宰相をもはや隠さずに睨みつけていた。
まあ、気持ちはわかる。
「我々も同じだ」
バルクは続けた。
「ただし、こちらは困ると言って座っていればよい立場ではない。ハイゼンベルクの狙いがどうであれ、国境に兵を集めたのであれば、ただ指を咥えて眺めているというわけにはいかん」
宰相は一度だけ机上の紙を見た。
それから全員を見渡した。
「軍務省。予備兵召集の準備は進めよ。ただし名を変えろ。演習補助に伴う段列の再編成、でよい。財務省がそれなら通すかどうかは、今は問わん。通らなければその時に私が考える」
財務官が何か言いかけた。
宰相はそちらを見ず、続けた。
「鉄道局。南東線の軍用枠は段階的に広げろ。初週は通常の増便扱いで構わん。翌週以降、演習物資の名目で拡大する。民間貨物の調整が出るなら事前にこちらへ出せ」
鉄道局の局長は頷いた。
概ね納得したような顔だった。
「外務省。ハイゼンベルク公使館には、従来通り演習の範囲であると伝えよ。嘘は言わなくてよい。こちらの演習の範囲が広がっただけだ」
外務省連絡官は紙にペンを走らせていた。
異論がないというより、異論を挟む隙がなさそうだった。
「南マルク諸邦同盟代表殿」
宰相は最後にその方を向いた。
「先ほどの要約は、無礼であったかもしれん」
代表は、一瞬だけ謝罪が来るのかと眉を下げた。
「しかし間違ってはいなかっただろう」
けれどその言葉に鼻白んで、黙ったまま宰相を見ていた。
「同盟の立場は理解している。両方にいい顔をしたい。そして戦争は望んでおらん。しかし、戦争を望まないことと、何もせずに済ませることは違う。鉄道の枠を少し動かす程度のことは許容していただく。そのかわり、動かした分の通商上の不利益については別途協議する用意がある」
代表は、少し間を置いてから答えた。
「持ち帰ります」
「結構」
クラウスは黙って座っていた。
指示の通り、求められていないのだから喋らない。
それは楽だった。
「以上だ」
宰相は立ち上がらず、座ったまま次の紙を取った。
それが終わりの合図だった。
◆
出席者が順に立ち上がる。
軍務省次官が小さく息を吐いた。
安堵ではなく、仕事が増えた方の溜息だった。
他の出席者が去ったのを見てクラウスも退出しようとした。
「軍務官」
しかし、紙に目をやったままの宰相に呼び止められた。
「座っていろ」
壁の時計をちらりと見たが、この人の前で時刻を気にしても仕方がなかった。
「今回の一行目はよかった」
「恐縮です」
「褒めてはいない。役に立ったと言っている」
その二つの違いがよく分からないのだが、まあ褒められてはいないのだろう。
「軍人の要約というものは長い。その点君は筋が良い」
「……宰相閣下の御指導の賜物かと」
「世辞はいらん。突き返しただけだ」
そうですね、とは言えないので頷いておいた。
なんというか、早く帰りたい。
「一つ聞く」
宰相は紙を置いた。
「あの代表は、帰って何と報告すると思う」
「……私に政治的な判断は」
「政治の話はしていない。あの男の顔を見ていたかと聞いている」
見ていた。気の毒にとすら思って同情していた。
だがそれは言えない。
「はい、見ておりました」
「どう見えた」
「……怒っておられました」
「怒りの種類だ。何に対して怒っていた」
クラウスは少し考えた。
あの代表は要約が乱暴だと言った。しかし間違っているとは言わなかった。
「要約について。ただし内容にではなく、場に出されたことに対してかと」
「なぜそう思う」
「間違いだとは仰いませんでしたので。乱暴だとは言われましたが」
「よろしい」
宰相はそれだけ言って、紙を机へ戻した。
クラウスは、それで話が終わったのだと思った。
「君には南マルクへ行ってもらう」
だから、返事が一拍遅れた。
「……私が南マルク諸邦同盟へ、ということでしょうか」
「それ以外にあるなら、ぜひ地図局へ教えてやりたまえ」
ひどく答えにくい言い方だった。
クラウスは黙って続きを待った。
「本日の決定を説明する。演習補助に伴う段列の再編成、南東線の軍用枠拡大、通商上の不利益については別途協議。名目はそれでよい」
「名目はと言いますと、実際には別の目的があるように聞こえます」
「そう言っている。実際には、どの邦が何に本当に腹を立てるのかを見てこい」
宰相は机上の要点紙を指で叩いた。
「彼らは平和を望み、友誼を重んじ、伝統を尊ぶ国家らしい。だが怒るところだけは正直だ。鉄道か、関税か、塩か、石炭か、それともハイゼンベルクの顔色か。君はそれを聞いてこい」
「私に、そこまでの判断ができるとは」
「決めるな。約束するな。謝るな。宥めようともするな。君に求めているのは耳だ。口ではない」
「……耳、ですか」
「そうだ。相手が怒ったら、何に怒ったかを覚えて帰ってこい。表現に怒ったのか。金に怒ったのか。列車に怒ったのか。伝統を軽んじられたことに怒ったのか。それが分かれば、こちらも味方にする相手と払う場所を間違えずに済む」
言い方は乱暴だったが、意味は分かった。
分かってしまったのが少し嫌だった。
「軍務省から人を出す方がよろしいのでは」
「軍務省の人間は、すぐ軍団と国境の話をする。外務省の人間は、相手の機嫌を取る。鉄道局だけを出せば、貨車の話しかしない」
宰相はクラウスを見た。
「君はそのどれでもない。だから行け」
それは評価なのか、便利な雑巾扱いなのかの判別が難しかった。
おそらく後者にかなり近いと思った。
「出発はいつでしょうか」
「追って伝える。鉄道局の控えはまだ半分か」
「……はい」
「なるべく早くに全部読め。南マルクへ行く人間が、どの線路で誰の荷が止まるのかも知らんでは、耳どころか飾りだ」
「……拝命いたします」
「今日も定刻上がりか、君は」
「はい。友人と会う約束をしておりますので」
「よほど働きたくないと見える」
「……いえ、業務は終わらせてから退府いたします」
宰相はそこで少し間を置いた。
間を置くこと自体が珍しかったので、まだ何かあるのかと身構えていた。
「たしか君は未婚だったな」
「……はい」
「相手を探してはいないのか」
「今のところは。任務に邁進する所存です」
「私の娘はどうだ」
「…………」
胃に悪い冗談である。
この人には多分、諧謔の才能がほとんどない。
「……それはまことに光栄であります、宰相閣下」
「ふん」
その反応が面白くなかったのか、宰相は鼻を鳴らしただけだった。
それきり会話は終わったので、クラウスはただ一礼だけして部屋を出た。