面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました 作:濃厚とんこつ豚無双
夕刻、宣言通り仕事を定刻で切り上げたクラウスは、王都将校会館の食堂にいた。
軍務省から歩いて五分。統帥府からなら七分。宰相府からは十二分ほど。
石造りの建物は古く、正面玄関の上には先々代の国王から下賜されたという紋章が掛かっている。
食堂の壁には歴代の連隊旗と、もう誰も正確な戦場名を覚えていない会戦画が並んでいた。
窓際では退役将官が三人、葡萄酒を飲みながら現役将官の悪口を言っている。
部屋の奥では若い中尉たちが、隣卓へ聞こえぬ程度の声で笑っていた。
案内されたのは、食堂の奥にある二人掛けの小卓だった。
メルテンス大佐は、すでに席に着いていた。
襟元には相変わらず乱れがなく、卓の端に置かれた手袋まで左右がきちんと揃っていた。
「お久しぶりです、クラウス君」
「メルテンス大佐殿、ご無沙汰しております」
「私的な場ですから、そう畏まらずとも。ハインリヒと呼んでくださってもよろしいのですよ」
「……遠慮しておきます。未だに、その好意の理由があまり分かりませんので」
「それは残念ですね。こうして王都へ寄るたびに会っているというのに」
「いえ、大佐殿とのお時間は楽しいのですが」
「では、次は君から誘ってください」
「善処いたします」
「軍人の善処ほど信用できない言葉もありませんな」
メルテンスは口元だけで笑った。
実際、この大佐に評価される理由は今もよく分からない。
「ハルトゥング中佐にも声を掛けたのですが、忙しいと一言で断られてしまいました」
「本当にお忙しいのでしょう」
「ええ。誘いを断るために嘘を考えるほど暇ではありませんからな。それに興味が無ければそう正直に仰るでしょう」
給仕が二人分の水と、薄く切った黒パンを置いていく。
注文はすでに済ませてあるらしい。
相手に選ばせると時間のかかるものについては、相手の好みを覚えた上で先に決めてしまう。
実に参謀向きで、このあたりは好き嫌いの分かれそうな性格だった。
メルテンスは黒パンを一枚取り、籠をクラウスの方へ押した。
「先ほどの話ですが」
「何でしょう」
「私が君を誘う理由です」
「答えていただけるのですか」
「君は、私の仕事を増やさなかったからですよ」
クラウスはパンへ伸ばした手を止めた。
どうにも、褒められているとは思えなかった。
「……それだけですか」
「軍人同士の友情には十分でしょう。西部総監府にいた人間なら、なおさらです」
「その基準であれば、大佐殿の御友人はかなり少なそうですね」
「だから君は貴重なのですよ」
メルテンスは水を一口飲んだ。
「そして何より、見ていて飽きない」
「……つまり、貴重な観察対象だと」
「いいえ。素晴らしい友人だということですよ」
「……まことに光栄ですね」
今度はクラウスが口元を少し動かした。
雑巾の次は珍獣扱いだ。この国の人間はどうにも感覚がおかしいと思う。
◆
王都将校会館の料理は軍務省の食堂より少し上等で、貴族の晩餐よりずっと早く出る。
最初に運ばれてきたのは、燻製鱒だった。
薄く切った胡瓜と、白いクリームが添えてある。
悔しいが、自分の好みではあった。
「そういえば、宰相府はいかがですか?」
「統帥府が人道的な職場に思える程度には、よくできた職場ですよ」
「どうにも君に向いていそうですね」
「冗談でもやめてください。バルク宰相を見るだけで、最近は胃のあたりが重くなってきました。今日も七時前に呼ばれましたので」
「軍人は寝台の中でも命令を待て、と教わったでしょうに」
「本当にその心構えを要求されますので、あまり笑える冗談ではありません」
軍学院でさえ求められなかった心構えである。
それを戦場ならまだしも、なぜ国家の中枢で寝台の中まで命令を待たねばならないのか。
「それは失敬。しかし、君は残念ながら、かなり気に入られているようです」
「宰相閣下に?」
「ええ。宰相府付軍務官という職は、実質的には君のために置かれたようなものですから」
フォークの先が皿の縁に触れ、思ったより高い音がした。
「……冗談だとおっしゃってほしいのですが」
「肩書自体は以前からあります。ただ、バルク宰相が常勤の席を置いたのは今回が初めてです。軍務省で定員表を見ました」
「前任者からの引継ぎがなかったのは、そういう理由だったのですね」
「おや。当然ご存じかと」
メルテンスは数秒、クラウスの顔を見ていた。
それから、肩が小さく動いた。
「ははは! いや、失敬。笑うところではありませんでしたな」
「せめて笑い終わってから言ってくれますか」
クラウスは匙を置いた。
もうこの大佐が笑ってようとどうだろうといいが、それにしてもその話は初耳だった。
「こちらは笑い事ではありません。職務の範囲すら、未だによく分かっていないのですから」
「宰相閣下の近くにいて、職務の範囲を決められる者など御本人以外にはおりませんよ。ブリュック自由市の疫病騒ぎ以来、中央の人間は君を便利に使う理由を覚えてしまったのでしょう」
「あれこそ、巻き込まれただけです。港へ入る荷を分け、病人の隔離場所を決め、市参事会と駐屯軍の意見を揃えただけで」
「それを一日で通した」
「一日ではありません。翌朝までかかりました」
「訂正する場所はそこですか」
クラウスは答えなかった。
給仕が空いた皿を下げ、二人の間へ新しい水差しを置いた。
「いい加減、君も少しは気づいているでしょう」
「……ええ。少しは」
それは前なら、素直に口から出なかった言葉だった。
メルテンスもそこには触れず、黒パンを小さくちぎった。
「そうやって好かれるのもまた才能なのですよ。私はどうにも、それが足りないらしい」
「ではまず、その皮肉癖を直してはいかがでしょうか」
「私に窒息しろとおっしゃるのですか、君は」
「そこまで重大なものとは存じませんでした」
「私の呼吸器官の一部ですのでね」
クラウスは少し間を置いてから言った。
「次は、南マルクへ行くことになりました」
「おや」
メルテンスが目を上げた。
「次の語り草になりそうですな」
「ただの使い走りです」
「宰相閣下が使い走りを選ぶ時は、使った後に何が残るかまで見ているでしょう」
「残念ながら、そのように好意的に受け取れる境地には至っておりません」
「何を命じられたのです」
「詳細は申し上げられませんが、耳だけ持っていけ、と言われました」
「相変わらず乱暴で、かなり正確な命令ですな」
メルテンスは、なおも楽し気に続けた。
「オトフリート二世陛下への謁見予定はあるのですか?」
「もちろん。南マルク諸邦同盟の盟主であらせられますので」
「大衆の呼び方では、放蕩王陛下でしたかな」
「大佐殿」
「失礼。いっそ演劇の話でもされてはいかがです。陛下は政治より舞台装置の話に長くお付き合いくださるとか。案外気が合うのでは?」
「ご冗談を。ただ聞いて、帰るつもりです」
「君がそう言うと、また何かを持ち帰りそうですが。ぜひ実際にお会いした感想を聞かせてください」
「まあ……ご縁があれば」
クラウスはメルテンスの顔を見た。
口元は隠しきれずに曲がっていた。
「……やはり、面白がっておられませんか」
「ええ、面白がっております。流石は、我が数少ない友人だとね」
◆
主菜は牛肉の赤ワイン煮込みだった。厚く切った肉の上に、黒いソースがかかっている。
皿の脇には酢漬けのキャベツと、丸く整えたじゃがいもの団子が二つ。
湯気と一緒に、胡椒と肉の匂いが上がる。
クラウスが肉へナイフを入れながら訊いた。
「大佐殿は、今回は何の御用で王都へ?」
「ハルツの新式小銃です。軍務省の装備審査会へ呼ばれました。西部で行った運用試験の報告ですよ」
「どうでしたか」
「銃としては、よくできています」
「連邦の銃としては?」
メルテンスが口元を少し歪めた。
「君も宰相府に染まってきましたね。聞き方が悪くなった」
「大佐殿に染まったのです」
「おや。そう来ましたか」
ハルツ邦軍が試験している新式小銃については、クラウスも資料で読んでいた。
紙薬包を銃尾から薬室へ入れ、長い撃針で薬包内の雷管を打つ。
従来の前装銃より発射が速く、兵は身体を起こさずに次弾を装填できる。
紙の上では、ずいぶん便利な銃だった。
「一分間に五発撃てると聞いています」
「試験場でなら、六発撃つ熟練兵もいました」
「かなり速いですね」
「ええ。問題は、一分間に六発撃てる兵は、十分間に六十発使いたがることですが」
「携行弾薬は」
「現行案では九十発。軍務省の一部は百二十発を持たせたいと言っています。珍しく私も中央案に賛成です」
「一人三十発増やせば、千人で三万発ですか」
「その数だけで頭が痛くなりますね。弾だけならまだ運べますが、紙薬包は濡らせません。包み、箱へ収め、箱をさらに覆う。その箱を兵と同じ速度で動かす必要がある」
メルテンスは額へ二本の指を当てた。
珍しく、演義の色はなかった。
「軍務省は、一人の兵が二人分撃てると言う。輜重監部は、一人の兵が三人分の弾を食うと言う。兵士は撃てるだけ撃たせろと言う。まあ、そのようなものです」
「大佐殿は、どう評価されております」
「採用には賛成です。発射速度もそうですが、伏せたまま装填できることの方が大きい」
声から、少しだけ食事の温度が消えた。
「従来銃の兵は、装填のたびに身体を起こします。しかし後装式の新式銃なら、地面へ伏せたまま撃ち続けられる。敵から見える身体の面積が違う」
「射程や威力でも上なのですか?」
「いいえ。今のところ、遠距離では良質な前装ライフルに及びません。薬室の密閉も十分ではない。針は折れる。火薬の汚れにも弱い。整備を怠ると、すぐに機嫌を損ねます」
「では、決定的なものではないのでしょうか」
「そもそも兵器一つで戦争が決まるほど、戦争は親切ではありません」
メルテンスは肉を半分に切った。
「ですが、使い方を誤らなければ強い。散開した歩兵が伏せたまま火力を維持できる。敵の突撃を近距離で受ける時にも有効でしょう。ただし、兵が撃てるだけ撃てばよいと覚えれば、最初の一時間で弾がなくなります」
「適切な射撃統制が必要だと」
「ええ。そして射撃統制を変えるなら、将校と下士官の教育も変えなければならない。銃だけ配れば済む話ではありません。もっとも、肝心の銃も全く足りておりませんが」
「どの程度なのです」
「西部軍の数個大隊へ配って終わりです。ハルツの工廠だけで連邦全軍分を作らせれば、何年かかるか分かりません」
クラウスは皿の上の肉を切りながら、十一の邦軍へ同じ銃を配るまでに必要なものを順に考えた。
新しい銃より先に、必要な会議の数が増えたので、そこで考えるのをやめた。
「採用は決まりそうですか」
「銃そのものについては、かなり前向きです。ただし、ハルツ式として採用するのか、連邦式として採用するのかで揉めるでしょう」
「同じ銃では?」
「銃は同じです。ですが連邦軍というものは――」
「銃の名前を決めるだけで、一年は会議するからな」
突然、横から低い声が入った。
食堂奥の小会食室から、数人の士官が出てきたところだった。
その先頭にいたのは、軍務省長官エーベルハルト・フォン・ローデン大将である。
前線の騎兵将校をそのまま白くしたような男だった。
白髪も、短く刈り込まれた口髭も、老いというよりは、余分な色だけを削ぎ落とされたように見えた。
略装の軍服姿で、片手には手袋。後ろには書類鞄を持った副官が一人ついていた。
二人は、ほとんど同時に立ち上がった。
「ローデン閣下」
メルテンスが敬礼した。クラウスもそれに続く。
ローデンは二人を見比べ、それから二人掛けの小卓を見た。
「座っていろ。私的な席だろう」
ローデンは隣の卓から椅子を一脚引いた。
副官が手を伸ばしかけたが、片手で退け、自分で卓の脇へ置く。
「閣下がいらした時点で、少々事情が変わったようにも思われますが」
メルテンスが言った。
「勝手に割り込んだ無礼な上官に、気なんざ遣わんでいい。すまんが十分だけ席を借りるぞ、メルテンス」
「でしたらご自由に。本当に十分で済めばよろしいですが」
「おいおい。本当に気を遣わん奴があるか」
ローデンはそう言いながらも、少し笑っていた。
「いや、お前のそういうところは気に入っているが」
それからクラウスへ顔を向けた。
「久しぶりだな、ライフェンベルクの。最後に会ったのは、お前が軍学院へ入る前だったか」
「は。ローデン閣下」
「畏まらなくていい、つっても難しいか。お前を見るとエルンストやレオポルトの爺さんを思い出して、俺も少々やりにくい」
クラウスは返事を探したが、すぐには出てこなかった。
ローデンの目が、ほんの少しだけ動いた。
「悪い。死んだ親父の話を急に出されても困るな」
「いえ。そのような」
「爺さんは今も元気なのか」
「お蔭様で。昨冬も庭木の剪定について、庭師と揉めたと聞いております」
「あの爺さん、そろそろ八十だろう。だいたい、未だに小言を季節ごとに手紙で送ってくるんだぞ。信じられるか?」
「文を書くのが、最近の祖父の趣味のようですから」
「厄介な老後だな。昔みたいに拳が飛んでくるよりはましだが」
「……それは、あまり想像できません」
「それはお前の前じゃ、随分と猫を被っているからだ。あれは酷い上官だったぞ」
ローデンは給仕へ水だけを頼んだ。
給仕が離れるのを待ち、今度はメルテンスへ向き直る。
「で、銃についてだ。採る価値はあるか」
「軍務省での報告に記した通りです」
「それでは伝わらん部分を、わざわざ聞きに来たんだよ」
「でしたら、採る価値はあります」
メルテンスは即答した。
「ただし、補給。次に教育。その後に、工廠間の互換性は最低限必要です。邦ごとの名誉や名前はその後ですが」
「それをそのまま審査会で言ってくれれば、俺も随分楽なんだが。なんだって設計者の自己紹介を最初に三十分挟むんだ。ラングホルト技術少佐は何を考えてやがる」
「あの方は……変わり者なのです。それにそこを省いて正直に申し上げるなら、銃を採るなら軍も変えて面子と名誉を後回しにしろ、とだけになりますが」
「そりゃいいな、今度はそう言ってやれ」
ローデンの水が運ばれてきた。
彼は一口飲み、クラウスを見た。
「ライフェンベルク。十一邦へ同じ銃を配るなら、お前は何から決める」
「薬包の寸法と検査規格を先に決めます」
「銃そのものではなくか?」
「銃の形が同じでも、邦ごとに薬包の寸法や火薬量が違えば、同じ弾薬を使えませんので。撃針と閉鎖機構の交換部品にも、共通の検査器具が必要です」
「ほかには」
「弾薬箱の寸法も揃えた方がよいかと。箱の大きさが違えば、一両の貨車に載せられる数が変わります。各邦から届いた弾薬を積み替える度に数え直すことになりますので」
ローデンは、しばらくクラウスとメルテンスを交互に見た。
「なるほど。お前たちはそういう具合に話が合うのか」
◆
食堂の入口近くで、新聞売りの少年が夕刊を補充していた。
一面には、遠くからでも読める太い見出しがある。
『マルク統一は歴史の要請か』
メルテンスが、その見出しへ目をやった。
「銃一丁でこの有様だというのに、新聞ではマルク統一だそうですな」
「新聞記者ってのは便利な商売だ。見出し一つで、君主も議会も国境も消せる」
「宰相府では、その類の噂はないのですか?」
「ありません」
クラウスが即答すると、ローデンが眉を上げた。
「そりゃまあ、バルクが嫌いそうな言葉だ。我らが一つの大マルク、ってな具合だからな」
「そのような言葉を口にすれば、おそらく午後いっぱい罵られます」
「午後で済むか?」
「翌朝まで続くかもしれません」
ローデンはメルテンスと顔を見合わせ、同じように笑った。
「新聞は、一つの民、一つの国と書いておりますが」
「軍務省にあるのは、邦ごとに違う召集簿と、工廠ごとに違う検査印と、隣の邦から届いた弾薬箱を開ける前にまず疑う兵だけだ」
「では、軍務省にも統一構想はないと」
「ない。だいたい、今俺がこうして各邦軍って奴をなんとか連邦軍として制度化しようとしてるのに、この上南マルクやらハイゼンベルクの北やらが自分たちも仲間に入れてくださいって顔で入ってきてみろ」
「どうなりますか」
「俺が宰相府を焼くね。議事堂でもいいが。宮殿は流石に焼けんからな」
クラウスは水へ手を伸ばして言った。
「統帥府の時刻表も、まだ完全には一つになっておりません」
「そういうことだ。線路があっても管轄が違う。そういう国だからな。共通の敵でもいなきゃまとまらんのは大昔からだ」
ローデンは懐中時計を出した。
「メルテンス。明朝八時、もう一度軍務省へ来い。やはり審査会でも今の話をしろ。装填の早い銃を採れば火力が二倍になると思っている連中が、まだ何人かいる」
「承知しました」
「射撃統制の教育案も付けろ。訓練課が所管外だと言うなら、明日から所管にする」
「今日の会議でも、同じことを申しておりましたが」
「だから明日、言わなくさせる。各邦の独立性のために訓練を統一しないって便利な言葉をいつまでも使うからな、この機会に何とかする」
ローデンは立ち上がり、クラウスを見た。
「今夜ここで聞いたことは忘れて構わん」
「は」
「どうせ、バルクから同じ話が来るかもしれんがな。随分とお前を気に入っていたぞ。奴にしては本当に珍しいことにな」
「……光栄であります」
それだけ言い、ローデンは二人へ短く手を上げた。
気に入っているなら、まずは待遇の改善から始めるべきだと思うのだが。
知ってはいたが、どうにも宰相閣下に一般的な感性は通用しないらしい。
食堂を出ていく背中を見送り、メルテンスが懐中時計を開いた。
「十九分です」
「十分ではありませんでしたね」
「長官閣下にしては、かなり正確な方でしょう」
メルテンスは椅子を元の卓へ戻した。
ローデンが座っていた場所には、水の輪が一つ残っていた。
◆
そのうち、食後のコーヒーが運ばれてきた。
香りは濃いが、一口飲むと、長く火に掛けすぎた苦みがあった。
カップを置くと、メルテンスがそれを見ていた。
「お気に召しませんか」
「薄くはありません」
「君は国家の鉄道規格より、自分のコーヒーの方に厳しいですな」
「自分で淹れるのは朝の一杯だけですから、失敗したくないのです」
「自分で淹れているのですか?」
「下宿の女中に頼むと、薄いと告げた翌日は泥のようになりますので」
「なるほど。君の私生活について、久しぶりに有益な情報を得ました」
「私的な席ですから」
「ええ。ようやく本来の目的を思い出しましたよ」
メルテンスは笑って、コーヒーへ砂糖を一つ落とした。
「そういえば、先ほどローデン閣下が御家の話をなさっていましたが」
「はい」
「ライフェンベルク家からは、まだ御結婚を急かされませんか。君は嫡流でしょう」
「今日、宰相閣下からも同じことを訊かれました」
ため息交じりにそう言うと、いよいよメルテンスは楽しそうだった。
「ほう、それで?」
「今のところ相手を探してはいないと申し上げました。すると、私の娘はどうだ、と」
「……何とお答えを」
「まことに光栄であります、と」
「それだけですか」
「はい。胃に悪い冗談でしたので」
メルテンスはクラウスの顔を見た。
「何です」
「バルク閣下は、御息女のことで冗談を言う方ではありませんよ」
「…………まさか」
「閣下は随分と一人娘を可愛がっておられるそうです。御令息ばかりの中、遅くに産まれたそうで。今年で二十だとか。そのような相手を、会話の間を埋めるために持ち出すと思いますか?」
「…………………」
メルテンスが吹き出しそうな気配を見せているのはわかったが、それに反応する余裕はなかった。
「いやはや、本当に君は見ていて飽きない。式にはぜひ参列させていただきたいですな。もちろん、招待状を送ってくださるのでしょう?」