面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました 作:濃厚とんこつ豚無双
翌朝、クラウスは宰相府ではなく統帥府へ向かった。
宰相府付軍務官には、十日に一度、原所属である統帥府へ出頭する日がある。
その報告書そのものは前日までに使送で届いている。
口頭で補うのは、紙には書きにくいことと、紙を書いた後で事情が変わったことだった。
もちろん後者の方が多い。おおむね、バルク宰相のせいである。
この日はいつもより、宰相府へ顔を出さずに済むことをありがたく思っていた。
昨夜メルテンス大佐から聞かされた話を、バルク宰相本人へ確かめる心の準備がまだできていなかったからである。
春の朝は薄く曇っていた。
統帥府本館の灰色の石壁は、空の色をそのまま吸ったように見える。
正面玄関の歩哨はクラウスの顔を知っており、通行証を改める前に敬礼した。
しかし受付の若い書記官は、内線管へ向かって、
「宰相府より、ライフェンベルク中佐がお見えです」
と取り次いだ。あくまでも名目としては客人扱いらしい。
慣れた階段を上り、作戦室長室へ向かった。
途中の角を曲がったところで、前から来た少佐が足を止めた。
濃い栗色の髪を短く撫でつけ、鼻筋の通った、やや細い顔をしている。
軍服の線に乱れはなく、脇に抱えた書類綴りも角が揃っていた。
顔には覚えがあった。
だが、名前がすぐに続かなかった。
「ライフェンベルク中佐殿。お久しぶりです」
少しだけ黙った。
何の意図もなく、本当にしばらく思い出せなかったからである。
「…………ザルヴィッツ君?」
少佐の眉が、ごくわずかに動いた。
「ええ。ヨアヒム・フォン・ザルヴィッツ少佐です。思い出しましたかな?」
「失礼。軍学院以来でしたので、つい」
「構いませんよ。中佐殿におかれましては昔の呼び方のままで結構です。こちらは、昔のままというわけには参りませんでしたが」
彼は、陸軍高等軍学院の同期生だった。
卒業席次は、たしか六席。
机上演習で一度も勝てなかったことと、やたらとこちらに挑戦的だったことだけは覚えている。
そこまで思い出して、ようやく顔と名前が完全に重なった。
「本年度より、統帥府作戦室勤務を命ぜられました」
「それは、おめでとうございます」
「東部第六軍団で集結計画を改めまして。昨秋の演習では、予備師団を従来予定より三十一時間早く前進させることができました。軍団長閣下から賞詞もいただいております」
「見事ですね」
ザルヴィッツ少佐は、ほんの少し口元を緩めた。
そこまでは、普通の近況報告に聞こえた。
「東部では、上への覚えがめでたくないと大変でして。まず結果を積み上げませんと、中央では名前すら読んでいただけません」
言葉は穏やかなままだった。
だが、書類綴りを抱える腕がわずかにこわばったように見えた。
「ご苦労があったのですね」
本心からそう言ったのだが、少佐の口元はかえって硬くなった。
「軍学院では、我々は四度お相手しましたな」
「そうでしたか」
「三勝一分です」
「……ええと……君の青軍に、補給線を二度切られたのを覚えています」
「三度です」
「失礼」
ザルヴィッツ少佐は、そこでクラウスの襟章へ一度だけ目をやった。
「それでも、首席は中佐殿でした」
「まあ、総合成績でしたから」
「ええ。総合成績でしたな」
紙に書かれた事実を確認しているだけの会話なのに、なぜか空気が少し冷たかった。
別に成績を決めたのは自分ではないのだが、そこに文句を付けられても困る。
「配属についても、総合的な御判断だったのでしょう。中佐殿は中央。小官は東部国境」
「そのようです」
「中佐殿は昔から、上の方々にお名前をよく知っていただいていた」
「はい。家の名は、よく知られておりますので」
否定しても仕方のないことだった。
ライフェンベルクの姓が統帥府で役に立たなかった、と言えば嘘になる。
問題は自分にとってそれが全くありがたくないことだけだ。
「ええ。羨ましい限りです」
少佐は整った笑みを浮かべた。
少なくとも、親愛から出た笑みではなさそうだった。
「いまは、あの宰相閣下までもが随分とお引き立てになっているとか。軍務の外でも、御活躍の場には事欠かぬようですな」
「よく仕事を増やしていただいております」
「なるほど。中佐殿には軍務よりそちらの方がお向きなのかもしれませんな」
「そうかもしれませんね。私もたまにそう思うことがあります」
正直に答えると、ザルヴィッツ少佐は眉根を寄せた。
その時、少し先の扉が開いた。
同じ中佐の襟章を付けた、金髪と灰色の目の士官が顔を出した。
ハルトゥング中佐だった。
「いつまで廊下におられるのですか。定例報告の時刻です、中佐殿」
「失礼。少し話し込んでしまいました」
「では、また改めて」
ザルヴィッツ少佐が規則どおり先に敬礼し、クラウスが返した。
彼が廊下の向こうへ去るのを見届けてから、中佐が言った。
「彼とは仲が良いのですか?」
「……まあ。軍学院時代から、なぜかよくああして話しかけられます」
「なるほど、個性的なご友人のようで」
「ええ。少なくとも私は、友人に机上演習の勝敗を毎回確認しませんね」
中佐は何も答えず、扉を開けたまま中へ入るよう促した。
◆
統帥府作戦室長の執務室は、相変わらず書類だらけだった。
かつて第三課長だったエッゲン准将も、いまではすっかりこの部屋の主らしくなっている。
クラウスを見ると、わずかに目を開いただけだった。
「来たか。座りたまえ、ライフェンベルク中佐」
中佐と並んでその向かいに座ると、准将は報告綴りの表紙を閉じた。
「まず、宰相府での居心地はいかがかな」
「定例報告の様式に、その項目がございましたか」
「時候の挨拶みたいなものだ。それに、君を貸している側としては重要だ。バルク閣下が使い潰してから返すような男なのは、昔から知っている」
「今のところ、まだ使用に耐えると判断されているようです」
「それは何よりだ。そのまま正式配属されても問題なさそうだな」
「……ご冗談を」
返事が半拍遅れた。
准将は一度だけ目を上げたが、何も言わずに報告書の一枚目を開いた。
「では、昨日の宰相府協議から聞こう」
そこから先は、正式な報告だった。
南東線の軍用枠は、演習補助名目で三段階に拡大する。
民間貨物は一度に止めない。
外務省はハイゼンベルク公使館へ、従来通り夏季演習の範囲であると事前に通知する。
南マルク諸邦の通商上の損失については、別途協議する。
准将は途中で二度だけ質問した。
一度は鉄道局長の反応について。
もう一度は、南マルク代表がどの言葉で返答したかについてだった。
「持ち帰ります、と」
「反対ではなくか」
「はい。少なくとも、その場では」
「なるほど」
准将は報告書の余白に短く書き込んだ。
「それで、君が南マルクへ行くと」
「はい。何も決めるな、約束するな、謝るな、と命じられております」
「ずいぶんと信頼されているな」
「口を使うなとも言われましたので、そこまでのものではないかと」
准将が、わずかに笑った。
「出発は」
「明後日です。翌日午後には南マルク諸邦同盟の盟主国、アーレン王国へ入り、そのまま王都ヴァイスブルンへ向かいます。まずはオトフリート二世陛下への謁見。ほか、諸邦同盟評議会、鉄道委員会、軍務連絡会との面会が予定されております」
中佐は、手元の旅程表へ目を落としたまま、三つの欄に鉛筆で印を付けていた。
「准将閣下」
「何か」
「ハイゼンベルクの演習ですが、統帥府としては、どの程度まで見ておりますか」
「こちらが聞きたいくらいだ。向こうが演習と言えば演習だし、こちらが演習と言えばこちらも演習だ。どちらも嘘はついていない。どちらも本当のことを全部は言っていない」
准将は報告書の角を指先で揃えた。
「嘘のない演習が二つ向き合って、誰かが最初に本当のことを言い出すまで待っている。その間にこちらは計画を書き、向こうも計画を書く」
そのまま、冗談なのか事実なのか分からない声音で続けた。
「だから南マルクの空気は大事だ。あの連中がどちらへ傾くかで、線路の意味が変わる」
「では、その辺りも探るべきでしょうか」
「いや。統帥府から、別に命令を付けるつもりはない」
准将は言った。
「宰相府の任務へこちらの都合を重ねれば、相手にも君にも余計な疑念を与える。ただし、軍人として見えたものまで忘れて帰る必要はない」
「宰相閣下からは、耳だけ持っていけと言われました」
「だとしても、耳を使うために目を閉じろとは言われていまい」
ちょうどそこで、扉が叩かれた。
副官が入り、統帥府総長室での会議時刻を告げる。
准将は懐中時計を見た。
「続きはハルトゥングと詰めたまえ。南マルク軍務関係者の名簿と、鉄道委員会の資料は揃えてある」
「准将閣下への報告は、以上でしょうか」
「以上だ。君がまだ軍服を着ていることも確認できた」
「以後もその予定です」
「宰相府の予定が守られるならな」
冗談なのだろうが、あまり笑える気にはならなかった。
准将はそれだけ言い、書類を一綴り抱えて部屋を出ていった。
◆
扉が閉まると、部屋には中佐だけが残った。
中佐は旅程表を自分の方へ引き寄せ、先ほど印を付けた箇所を確認した。
「先ほどのザルヴィッツ少佐ですが」
「はい」
「東部第六軍団の集結案は私も読みました。確かに、あなたよりは参謀向きかと思います」
「そうですね。私もそう思います」
あまりに素直に答えたためか、中佐の手が一瞬だけ止まった。
「とはいえ、統帥府に必要なのは――」
そこで言葉が切れた。
中佐の視線は旅程表に落ちたままだった。
鉛筆の先が、印を付けた欄の縁を一度なぞった。
「……中佐殿?」
「……あなたの方でしょうね」
「え?」
言ってしまった以上は最後まで説明することにしたらしい。
いつものように、表情をほとんど変えずに続けた。
「参謀としての資質であれば、私の方が彼より優れていますので」
「はあ」
「彼が加わっても、できることが増えません」
しばらくその言葉を考えた。
最近の中では一番誉め言葉に近いのではないか、と思った。
「……褒められています?」
「褒めています」
「……ありがとうございます」
「礼を言われるほどのことではありません。単なる能力評価です」
「なおさら、ありがたく受け取っておきます」
別にザルヴィッツに勝ちたいわけではないが、それはそれとしてこの中佐に評価されることは素直にうれしくもあった。
中佐は小さく息を吐き、南マルク諸邦同盟の関係者名簿を開いた。
「軍務連絡会に出るのは、この三人です。もっとも、発言そのものは大して重要ではないでしょう」
「と言いますと」
「公の席で言えることなら、後で議事録に載ります。見るべきは、誰の発言に誰が口を挟まず、誰が急に別の話を始めるかです」
「宰相閣下と似たようなことを仰いますね」
「不本意ですな」
本気で嫌そうな声音だった。
中佐は名簿の横へ、ハイゼンベルク方面の鉄道路線図を置いた。
線路の色、軍管区の境、倉庫の位置。
まだ駒は置かれていない。
だが紙の上にはすでに、戦争になった場合に必要となるものだけが静かに揃っていた。
「ハイゼンベルクとは、戦争になるのですか」
中佐が顔を上げた。
「統帥府で、戦争のこと以外を考えると?」
そして、ほんのわずかに口元を動かした。
「すっかり宰相府の人間になりましたな」
「失礼しました。宰相府では、戦争にならずに済むかを考えますので」
「こちらでは、済まなかった時に考えていませんでしたと言わぬための紙を作るのが仕事です。忘れましたか?」
「中佐殿は、なると思っておられるのですか」
「分からないから作っているのです。分かってからでは遅い」
中佐は、路線図の端を指で揃えた。
「ならなければ、この紙はどうなります」
「廃紙です。計画ごと」
「惜しいですか」
「まさか。使わずに済むなら、その方が楽です」
返答には、少しの迷いもなかった。
「しかし、計画を立てると実行したくなるのが人間でもあります」
中佐は路線図を畳んで脇へ寄せ、何事もなかったように関係者名簿へ視線を戻した。
「では、次です」
定例報告は、まだ終わっていなかった。