面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました   作:濃厚とんこつ豚無双

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固有名詞がかなり出るので再度大陸図を置いておきます。

【挿絵表示】



第三話 予防戦争

ハイゼンベルク帝国首都、シェーンハルト宮の控えの間。

そこで陸軍卿コンラート・フォン・ヘッツェンドルフは、四十分待たされていた。

 

宮殿の時計は正確である。

正確に、待たせるためにある。

 

侍従が二度、手つかずの茶を替えに来た。

膝の上の図面の筒だけは、誰にも渡さなかった。

 

御前会議の間に図面を掛けたい、と式部官へ申し入れたのは三日前である。

壁布が先帝の御代のものですので壁に鋲は打てません、と式部官は言った。

結局、建付けの悪い画架を用意された。

 

呼び出しの声がかかったのは、さらにその二十分後だった。

 

 

 

 

会議の間の壁には、歴代の皇帝が掛かっていた。

どの眼も、卓ではなく窓の方を見ている。

 

用意された画架は、金箔の貼られた肖像画用のものだった。

国境の鉄道図は巻き癖のまま、その上で端を垂らしていた。

 

外務卿ヴァルデンフェルス伯と、財務卿レーヴェンタール男爵は、すでに席にいた。

書記官が一人、卓の端で羽根ペンを整えている。

 

侍従長が、扉の前で息を吸った。

「神の恩寵による、ハイゼンベルク皇帝にしてロートマール王、エスターライン大公、アルテンブルク辺境伯、聖イシュトラン冠の守護者、ダルマート公、ならびに帝国諸邦の最高保護者、フランツ・カール二世陛下の御出座!」

 

陛下は、古い連隊長の上着で現れた。

頬髯は灰白、背筋は定規のようにまっすぐで、胸の勲章は最小限である。

陛下が座り、全員が座った。

 

「始めよ」

 

外務卿が書類を起こした。

「はい、国境の連邦軍の動きについてです。ノルトマルク外務省より、回答が参っております。――国境地帯における兵力の集積は、恒例の夏季演習である。疑義あらば、演習時程表の閲覧に供する用意がある。以上です」

「……時程表を見よ、か」

陛下は短い鉛筆で、余白に何かを書いた。

 

「公使館の所見では、透明性を示す誠意の表明であろうと」

外務卿が続ける。

 

「誠意ではありません。広告です」

その言葉を遮るように声を上げた。

それこそがノルトマルクのやり口なのだ。

「能力を見せて黙らせる。ああいう文書はそのためのものです。即ち、彼らが最も自信を持つ部分が時程表だということでもある」

 

「……ならば陸軍卿の見立てを聞こう」

陛下の言葉を受けて、画架の図面を広げた。

紙の端が、金箔の縁から垂れた。

 

「五年前、ルサントの戦役の折、連邦は二個師団を六日で国境へ並べました。当時、彼らの西部の幹線は三本でした」

指が、国境に沿って動く。

「現在、わが帝国との国境方面へは四本。第五の線が、来春に通ります」

さらに自国の側へ滑らせる。

「我が方は一本。単線です。動員の完結は、連邦が十六日、我が方が三十日。この差は将兵の勇怯と関わりがありません。線路の本数であります」

 

財務卿が眼鏡の縁ごしに図面を見た。

「複線化の予算請求なら、卿の覚書で読みましたな」

「十四か月、財務省で眠っている覚書です」

「人聞きの悪い。順番を待たせているのです。予算は有限でしてな」

 

そう言い捨てた財務卿には目をやらなかった。

陛下だけを見た。

決裁は、この卓のただ一点からしか下りない。

 

「陛下。本年の夏季演習は例年より厚めに組んであります。その差を平時に埋めるには、それしかありませんので。問題は集めた兵を帰すのか、前へ出すのかです」

「前に出す、か。卿はその言葉を好むな」

 

「機先を制さなければなりません」

羽根ペンの音が、一つ遅れた。

「問題は、戦争を望むか否かではございません。戦争が来る時期を、我らが選べるか否かであります。彼らが第五の線を得る前に。ベルヴァーニュが動けぬうちに。今なら短い戦争で片付きます」

 

外務卿が、めくる必要のない書類を一枚めくった。

財務卿は眼鏡を外し、丁寧に拭き始めた。

 

「またそのお話ですか、ヘッツェンドルフ陸軍卿」

と財務卿が言った。

「卿の仰る短い戦争とやらの手形を、誰が引き受けるのですかな。先年の辺境鎮定の払いがまだ残っている。ロートマール議会は新税を呑みませんぞ」

「武装したまま三年睨み合う方が高くつきます。それに戦は、勝てば払わせられる」

「ええ、まさしくその通りでしょう。勝てば払わせられる。美しい言葉です。負けた時のことなど考えなくてよい」

 

「五年後は今よりも分がさらに悪くなる。故に、今と申し上げている」

そこで、初めて財務卿を見た。

この男は賢すぎて鈍いのだ。平時の正しさだけで財政を考える悪癖がある。

「私は勝利を保証する者ではありません。ただ、今日の勝算が明日の勝算より大きいことだけは申し上げられます」

 

外務卿が、穏やかに割って入った。

「まずその前に、話し合いで済む話かと存じます。南マルクの二、三の邦から、諸邦会議開催の内意がすでに届いております。最高保護者の御名において会議を召集なされば、諸邦は出席を拒めません。南マルクを引き続き庇護し、ヴォルスカヤとも協調を保てば、孤立するのはノルトマルクです」

 

「諸邦が会議で本当に忠誠を誓っているとでも?」

そんなはずがない。

であれば、南マルク諸邦が公然とノルトマルクとハイゼンベルクの両方を秤にかけるような外交をするはずがない。

「ノルトマルク主導の連邦へ組み込まれることを嫌う諸邦は、まだ残っております。今なら、彼らは我々の側に立つ。残る諸邦も、勝った側に従う。ならば先に勝てばよろしい。それこそが本当の庇護というものです」

 

「それでは、あまりに軍事に傾きすぎる」

外務卿の声は、なお穏やかだった。

その平穏さは、むしろ感情を刺激した。

「列国の感情というものは、剣を見せれば逆に硬くなる場合がございます。ここで会議を開けば、少なくともハイゼンベルクがなおマルクにおける秩序の中心であると示せる。陸軍卿の仰りようであれば、我々の側から戦争を望んでいるかのように見える」

 

彼の言葉は正しい。だが、遅い。

正しさは、いつも半年遅れて卓に届くのだ。

それなのに、この部屋の誰もが急がない。

図面の端を押さえる指に、わずかに力が入った。

 

「外交交渉で時間を稼ぐこと自体には異論ございません。ただし、その時間を敵もまた用いるという事実をお忘れなきよう」

思わず、挑むような口調になってしまったが、構わず続けた。

「連邦のバルクはアウレリアにもヴォルスカヤにも手を伸ばしております。平和を望んだ結果、包囲されるのが我々であるかもしれないとは思いませんか」

 

「ふむ……」

外務卿は苦々しい顔を隠さなかった。

 

「連邦の新聞は、近頃こう書くそうですな。――マルクの旗手はもはや古い冠ではない、と」

外務卿に向けた言葉だったが、それを聞いて陛下は初めて書類から顔を上げた。

 

「マルクの旗手、か」

短く繰り返す。

「あの連邦が、いつからマルクを代表することになった」

 

それきり、視線は書類へ戻った。

鉛筆が動く音だけがした。

陛下は、誰に資格があるかを問うた。

だが真に問うべきは、現に誰が旗を握りつつあるかなのだ。

 

「畏れながら、陛下。ノルトマルクはもはや小国の寄せ集めではございません。鉄道、借款、新聞、動員表、それらを一つの意志へ束ね得るなら、それはすでに巨大な国家であります」

この言葉が届かなくても、伝えねばならぬ。

ノルトマルクは脅威であり、ハイゼンベルクの存亡に関わるのだと。

「放置すれば、かの国は軍事的脅威である前に、南北マルク統一という思想的脅威となります。砲兵で撃てぬ敵ほど、後には高くつきます」

 

「では思想を撃つために、砲兵を動かすのか」

 

陛下の声には、皮肉も怒りもなかった。

本気で訊いている。

伝わらぬことがこれほど歯痒いとは、思わなかった。

 

「いいえ。思想が諸邦の兵站と結びつく前に、政治の形を戻すのです。故にこそ、これは侵略ではなく予防なのです」

 

「ほう」

陛下は短く息を吐いた。

「卿は、一体何をどこへ戻すつもりか」

 

一瞬だけ黙った。

それは迷いではなく、言葉を剥き出しにする前の間だった。

 

「我が帝国が、マルク諸邦の最高保護者であるという事実へであります」

書記官の羽根ペンが、また一度止まった。

「陛下。臣が憂うるのは、単に勝敗ではございませぬ。かくも古き王統が、何もせぬまま朽ちていく――その不名誉にこそ、臣は耐えられぬのでございます」

 

会議の間に、わずかな沈黙が落ちた。

誰もが気付いていてあえて言葉にしなかったことを、わざわざ卓上へ置いたのだから、当然ではあった。

 

外務卿が静かに言った。

「臣下が陛下に戦を奏上するのは、いつの世でも勇ましく聞こえます。しかし後で血を流すのは、議場の言葉ではなく兵です」

 

「臣が陛下に平和を申し上げるのは容易でございましょう」

即座に返した。

今流れぬ血は、後で更なる量を要求する。

「陛下のお耳にも優しい。しかし、臣が見ておきながら申し上げぬ危険は、忠誠ではなく怠慢であります」

 

財務卿が小さく息を吐いた。

「卿は、慎重を怠慢と呼ぶのですかな」

「小さな戦争を恐れて大きな戦争を招く。その手の慎重を美徳とは呼びませぬ」

「私からすれば、わざわざ小さな火に薪をくべているように思えますがな」

 

その言葉に、この場で言い返すことはできた。

だが、レーヴェンタールを論破しても貨車は増えない。銃も増えない。議会も金を出さない。

陛下がそこで口を開いた。

 

「陸軍卿」

「は」

「卿の付表だが。第四葉の車両数と、別紙の車両数が合わぬ」

「別紙は、徴発予定の民間車両を含んでおります」

「含むなら含むと書け。それとも、民間車両の徴発は動員令と同時に終わるのか」

 

鉛筆が、余白に短く走った。

その一言で、会議の温度が下がった。

 

「恐れながら」

外務卿が、綴りの下の方から一枚を抜いた。

「ベルヴァーニュ宮廷の出方ですが。ルサントの一件以来、あちらは静かです。事と次第によっては、内々の接触も」

 

陛下の鉛筆が止まった。

「成り上がりの冠と、何を話すことがある」

 

外務卿は一礼して、その紙を綴りの底へ戻した。

陛下が書類を揃えた。

それが終了の合図となった。

 

「諸邦会議は、催すがよい。式次は外務卿が整えよ」

「は」

 

「演習は、規模を変えず続けよ。築城の費目は財務卿と詰めよ。銃は――」

陛下はそこで一拍置いた。

「銃は、次年度とする」

 

顎がわずかに動くのを、止められなかった。

 

「動員と読まれ得る紙は、一枚も作らせるな。一枚もだ」

「……陛下。来春、第五の線が通ります」

「聞いた」

「明日には、今日の勝算はございません」

「聞いた」

「陛下の御代に剣を抜くことを、臣は軽々しく奏上しているのではございません。むしろ、次代により大きな戦を遺さぬために――」

 

陛下は立ち上がった。

その動作だけで、言葉は切られた。

 

「卿の忠勤、大儀である」

それが、裁可のすべてだった。

 

 

 

 

陸軍省への帰り道、長い廊下を、ヘッツェンドルフは歩幅を変えずに歩いた。

窓の外、中庭で衛兵の一隊が捧げ銃をする。

 

答礼を返した。

銃は、槊杖の頭までよく磨かれていた。

宮殿で見る帝国は、まだ美しかった。

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